五
その時だった。
竹童《ちくどう》と蚕婆《かいこばばあ》の問答《もんどう》をよそに土《ど》|べっつい《ヽヽヽヽ》の火にむかって煙草《たばこ》をくゆらしていた脚絆《きやはん》わらじの男が、ふいに戸外《おもて》へ飛びだしてきた。
男は、やにわに、竹童の首ッ玉へ、うしろから太腕を引っかけて、かんぬきしばりに、しばりあげた。
「鞍馬山《くらまやま》の小僧《こぞう》、いいところであった!」
「くッ、くッ……」
竹童はのどをひッかけられて声がでない。顔ばかりをまッ赤《か》にし、喉首《のどくび》の手を、むちゃくちゃにひッかいた。
「ちッ、畜生《ちくしよう》。きょうばかりはのがしゃしねえ」
「だれだいッ、くッくくくくるしい」
「ざまあみやがれ。小《ち》っぽけなぶんざいをしやがって、よくも武田伊那丸《たけだいなまる》の諜者《ちようじや》になって、人穴《ひとあな》へ飛びこみ、おかしらはじめ、多くの者をたぶらかしやがったな。その返報《へんぽう》だ、こうしてやる! こうしてやる」
と、なぐりつけた。
「くそウ! |おいら《ヽヽヽ》だって、こうなりゃ鞍馬山の竹童だ」
と、ぼつぜんと、竹童《ちくどう》もはんぱつした。
なりこそちいさいが、必死の力をだすと、大人《おとな》もおよばぬくらい、ねじつけられている体《からだ》をもがいて、男の鼻と唇《くちびる》へ指をつッこみ、鷲《わし》のように爪《つめ》を立てた。
「あッ」
これにはさすがの男も、やや|たじたじ《ヽヽヽヽ》としたらしい。ゆだんを見すまし、竹童は腕のゆるみをふりほどくが早いか一目散《いちもくさん》——
「おまえみたいな下《した》っ端《ぱ》に、からかってなんかいられるもんかい!」
すてぜりふをいって、あとをも見ずに逃げだした。
「バカ野郎《やろう》」
男は割合《わりあい》に落ちついて見送っている。
「そうだそうだ。もッと十町でも二十町でも先に逃げてゆけ、はばかりながら、てめえなんかに追いつくにゃ、この燕作《えんさく》さまにはひと飛びなんだ」
この男こそ、燕作だった。さてこそ、竹童を伊那丸《いなまる》の手先と見て、組みついたはず。
かれは、首尾《しゆび》よく、丹羽昌仙《にわしようせん》の密書をとどけて、ここまで帰ってきたものの、人穴《ひとあな》城の洞門《どうもん》はかたく閉《し》められ、そこここには伊那丸の一党《いつとう》が見張っているので、山寨《さんさい》へも帰るに帰られず、蚕婆《かいこばばあ》の家《うち》にかくれていたものらしい。
「あの竹童のやつをひっ捕《と》らえていったら、さだめし呂宋兵衛《るそんべえ》さまもお喜びになるだろうし、おれにとってもいい出世《しゆつせ》仕事だ。どれ、一つ追いついて、ふんづかまえてくれようか」
いうかと思うまに、もう燕作《えんさく》は、礫《つぶて》のとんでいくように走っていた。それを見るとなるほど稀代《きたい》な早足《はやあし》で、日ごろかれが、胸に笠《かさ》をあてて馳《か》ければ、笠を落とすことはないと自慢しているとおり、ほとんど、踵《かかと》が地についているとは見えない。
竹童《ちくどう》も、逃げに逃げた。折角村《おりかどむら》から蛭《ひる》ケ岳《たけ》の裾《すそ》を縫《ぬ》って街道にそって、足のかぎり、根《こん》かぎり、ドンドンドンドンかけだして、さて、
「もうたいがい大じょうぶだろう——」と立ちどまり、ひょいとあとをふりかえってみると、とんでもないこと、もうすぐうしろへ追いついてきている。
「あッ」またかける。燕作もいちだんと足を早めながら、
「やあい、竹童。いくら逃げてもおれのまえをかけるのはむだなこッたぞ」
「おどろいた早足だな、早いな、早いな、早いな」
さすがの竹童も敵ながら感心しているうちに、とうとう、ふたたび燕作のふと腕が、竹童の襟《えり》がみをつかんで、ドスンとあおむけざまに引っくりかえした。
そこは、釜無川《かまなしがわ》の下《しも》、富士川《ふじがわ》の上《かみ》、蘆山《あしやま》の河原《かわら》に近いところである。燕作は、思いのほかすばしッこい竹童をもてあまして、手捕《てど》りにすることをだんねんした。そのかわり、かれはにわかにすごい殺気を眉間《みけん》にみなぎらせ、
「めんどうくせえ、いッそ首にして呂宋兵衛《るそんべえ》さまへお供《そな》えするから覚悟《かくご》をしろ」とわめいた。
ひきぬいたのは、二尺四寸の道中差《どうちゆうざし》、竹童はぎょッとしてはね返った。とすぐに、するどい太刀風《たちかぜ》がかれの耳《みみ》たぶから鼻ばしらのへんをブーンとかすった。
哀れ竹童、組打ちならまだしも、駈《か》け競《くら》べならまだしものこと——真剣《しんけん》の白刃交《しらはま》ぜをするには、悲しいかな、まだそれだけの骨組もできていず、剣をとっての技《わざ》もなし、第一、腰に差してる刀というのが、頼みすくない樫《かし》の棒切《ぼうき》れだ。