間もなく、ゆみ子は自分の返事の重大さに気付いた。閉店の時刻が迫ってくる。躯を男に与え、できるだけ有利な取引を試みてたくさんの金を受取る気持にはなれない。よう子ならば、即座にその方法を選ぶだろうが、とゆみ子はおもった。木岡の表情をうかがってみたが、相変らずの無表情である。
ゆみ子は、短かい時間に、懸命に頭を働かせた。自分一人の才覚にたよらねばならぬ場所に追いこまれたのだ。化粧室に行き、るみを呼んだ。
「るみちゃん、今夜なにか用事があって」
「べつに、無いわ」
「お願い、たのまれて頂戴」
耳もとでささやくと、一瞬、るみは不機嫌な顔をみせて、
「注意してあげたのに、あんな返事をするからよ」
しかし、すぐに思い直した口調で、言った。
「でも、それも面白いかもしれないわ」
油谷とゆみ子は二人だけで、戸外へ出た。
「ボーリングでもしに行きましょうか」
と、ゆみ子は言ってみたが、その遊戯をしたことはない。
「遊ぶといったからといって、子供じゃないんだぜ」
「ボーリングは、子供の遊びじゃないけど。でも分ったわ。わたしの知っているホテルで構いません」
「まかせよう」
と言い、彼は素早くタクシーを呼びとめた。ゆみ子のアパートの近くに、二人連れの男女のためのホテルがある。夜更けに店から戻ってくるたびに、そのネオンの紫がかった赤色が、ゆみ子の眼に映った。そのホテルのある町の名を、運転手に告げた。
部屋に案内されて、女中の姿が消えると、男はすぐに上衣を脱いだ。
「風呂に入ろう」
「ええ、すぐあとから行きます」
男が浴室に入ってしばらくすると、女中が茶を運んできた。ゆみ子は紙幣を女中の掌に押しこんで、ささやいた。女中は、一瞬、無表情になり、ゆっくり頷いた。
「はやく、きたまえ」
男の声が浴室にこもって、大きくひびいた。黙っていると、浴室の戸を開く音がして、同じ言葉を繰返す男の声が聞えてきた。
「からだを拭くのが、めんどくさいの」
ものうい声をつくったつもりだったが、硬い声音になったのが分った。
「キザなことを言うもんじゃないよ。はやく入りにきたまえ」
「でも、お店に行く前に、入ったばかりですもの」
「入りたまえ。何度入っても、減るものじゃないよ」
ゆみ子は黙って、坐っていた。やがて、浴衣姿になった男は彼女の前にあぐらをかき、机の上のコップのビールを、一息に飲み干した。喉ぼとけが、勢よく上下に動くのがみえた。
「うまい、泣きたいほどうまい」
と言い、ゆみ子の躯を味わうようにゆっくりと眺めた。
そのとき、戸の外で声をかけた女中が、若い女を伴って入ってきた。
「るみじゃないか。どういうことだい、これは」
「どういうことって、油谷さん、あたしにここへ来るようにとお店で言ったじゃないの」
「るみちゃんとも約束したの、でも、わたし怒らないわ。丁度よかったわ、油谷さん、さびしいのでしょ、三人でにぎやかに騒ぎましょうよ」
そう言ったとき、ゆみ子の心に、傷口に薬のしみるような快さが走った。
「おれは、にぎやかに騒ごうとはおもってないぞ。さびしいから躯を横にしたいのだ」
「それなら、どうぞご遠慮なく、横になったら」
るみが、含み笑いをしながら言う。油谷は、二人の女の顔を見くらべていたが、立上って襖を開いた。そこには、夜具がのべられてある。白い枕が二つ並んで、枕もとには水差しとコップと灰皿。電気スタンドが、薄明るくともっている。
油谷は敷居の上に立ち、その部屋とゆみ子の顔を見くらべていたが、不意に叫んだ。
「くやしい」
陽気な声である。どすんと、布団のうえに躯を投げ出すと、仰向けになって両脚をばたばたさせた。海軍士官をおもわせる姿勢が崩れて、肥満した大きな腹が目立った。
「さて、横におなりになったから、あたしたちは花札でも引きましょうよ」
先刻の陽気な叫び声と、いま静かになって天井を眺めている油谷のことが、ゆみ子の気にかかった。るみにせき立てられて、向い合うと、覚束ない手つきで花札を弄《いじ》りはじめた。
「誰かさんは、花札には目が無いんだったっけ」
るみが独り言めかして、大きな声で言うと、油谷はまた脚をばたばたさせ、
「くやしい」
と、叫んだ。
女たちは、声を合せて笑ったが、その笑い声がおさまると、彼は平静な声で言った。
「さて、これでこの場の形がついた」
「負けおしみ……」
るみは呟きながら、花札を扱う。極彩色の絵の札と札とが、音をたてて打ち合される。しばらくの間、部屋が静かになり、音だけがつづいた。
「ひどい音を出すもんだなあ。るみの音も、ひどいものだ。おまえは駄目な女だね、修業が足りないよ。もっと、冴えた硬い音が出るようにならなくては駄目だ」
油谷がむっくり起き上ると、そう言った。仕返しに悪口を言っている調子ではない。むしろ淡泊に、事実についての感想を述べている口調である。
「とうとう我慢できなくて、出てきたわ」
「それもあるが……」
彼は向い合っている二人の女の傍に立ち、花札を見下ろし、つづいてゆみ子を見た。
「今夜のことは、るみの企みではなさそうだな」
「あたしです」
ゆみ子の声音に、気負いと不安とが混った。
「そうだろう。だから、許してやった。こういう具合に、この場の形をつけたのは、なにも、おれ自身のためばかりじゃない。一生懸命たくらんでいる感じが、はっきり分ったよ。いたいたしいくらいだ。だから、おれが負けることにしたんだ。いいか、企み自体はひどく泥くさいものだぜ。もっと気のきいたやり方がある筈だ」
そう言い終ると、油谷はその場にあぐらをかいて、勝負に加わった。
「やっぱり負けおしみ……」
るみが呟き、油谷は苦わらいして、
「いくぶん、その気味もあるな」
勝負がはじまって、しばらくすると油谷がゆみ子に言った。
「きみの腕では、まだ無理だ。さきにそっちの部屋で寝るといい」
言葉に棘は無くて、むしろ労る口ぶりである。
油谷とるみの差し向いの勝負になった。ゆみ子は傍に坐ったまま、二人の勝負を眺めていた。たしかに、彼の合せる札は、冴えた硬い音をたてた。彼の勘は冴え、あらかじめ計算でもしてあるように札が起きた。手にもった札のうちから、桐の札を場に捨てる。場に積み上げてある札に指先をかけ、
「桐」
と、予言するように言い、札をめくる。はたして、鳳凰《ほうおう》と桐の図柄の札があらわれ、捨てた札と音をたてて合さる。冴えた硬い音は、彼の掌がるみの頬で鳴っているような錯覚が起り、るみの負けが嵩《かさ》んだ。
「あたし、負けたのかしら」
紅葉《もみじ》に鹿が一匹、菊の花のそばの赤い盃、萩の叢にうずくまる野猪、雨に濡れる柳の枝をかすめて飛ぶ燕……、さまざまの絵札に眼をはなちながら、ゆみ子はあいまいな気持で考えていた。
「でも、油谷という男の狙いをはずすことはできたのだもの」
相手がしたたかだった、とゆみ子はおもった。ほかの男ならば、いまごろはその男の惨めな顔を見ることができていたにちがいない。
不意に、傷口に薬のしみるような快さを、ゆみ子はおもい出した。油谷をはぐらかすことを懸命に考えていたのだが、その快さをひそかに待ちもうける気持も動いていたことに、ゆみ子は気付いた。
やわらかい肌、細い骨、触れられるとすぐに形が変ってくる二つの乳房。そういう女の弱点が、たちまちのうちに男を苛立たせ悩ませる武器に転じる瞬間を、ひそかに待ち構えていたのではなかろうか。
「水商売に入ったばかりにしては、上出来だわ」
と、ゆみ子はそこに考えを落着けたが、すぐに思い直した。
「女なら、誰でもできることなのかもしれない」
そして、ゆみ子は頭の中に木岡の顔を浮べ、
「勤まりそうだわ」
と、呼びかけていた。