ピーナッツの皿を、視線でつかまえたその友人は、
「やっ」
歓声のような呻き声のような音を出して、皿の傍にいそいでアグラをかいた。
「ご馳走になるぜ」
「うーん」
一粒のピーナッツを指でつまんで、口に入れる。指はすぐに皿にもどり、次の一粒を口に運ぶ。皿と口とのあいだでおこなわれる指先の往復運動がすばらしいスピードで繰返された。
掌で皿の上の豆をまとめて掴《つか》み取り、口に持ってゆかなかったのはなぜか。物資窮乏の時代の遠慮が、そういう形であらわれたのか。あるいは、そういう形で食べてしまうのは、惜しいとおもったのか。鉢の中の粒餌《つぶえ》をついばんでいる鳥のようである。
ピーナッツはみるみる減ってゆく。なんとかしなくては困る、と私はおもった。これでは、幸運を分けてやるどころか、一人占めにされてしまう。しかし、友人の思い詰めたような表情をみると、
「おい、そのくらいでやめてくれ」とか、「半分残してくれないか」
という言葉が、出て行かない。
私もそのピーナッツにたいして思い詰めているので、気軽な言い方もできない。
残された手段は、私も一緒にそのピーナッツを食べることだ。しかし、その友人の指のおそるべきスピードをみていると、割りこんでゆく元気も失われた。小さな皿の上のピーナッツを、二人の男の無骨な指が競い合ってつまみ取る様子を頭に描くと、うんざりしてしまう。
畳の上にごろりと私は仰向けに横たわって、窓の外に眼を放った。空はひどく青く、白いちぎれ雲が一つだけ、ゆっくり動いてゆく。
「ピーナッツなど、婦女子の食べ物ではないか」
負け惜しみでそう考え、目をつぶると、異様な物音に気づいた。
ゴリゴリ、ゴリゴリゴリ。
友人が豆を噛みくだいている音で、それが頭の芯《しん》にひびいてくる。
ちらりと、皿をうかがう。
もう三分の一ほどの分量になっていて、その指のスピードもずっと衰えていたが、機械のような正確さで往復運動をつづけている。
また、目をつむった。
ゴリゴリゴリ。
その音が、強くひびいて頭が痛くなってくる。
友人を憎み、苛立《いらだ》たしさと、ヤケクソの気分と、一種の敗北感も入りまじって動いている。恋人を奪われたような心持ちでもある。
ゴリゴリ、ゴリゴリゴリ。
その音が腹にもこたえてくる。私の堅いセンベイのような心を、その男がかじり取ってゆく音にも聞えてくる。
いま気付いたが、山口瞳の随筆のなかにこういう意味の一節があった。
『殻がついたままのを落花生、皮がついているのは南京豆、皮を取り去って、炒《いた》めたのがピーナッツ、と聞いたことがある』
それは、以前に私もなにかで読んだことがある。ただのシャレではなく、そういう厳密な区別があるのかもしれない。