一
渋沢栄一からの手紙には、
啓呈
と、謹直な書体で、
(——しばらく藩邸の各位や、道場の諸兄に、お世話に相成っていたが、一身上の都合で、目下は郷里高崎在に帰省いたしている。先頃、柳原土手で、ちらと、お姿を拝したが、仔細《しさい》あって、わざと、お別れのご挨拶もせずに失礼した。近く、ご拝眉《はいび》の機を得て、万語《ばんご》お詫《わ》び申しあげるつもり——)
そんな意味に、加えて、
(尊兄の大成を祈る)
と、むすんであった。
庄次郎は、ほッとした。心配していた金の件にはふれていないし、催促がましい辞句はどこにも見当たらない。
「じゃあ、あのとき、田舎へ帰省《か え》ったのだな……」
柳原土手で、町人用の古着を買っていた渋沢の姿が、目にうかぶ。庄次郎は、
「まず、当分はいいぞ」
と、安心したが、同時に、近くご拝眉の機を得て——が少々気にかかる。近くといえば、いつ来るかわからない。そのときには、きっと、催促だろう。かなり、厳談を覚悟していなければならない。何せよ、大金だし、容《い》れ物《もの》ぐるみ借りたままで、その財布すら返してないのだ。
「弱った」
手紙は、もう一通、机の上に来ている。まだ、この方がいい。板新道のお蔦からである。なにを云ってよこしたのか。
まいちど、お顔も見たし、お話も山々ありますゆえ、
明日の晩、いつぞやの水道橋まで、お越し下さいませ。
お待ちしています。(こがるる蔦)
「あ。こんな物、親父に見られたら一大事だ」
庄次郎は、顔をあかくした。そして二本の手紙を、飴捻《あめね》じのように捻じッて、窓から藪へ捨ててしまった。なんの未練も、魅惑もない。
「馬鹿……。あしたの晩は、婚礼だ。俺の婚礼だ」
仰向けに、ごろりと寝る。
青春のおわかれだ。今日一日で、俺もくすぶった女房持ちの群れに入るのだ。そう思うと、庄次郎も、多少は、感傷的になるとみえる。
「どうしてだろう、婚礼なんて、少しも、楽しくないものだ……」
庄次郎は、お蔦に興味がないように、明日の花嫁にも、さっぱり期待がなかった。そして、お喜代のことばかりが頭へのぼってくる。妙に、こびりついている。あの疋田《ひつた》鹿《か》の子《こ》やら、眸やら、それに、声だのが。
「もいちど、会いたい。——女房持ちになる前に」
襖《ふすま》があいた。
八十三郎が顔をだしている。
「兄上、およびですぞ」
寝たまま、首を擡《もた》げて、
「だれが」
「新調のご紋服や、裃《かみしも》が縫えて参りました。一度、お召しになってみるようにと、叔父《お じ》御《ご》や、親類の女どもが申しまする」
「寸法に合わせて仕立てたものなら、着てみないでも、いいではないか」
「そうですか」
「そうだとも」
「諸方様から、お祝いの品々が参っています。いちど、ご覧なされては」
「いいよ、うるさい」
「どうかなさいましたか」
「どうもせん」
「明日《あ す》が、楽しみやら、待ちどおしいやらで、もう、うつつなので——」
突然、
「馬鹿っ——」
庄次郎は、弟の足もとへ、扇子を抛《ほう》りつけて、どなった。
「拙者が、何を考えてるか、貴様などに、わかるか。あッちへ行ってろッ」