ピーナッツは、戦後闇市のスタアであった。比較的安価だったし、食べようによっては口の中の滞留時間を長くすることができた。少ない量で、長い時間ものを食べている気分を味わう必要がったのだ。
旨《うま》いマズイなどはゼイタクなことで、消化できるものが口の中に入っているだけでよかった。七味唐辛子でさえ貴重品で、これが手に入れば食べ物が旨くなる。アカザなどという雑草を摘んできて、茹《ゆ》でた上に唐辛子を振りかけて食う。
当時の特徴は、黒味がかった食べものが大部分であったことだ。フスマ(字引に曰《いわ》く、小麦を引いて粉にするときできる皮の屑《くず》。洗粉または牛馬の飼料に用いる)の入った茶色っぽい飯、乾燥芋、芋の茎、干しバナナ、ニシンの煮付け……、ちょっと思い出してもそんなものばかりで、いまでは当り前の白い飯を、
「銀シャリ」
と、呼んだ。
これは敗戦直後の流行語であって、これを食べていると、恨まれる。当時の農林大臣がこれを常食にしているという噂《うわさ》が、汚職問題にからんで立って、怨嗟《えんさ》のマトになった。
「銀シャリ」とは、わびしい言葉で、その語感にあるミジメさ汗くささのようなものにうんざりするが、あのころの食べ物のあいだに置くと真白い色をしていることだけで、銀色に光り輝いてみえた。
そのころのことを書いた私のものに、「食欲」という短篇がある。単行本には収録したが、三年前に出た作品集には入れずに捨てた。読み返すとあまりにナサケナイ気分になってしまうので、作品リストから除外したつもりでいたが、捨ててしまうにも未練が起ってきた。
この際バラバラにして、随筆の形で生き返らせたいとおもう。
空襲ですべてが灰になるまでは、まだなんとか方法があった。ヤミの物資を買う金をつくることができたからだ。
もっとも、金があっても、品物がないことが多かったが。したがって、「荷物疎開」というのがあって、人間は都会にそのまま住んでいて、家財の一部を縁故をたよって田舎へ送っておく。
すでに父親は死んでいて、私がその代用品になっていた。
「この戦争は敗けて、本土決戦になる。したがって、荷物など疎開してもムダである」
と家長としての意見をのべたので、二十年五月二十五日の空襲で、まったくの無一文になってしまった。
しかし、家が焼ける前にも、食べ物を手に入れることはなかなか難しかった。
ときどき、過去のすでに幻になってしまった食物のことを妄想《もうそう》する。
『キモスイが食いたいなあ、ミョウガの香りがぷんとくるやつ』
『イイダコが食べたい。米粒のような卵がぎっしり詰まっているやつ』
ある日、私は一皿のピーナッツを手に入れ、部屋で食べようとしていた。最初の一粒に手をのばしたとき、ある友人の訪れる声が聞えた。
その友人が部屋に入ってくる前に、そのピーナッツの皿を隠してしまいたい。
本心はそうなのだが、あわてて隠すという行為もあさましい、さらには、自分が手に入れた幸運を友人に分けてやってもよいではないか、ともおもう。
悩んでいるうちに、友人は部屋に入ってきた。
「やあ」
「やあ」
挨拶をかわしたとたん、友人の目がピーナッツに向いた。