ある日、ある人から電話があって、
「釣れたばかりの素晴らしいブリが手に入ったから、届けましょう」
というので、有難く頂戴することにした。
やがて、その人が大きな魚を持ってあらわれた。まず、魚の顔を眺める。同じ種類の魚でも、顔の良し悪しがあって、それが味にも関係してくるという。
どういう顔がウマイのか私にはよく分からないが、やはり品《ひん》のいい顔のほうが味がよいという説がある。たしかに、いかにもマズそうな面《つら》をしている魚がいるが、あまり立派な顔もどうなのだろうか、と疑っている。
そのブリは、立派な顔をしていて、その漢字のとおり「魚」へんに「師」だけのことはあったが、味のほうはどうだろう。その刺身の味についてはよく分からなかったが、照焼きにしたら大へん美味であった。
戦後、マズくなったのは、ニワトリとある種の魚である。これは養殖のものが出まわっているせいだ。ブロイラーなどというものは、昔は存在していなかった。あれは肉ではなくて、科学的合成による食品のような味がするし、イヤなにおいがする。
紀州熊野|灘《なだ》の網元の息子に生れたジャーナリストがいて、この人が教えてくれたことがある。魚の背のところの肉に、赤黒い部分があって「血合《ちあい》」というが、養殖の魚にはその血合が僅かしかない。
なぜかというと、その部分が魚のエネルギーの源であって、荒海で揉《も》まれた魚ほど、血合が多いのだそうである。
養殖の魚には、その部分がほとんどなく、身がだらしなくなっており、締まっていないのでマズい、という。
その人物と、伊豆の北川《ほつかわ》へ行ったことがある。帰りに彼はその朝の漁でとれたブリを一尾買い、私の家へ同行して台所で料理してみせてくれた。鮮やかな庖丁《ほうちよう》さばきで驚いたが、ブリの襟《えり》のあたりから、小さい三角形の赤黒い塊が出てきた。
「これは、『星』といって、一匹に一つしかない。それになかなか旨いのだ」
と、彼は言う。
それにしても、ブリの漢字はなぜ「魚」へんに「師」なのだろう。稚魚から成長するにしたがって名前が変ってゆく出世魚で、成長し切ったものがブリと呼ばれる。もろもろの子|わっぱ《ヽヽヽ》どもの親分といった感じで、「師」という文字が入っているのだろうか。
いま電話をかけてその人物にブリの名前の変り方を聞いてみた。さすがに明快な答えがただちに出て、関東では「ワカシ・ツバス・イナダ・ワラサ・ブリ」となり、紀州では「ワカナゴ・ワカナ・ツバス……」と呼ぶ。ハマチは関西の呼び名で、イナダに当るが、養殖を可能にしてから全国的にハマチの名がひろがった、という。
いまの若い衆にも、この血合が僅かしかないような人間が多くなっているようだ。「いまどきの若い者」という言葉を、若いころ聞かされたときには、
「そういう言い方をするとは、なんてバカなやつだろう」
と、おもったものだった。
山本五十六だったか、「いまどきの若い者などと申すまじくそうろう」とか言ったそうだが、自分がこの齢になってくると、
「いまどきの若い衆」
という言葉を口にすると、複雑な快感が出てくるようになった。
その若い衆を頭から食べてみたとすると、どうもあまりウマくないような気がする。