三
「おお夜が明けたようだ……」
つぶやく声といっしょに、伊那丸のすがたは、しずかにそこへあらわれた。じたばたすると思いのほか、落ちつきはらったようすに、四天王の者どもはやや拍子《ひようし》ぬけがしたらしい。
「歩けッ」
左右からせきたてて、小船の板子《いたご》をしいた死の座《ざ》へ伊那丸《いなまる》をひかえさせた。そして床几《しようぎ》にかけた梅雪《ばいせつ》に目礼《もくれい》をしてひきさがる。
「おッ、伊那丸さま——」
「あ! そなたは」
席をならべて伊那丸と咲耶子《さくやこ》は、たがいにはッとしたが、彼女は、せつなに顔をそむけ、なにげないようすをした。で伊那丸も、さまざまな疑惑《ぎわく》に胸をつつまれながら、眸《ひとみ》をそらして、こんどはきっと、入道《にゆうどう》の顔をにらみつけた。——梅雪《ばいせつ》もまけずに、
「こりゃ伊那丸、さだめし今まで窮屈《きゆうくつ》であったろうが、いますぐ楽《らく》にさせてくれる。この世の見おさめに、泣くとも笑うとも、ぞんぶんに狂って見るがいい」
と、にくにくしい毒口《どくぐち》をたたいた。
「さて大人気《おとなげ》ない武者《むしや》どもよ——」
伊那丸は声もすずしくあざわらって、
「わしひとりの命《いのち》をとるのに、なんとぎょうぎょうしいことであろう。冥土《めいど》におわす祖父信玄《そふしんげん》やその他の武将たちによい土産話《みやげばなし》、甲州侍《こうしゆうざむらい》のなかにも、こんな卑劣者《ひれつもの》があったと笑うてやろう!」
「えい、口がしこいやつめ、民蔵《たみぞう》、早々《そうそう》この童《わつぱ》の息のねをとめてしまえ!」
梅雪は、号令《ごうれい》した。
声におうじて、
「はッ」と、武者《むしや》ぶるいして立ちあがった民部《みんぶ》は、伊那丸《いなまる》のうしろへまわって、ピタリと体をきめ、見る目もさむき業刀《わざもの》をスラリと腰からひきぬいた。
「お覚悟《かくご》なさい! 太刀取《たちと》りの民蔵《たみぞう》が君命によってみ首《しるし》はもうしうけた」
「…………」
覚悟——それは伊那丸にとっていまさらのことではない。かれは一|糸《し》とりみだすさまもなく、観念の眼をふさいでいる。
正面《しようめん》の梅雪入道《ばいせつにゆうどう》をはじめ、四天王《してんのう》以下の大衆も、かたずをのんで、民部の太刀と伊那丸のようすとを見くらべていた。
湖水の波も心あるか、冷《つめ》たい風を吹きおこして、松の梢《こずえ》にかなしむかと思われ、陽《ひ》も雲のうちにかくされて、天地は一瞬《いつしゆん》、ひそとした。
そのとき、民部の口からかすかな声。
「八幡《はちまん》」
水もたまらぬ太刀をふりかぶッて、伊那丸の白い頸《くび》をねらいすました。——と、そのするどい眼気《がんき》が、キラと動いたと見えた一瞬、
「ええいッ!」
武田伊那丸《たけだいなまる》の首が落ちたかとおもうと、なにごとぞ、梅雪のまッこうめがけて、とびかかった小幡民部《こばたみんぶ》、
「悪逆無道《あくぎやくむどう》の穴山入道《あなやまにゆうどう》、天罰《てんばつ》の明刀《めいとう》をくらえ!」
耳をつんざく声だった。
ふいをくった梅雪《ばいせつ》は、ぎょうてんして身をさけようとしたが、ヒュッと、眉間《みけん》をかすめた剣光《けんこう》に眼もくらんで、
「わーッ」額《ひたい》の血しおを両手でおさえたまま、床几《しようぎ》のうしろへもんどり打ってぶッたおれた。
「曲者《くせもの》」愕然《がくぜん》と、おどりあがった四天王《してんのう》たち。同時に、その余《よ》の群猛《ぐんもう》も渦《うず》をまいて、
「うぬッ、気が狂《くる》ったかッ」
「裏切者《うらぎりもの》ッ——退《の》くな」
とばかり、一どに総立《そうだ》ちになるやいなや、民部《みんぶ》の上へ、どッとなだれを打ってきた剣《つるぎ》の怒濤《どとう》。