早生れと遅生れとあって、私は四月十三日生れなのに、親がなにを考えたのか四月一日生れとして届けを出した。
つまり、戸籍面ではエープリル・フールの日に生れたことになる。
そのために早生れになってしまい、十三日生れで届けた場合にくらべて、一年早く小学校に行くことになった。世間では三月三十一日までが早生れとおもっている人が多いが、それは間違いである。
六、七歳のころの一年の差というのは、発育に大きな違いがある。
いまでは百七十センチ六十キロだから、中肉中背になっているが、当時はチビのほうであった。
チビのくせに、やたらに気が強く、毎日殴り合いの喧嘩《けんか》ばかりしていた。
アメリカ映画などでは、殴り合いをして片方がひっくり返っても、また起上ってきて、どちらかが動けなくなるまでつづく場面がしばしば出てくる。
わが国では、とくに当時は相手が倒れれば、そこで勝負がきまる。これは、大相撲という伝統の影響であろうか。
私には、敏捷《びんしよう》なところがあったので、かなり大きな図体の相手でも、倒した。
あまり負けたことがなかったので、クラス随一の男とケンカをしてみた。
場所は体育館だったが、一瞬の間に組み敷かれ、ポカポカ殴られた。あまりに簡単に結着がついたので、殴られながら内心あきれていたが、それでも懲りない。
そういう按配が中学二年までつづき、ある日フト悟るところがあって、一切ケンカをやめた。
それでも相手が殴りかかってくる場合には、この上なく弱い。
これは一つ話になっていて、私の友人たちはみな知っていることだが、二十代のころヤクザに殴りかかられた。相手のゲンコツが私の頬をかすめたとたん、五メートルほどすっ飛んでみせた。
相手はあまりの弱さにあきれ返って、そのまま立去ってしまった。
以来、弱さに徹することにしている。
一方、近藤啓太郎は、背も私より十センチくらい高く、いかにも強そうである。事実、カッとすると相当な戦果を上げてきた。
そのコンドウが、ある日しみじみと言った。
「おい、結局世の中は、おまえみたいに弱くしていたほうがいいなあ」
どうしたのか聞いてみた。
コンケイは、千葉|鴨川《かもがわ》に住んでいて、月に二回くらい列車に乗って上京してくる。その車中の出来事を話してくれた。
二十年前くらいにはじめてコンドウに会ったときには、鴨川中学の絵の先生をしていた。その前には、漁師の手伝いをしていた、というので、生れてからずっとその土地で過していたのだとおもった。
私もけっして上品なほうではないが、彼にはそうおもわせるだけの、なんというか、ま、感じがあったのだ。
ところがよく聞いてみると、これが違った。
東京育ちで上野の美校を出て、戦後は三鷹の大邸宅に住んでいた、という。食い詰めて家を売り、鴨川に移住したわけである。
彼には一種の巨大癖があって、大荷物を送ってくれるので開いてみると、ワカメやヒジキが詰まっていたりする。
上京のときにも、獲《と》れたての魚を籠に入れて、しばしば持ってきてくれる。