ウナギというのは、謎《なぞ》の多い魚である。もともとは赤道の近くの海底に発生して、一年近くかかって日本や北アメリカやヨーロッパなどにたどりつく、というが、学者にも詳しいことは分かっていないらしい。
赤道の下の深海に、淡水が噴き出る箇所が数カ所あって、小さいビルくらいの大きさに海水が押し除けられて淡水になっている。
ウナギの稚魚は海水では育たないので、もっぱらこの海底の淡水圏で繁殖する。したがって、海水の中の淡水アパートにはウナギがぎっしり詰まって、住宅難になってしまった。
仕方がないので、雌雄連れ立って淡水を求めて旅に出る。なにしろ本拠地が広い海のまん中なので、川や湖にたどりつくのには一年ちかくかかってしまう。
といえば、いくらか本当らしく聞えるだろうか。これは私の妄想《もうそう》である。
奥山益朗編『味覚辞典』を開いてみると、その点はやはりまだはっきりした学説がないようだ。普通にわれわれの食べているのはシラスウナギというのだそうだが、千住で丸太棒のように大きいウナギを食べさせる店がある。
あれは、別の種類なのだろうか。
その本ではじめて獲た知識は、こうしてたどりついたウナギが、川や湖や沼に六、七年|棲《す》みついて、また南方へ帰ってゆくということである。私は産卵すると、すぐに帰ってゆくのだとおもっていた。
こうなると、ウナギは神秘的生物におもえてくる。ところが、神秘的なものを人工的に養殖できるのも理解しにくい。
ウナギ屋というのも、私には謎が多い。通人は店屋《てんや》ものを軽蔑《けいべつ》するが、ウナ丼を註文して家でたべるのも悪くはないし、この場合はべつに謎はない。ウナギ屋に出かけるとなると、しかるべき店では客の顔をみてからウナギを料理するというので時間がかかる。昔はこの時間が貴重であって、二人連れでウナギ屋の部屋にこもると一時間くらいは誰も顔を出さないところに利用価値があった、と聞く。しかし、現在ではそれに替る場所がいくらもあるから、邪心なくウナギを味わう。
この待っている時間、酒を飲んでいるわけだが一流の店でもサシミなど出すところがある。これはどうも似合わない。そのくらいなら、あらかじめウナギのキモを焼いたのでもつくっておいてくれてサカナに出してもらいたいのだが、客の顔をみて腹を割《さ》いてキモが出てくるのだから、すぐに酒の肴に出てくるのはムリといえる。それに、キモを食べさせない家があるのは、どういうわけだろう。
といって、ウマキとかウムシ(茶碗蒸し)など出されても、うんざりしてくる。
結局長い時間待って、白焼《しらや》きとウナ丼とキモ吸いぐらいを腹に入れて、
「わざわざ出かけたにしては、なにか物足りないなあ」
と、おもいながら帰ってくる。しかし、それ以上食べると、腹にもたれてしまう。その点も、不思議な食べ物である。
そういうところをウナギ屋のほうでも察したのかどうか、金マキ絵かなにかの立派な重箱を使う店がある。飯とウナギとべつべつに入って、重なっている。
私はあれを好まない。
ウナギはつるつるした陶器に入っていたほうがよいので、重箱に容れられると漆器のかすかなにおい、もしくは幻臭が感じられてよくない。
そう説明しても、ウナ重でなくてはイヤという人物がいる。こういう人物には、権威主義の性向あり、と考えてよい。