三
「なんじゃ、民部《みんぶ》」
「お怒《いか》りにかられて、これより人穴《ひとあな》の殿堂へかけ入ろうという思《おぼ》し召《め》しは、ごもっともではござりますが、民部はたってお引きとめもうさねばなりませぬ」
「なぜ?」伊那丸《いなまる》はめずらしく苦《にが》い色をあらわした。
「けっして、かれをおそれるわけではありませぬが、音にきこえた天嶮《てんけん》の野武士城《のぶしじよう》、いかに七|騎《き》の勇があっても攻めて落ちるはずのものとは思われませぬ」
「だまれ、わしも信玄《しんげん》の孫《まご》じゃ! 勝頼《かつより》の次男じゃ! 野武士のよる山城ぐらいが、なにものぞ」
かれにしては、これは稀有《けう》なほど、激越《げきえつ》なことばであった。民部には、またじゅうぶんな敗数の理《り》が見えているか、
「いいや、おことばともおもえませぬ」
と、つよく首をふって、
「いかに信玄公《しんげんこう》のお孫であろうと、兵法をやぶって勝つという理《り》はありませぬ。なにごとも時節がだいじです。しばらくこの裾野《すその》にかくれて呂宋兵衛《るそんべえ》が山をでる日を、おまちあそばすが上策《じようさく》とこころえまする」
「そうだ」
その時、横からふいにことばをはさんだのは竹童《ちくどう》で、さらに頓狂《とんきよう》な声をあげてこうさけんだ。
「そうだ! おいらもうっかりしていたが、そいつは今夜きっと山をでるよ、うそじゃない、きっと山をでる! 山をでる!」
「竹童、それはほんとうか」
民部《みんぶ》は、目をかれにうつした。
「うそなんかおいら大きらいだ、まったくの話をするとお師匠《ししよう》さまが呂宋兵衛《るそんべえ》に、おまえの命《いのち》はこよいのうちにあぶないぞっておどかしたんだよ。おいらはその使いになって、今夜|子《ね》の刻《こく》(十一時から一時)のころに、裾野《すその》四里四方|人気《ひとけ》のないところへでて、層雲《そううん》くずれの祈祷《きとう》をすれば助かると、いいかげんなことを教えてきてあるんだけれど、それも、いま考えあわせてみると、みんなお師匠さまがさきのさきまでを見ぬいた計略《けいりやく》で、わざとおいらにそういわせたにちがいない」
おどろくべき果心居士《かしんこじ》の神機妙算《しんきみようさん》、さすがの民部もそれまでにことが運んでいようとは気がつかなかった。
子《ね》の刻《こく》一|天《てん》までには、まだだいぶあいだがある。伊那丸《いなまる》は一同にむかい、それまではここにあって、じゅうぶんに体をやすめ、英気をやしなっておくように厳命した。
竹童は勇躍《ゆうやく》して、
「それでは夜中になると、まためざましい戦いがはじまるな。おいらもいまからしっかり英気をやしなっておくことだ……」
と、クロをだいて、お堂の端《はし》へゴロリと寝てしまった。
と、かれは横になるかならないうちに、
「おや、笛《ふえ》が鳴ったぞ」
と頭をもたげてキョロキョロあたりを見まわした。見ると、咲耶子《さくやこ》がただひとり、社前《しやぜん》の大楠《おおくすのき》の切株《きりかぶ》につっ立ち、例の横笛を口にあてて、音《ね》もさわやかに吹いているのだった。
竹童は初めのうち、なんのためにするのかとうたがっていたらしいが、まもなく、笛の音《ね》が裾野《すその》の闇《やみ》へひろがっていくと、あなたこなたから、ムクムクと姿をあらわしてきた野武士《のぶし》のかげ。それがたちまち、七十人あまりにもなって、咲耶子のまえに整列したのにはびっくりしてしまった。
咲耶子は、あつまった野武士たちに、なにかいいわたした。そしてしずかに伊那丸《いなまる》の前へきて、
「この者たちは、いずれも父の小角《しようかく》につかえていた野武士でござりますが、きょうまで、わたくしとともにこの裾野へかくれ、折があれば呂宋兵衛《るそんべえ》をうって仇《あだ》をむくいようとしていた忠義者《ちゆうぎもの》でござります。どうかこよいからは、わたくしともどもに、お味方にくわえてくださりますよう」
伊那丸はまんぞくそうにうなずいた。
時にとって、ここに七十人の兵があるとないとでは、小幡民部《こばたみんぶ》が軍配《ぐんばい》のうえにおいても、たいへんなちがいであった。
ましてや、いまここに集められたほどの者は、みなへいぜいから、咲耶子《さくやこ》の胡蝶《こちよう》の陣に、練《ね》りにねり、鍛《きた》えにきたえられた精鋭《せいえい》ぞろい。
かくて一同は、敵の目をふさぐ用意に、ばたばたとかがり火を消し、太刀の音《ね》をひそませ、箭《や》づくり、刃《やいば》のしらべはいうまでもなく、馬に草をも飼《か》って、時刻のいたるをまちわびている。
待つほどに更《ふ》くるほどに、夜はやがて三|更《こう》、玲瓏《れいろう》とさえかえった空には、微小星《びしようせい》の一粒までのこりなく研《と》ぎすまされ、ただ見る、三千|丈《じよう》の銀河《ぎんが》が、ななめに夜の富士《ふじ》を越えて見える。
「グウー、グウ、グウーグウ……」
そのなかで、竹童《ちくどう》ばかりが、鷲《わし》の翼《つばさ》をはねぶとんにして、さもいい気もちそうに、いびきをかいて寝こんでいた。