三
「それはようおいでなされました。さだめし、昌仙さまのお手紙で、多くの軍兵《ぐんぴよう》を秀吉《ひでよし》さまからおかしくださることになるのでございましょうね」
「いや、とにかく軍師《ぐんし》と会って、そうだんをしてみたうえじゃ。ところがこれなる燕作《えんさく》のもうすには、しょせん人穴城《ひとあなじよう》へは入れぬとのこと、せっかくここまでまいりながら、呂宋兵衛《るそんべえ》どのにも軍師《ぐんし》にも、会わずにもどるとは残念|千万《せんばん》」
「いえいえ。そういう大事なお使者なら、たった一つ人穴城へぬける秘《かく》しみちへ、ごあんないいたしましょう。これ燕作さん、おめえちょっと、裏表《うらおもて》にあやしいやつがいないかどうか検《あらた》めておくれ」
「がってんだ」と燕作が家のあたりを見まわしてきて、
「だれもあやしいような者はいない。ないているのは鹿《しか》ぐらいなもの——」
というと、蚕婆は、はじめて安心して、じぶんのすわっている下の蓆《むしろ》を、グルグルと巻きはじめた。
おやと、燕作がびっくりしている間《ま》に、さらに、二|畳敷《じようじき》ほどな床板《ゆかいた》をはねあげると、縁《えん》の下は四角な井戸のように掘り下げられてあった。顔をだすと、つめたい風がふきあげてくる。
「ここをおりると、あとは人穴城《ひとあなじよう》の地下洞門《ちかどうもん》のなかまで三十三町一本道でいけますのじゃ、さ、人目にかからないうちに、すこしもはやく、おこしなさるがよい」
と蚕婆《かいこばばあ》がせきたてると、才蔵《さいぞう》は、間道《かんどう》の口をのぞいてから、ふいと顔をあげて、
「婆《ばばあ》、杖《つえ》にして飛びこむから、長押《なげし》にかかっているその錆槍《さびやり》を、かしてくれい」
と指さした。婆は彼のいう通り、石突《いしづ》きをたよりに、下へ降《お》りるのであろうと、なんの気なしに取って渡すと才蔵《さいぞう》は、
「かたじけない」
と受けとって、ポンと、槍《やり》の石突きを下へ降《お》ろすかと見るまに、意外や、電光石火《でんこうせつか》、
「やッ——」
と一声、錆槍《さびやり》の穂先《ほさき》で、いきなり真上の天井板《てんじよういた》を突いた。とたんに、屋根裏を獣《けもの》がかけまわるような、すさまじい音が、ドタドタドタ響《ひび》きまわった。
「やッ、なんだ——」
と蚕婆と燕作が、飛びあがっておどろくうちに、才蔵は、すばやく間道《かんどう》のなかへ姿をかくして、下からあおむいて笑っている。
「おどろくことはない、天井うらに忍《しの》んでいたやつは、徳川家《とくがわけ》の菊池半助《きくちはんすけ》だ、これで隠密落《おんみつお》としの禁厭《まじない》がすんだから、もう安心。燕作《えんさく》、はやくこい!」
「じゃあ婆《ばあ》さん、あとはたのむよ」
と燕作もつづいてなかへ姿をけした。その足音が地の下へとおざかるのを聞きながら、蚕婆《かいこばばあ》はすぐもとのとおり床板《ゆかいた》や蓆《むしろ》を敷《し》きつめ、壁にかかっている獣捕《けものと》りの投げ縄《なわ》をつかむが早いか、いきなりおもてへ飛びだした。
「いやがった!」
かがりのような目を磨《と》ぎすまして、あなたこなたを見まわした蚕婆は、ふと、七、八|間《けん》さきの闇《やみ》のなかで、なにやらうごめいている人影を見つけて、じっとねらった。
と——それはまぎれもなく、天井裏《てんじよううら》で膝《ひざ》を突かれた曲者《くせもの》が、小川の水で傷手《いたで》を洗っているのだ。頭から足のさきまで、烏《からす》のように黒装束《くろしようぞく》をした隠密《おんみつ》の男、すなわち徳川家《とくがわけ》からまわされた菊池半助《きくちはんすけ》。
「おうッ!」
ふいに吠《ほ》えるような蚕婆の声とともに、さすがは半助、足の痛手《いたで》を忘れて、ポーンと小川を跳《と》びこえたが、よりはやく、闇《やみ》のなかを飛んできた投げ縄《なわ》の輪が無残、五体にからんでザブーンと、水のなかへ捕《と》りおとされてしまった。