おれの中ではその間ずっと、美しく青きドナウが流れていた。
それも荘厳《そうごん》なヨハン・シュトラウス交響楽団《こうきょうがくだん》バージョンではなく、どっかの会社のお客様サポートセンターで、回線混雑中に延々と聞かされるチープなやつ。
皮膚に刺《さ》さるほどだった日射《ひざ》しも和《やわ》らいで、屋根のないところに寝《ね》ていても、日焼けで苦しむ心配もない。夜の|訪《おとず》れとともに気温は急速に下降して、肌《はだ》を撫《な》でる冷たく弱い風が、おれの意識を呼び戻す。
緩《ゆる》やかに前後に揺れているのは、トリコロール所長が残していったウッドデッキとロッキングチェアのせいだった。睡眠《すいみん》時間が足りないせいで、くっついて離れようとしない両の|瞼《まぶた》を、ゆっくり慎重《しんちょう》に持ち上げる。乾燥《かんそう》していてひどく痛んだ。
「……なに」
月と星の明かりで|輝《かがや》く金色の糸が、真っ先に視界に飛び込んできた。それを|綺麗《きれい》だと思う間もなく、頭|越《ご》しに怒鳴《どな》りつけられる。
「どうしてお前はいつもこうなんだ!?」
「……ヴォルフ……」
「なんだ!」
「み、水くれ」
著《いちじる》しく期待を裏切ったらしく、整った眉を一気に吊《つ》り上げて、おれの頭を鷲掴《わしづか》む。
「がぶ」
「死ぬほど飲めっ!」
膝《ひざ》に置かれた洗面器へと、後頭部を押さえて突っ込まれ、あまりの苦しさに口ばかりでなく、鼻からも耳からも飲んでしまった。
「……ぶはッ……ほん、ほんとに死ぬっ、ほんとに死んじゃうから、|勘弁《かんべん》してッ」
「ぼくがどれだけ心配したか判るか!?」
顔のいい人に怒られると、たとえ悪くなくとも受けるダメージは計り知れない。ましてや今回の自分のように、我が|儘《まま》で周囲を振り回したと罪悪感を持っていれば尚更《なおさら》だ。
「ヴォルフラム、なんでここにいんの? コンラッドは……そうだ、グウェンだよ! 早く助けに行かないと、こんなことしてる間にも、グウェンダル|処刑《しょけい》されちゃうかもっ」
「兄上は無事に脱獄《だつごく》した! 質問に答えろ。ぼくがどれだけ心配したか、判るのか」
相手が同性と理解していても、これだけの美少年に詰《つ》め寄られると、不覚にもときめいてしまったりする。有効な解決策は八十二歳と念仏みたいに繰《く》り返すことと、正面から顔を見ないこと。
微妙《びみょう》な角度で視線を逸《そ》らし、闇《やみ》に隠《かく》れ始めた周囲を盗《ぬす》み見る。働かされていた女性達も、追い立てていた看守もいない。どんな|奇跡《きせき》が起こって皆《みな》が解放されたのか、寝ていたおれが知る由《よし》もない。きっとまた恐《おそ》ろしいことをやらかして、関係者を青ざめさせたのだろう。どれだけ心配されたのか。
「……判ってるよ、ちゃんとわかってるって。おれも同じくらい心配したから、どんな気持ちだったかは判るって」
「お前はいつも口先ばかりだ。そのまま座っていろ、何か喉《のど》を通りそうな物を探してやる」
日向《ひなた》の|匂《にお》いのする布を顔に向かって投げつけてから、事務所か所長室だった小屋へと足音荒く戻ってゆく。最後の食事がいつだったのかも、おれの|記憶《きおく》には残っていない。あの日、朝飯|抜《ぬ》きだったから……そうだ、朝食抜きに付き合わされてしまった運の悪いルームメイトはどうなっただろう。姉御肌《あねごはだ》で牢《ろう》名主《なぬし》のノリカねーさんや、マルタと瀕死《ひんし》の赤《あか》ん坊《ぼう》は?
「おれ、どれだけ眠《ねむ》ってたんだ?」
答えてくれる相手を求めて、|軋《きし》む階段を一歩ずつ下りる。遠くで小さな炎《ほのお》が瞬《またた》いている。あれは墓地のあった方向だ。人魂《ひとだま》か鬼火《おにび》なのではと怯《おび》えながらも、そちらに向く足取りを止められない。揺《ゆ》らめく灯《あか》りは時々動いて、地面すれすれまで高度を下げたりしている。
い、生きてるのか? 生きてるのか?
近付くと薄闇《うすやみ》の中にも人影《ひとかげ》が見えた。少なくとも鬼火ではないわけだ。だがあんな、墓しかない場所で、することといったら二つだけ。お墓参りか、甦《よみがえ》りか。
「復活、してるということは……ゾンビ!? なあそこ、もしかしてゾンビさんなのか!? だとしたらおれ特に危害は加えませんからッ! ナイストゥーミーチューで、ハブアナイスウィークエンドだからっ」
だんだん、長嶋《ながしま》さんみたいになってきた。
「陛下ですかー?」
ヘイカデスカもないもんだ。散々ビビらせてくれた正体は、松明《たいまつ》を手にしたコンラッドだ。
彼の照らす地面にもう一人、|脇目《わきめ》もふらず土を掻《か》く者がいた。
「もしかして、ノリカねーさん? こんな夜にこんなとこ掘《ほ》ってどーしたの」
「探《さが》し物ですよ」
コンラッドはいつもどおりに肩《かた》を竦《すく》め、何の問題もなさそうに微笑《ほほえ》んだ。原始的な照明を高く掲《かか》げ、四方の様子も見せてくれる。
「ほら、もうここしか残ってないので」
整然と並んでいたはずの盛り上がりは、一ヵ所を除いて掘り返されていた。なんという悪質で大規模で、怖《こわ》いもの知らずの墓|荒《あ》らしだろう。神をも恐れぬ行為《こうい》の犯人は、生涯《しょうがい》呪《のろ》われても文句はいえまい。
一心不乱な彼女を手伝おうと、強《こわ》ばる筋肉を|騙《だま》し騙ししゃがみ込む。
「いいんだよ、あたしの子供だから。あたしが一人で捜すんだから」
「子供って……」
ねーさんは|僅《わず》かに顔を上げると、おれの眼《め》を覗《のぞ》いて薄《うす》く笑った。違和《いわ》感《かん》がないので気付かずにいたが、コンタクトはとっくに外れているらしい。
「ありがとう。マルタの赤ん坊を助けてくれて。それに多分、あたしたちのために、あいつらを懲《こ》らしめてくれてありがとうね」
しまった! またしてもやっちまったのか。保護者|兼《けん》重要証人のウェラー卿は、例によって、と唇《くちびる》だけを動かした。
「あんた本当は、マーボーなんて名前じゃないんだね」
「おれが怖くないの? 今まで会った普通《ふつう》の人間は、黒は|不吉《ふきつ》だって|大慌《おおあわ》てだったけど」
「怖いものですか」
砂と土がこびり付いたままの指で、彼女はおれの頬《ほお》に触《ふ》れた。日に焼けて小麦色の頬を緩めると、|目尻《めじり》に笑い皺《じわ》ができた。
「もっとよく見せて。お願い、灯りを近づけて。ああ本当だ、ほんとに深く澄《す》んだ黒をしてる。こんな綺麗な瞳《ひとみ》は見たことないよ。あの人は王都で一度だけ、ずっと昔の賢者《けんじゃ》様の|肖像画《しょうぞうが》を見たんだって。その絵がどんなに気高く美しかったか、何度もあたしに話してくれた。あんたみたいに知性を持った黒の瞳と、同じ色の艶《つや》めく髪《かみ》をしていたんだってさ」
「あの人って……」
「あんたたちと同じ、|魔族《まぞく》だったの」
見知った顔の兵がコンラッドに報告に来て、短い返事を貰《もら》って持ち場に戻《もど》っていった。ノリカは再び手を動かし、爪《つめ》が剥《は》がれるのも構わずに掘り始めた。
「シャベル取ってくるからさ」
「いいんだよ。この手で掘りたいの。自分の手で、自分の産んだ可愛《かわい》い息子を捜してやりたいの。死産だったって聞かされて、顔も見せてもらえずに|諦《あきら》めたけど……もしかしたらマルタの赤ん坊みたいに……どのみち十年も前の話。けど此処《ここ》から出られるときには、必ずあの子も連れて行こうって決めてたんだ……骨の一《ひと》欠片《かけら》でもかまわない。砂の一握《ひとにぎ》りでもかまわない」
恐らくニコラと同じように、彼女も魔族を愛したのだろう。それを誰《だれ》かに知られてしまい、不実な関係と罵《ののし》られ、こんな場所に送られた。間違《まちが》っているのは彼女達ではなく、差別と|偏見《へんけん》に凝《こ》り固《かた》まった大衆だったのに。
「俺やヨザックは、運がいい」
コンラッドが、ほんの少しの間だけ天を仰《あお》いだ。
「この場所には、同じ運命を辿《たど》った子供や女が、数え切れないくらい眠ってたんですよ。全員が我々の関係者というわけではないですが、先程の光景を見た限りでは、誰もが解放を願っていたんでしょうね」
「それで解放はされたのかよ」
「多分。生きた者も、死んだ者も。困ったことに警備兵も全員|逃走《とうそう》したので、もうすぐ追っ手が編成されると思われます」
松明をノリカの手元に向けているから、彼の表情は目では見えない。
「でも嬉《うれ》しそうだ」
「そんな声してますか?」
「違《ちが》うって」
あんたがどんな顔してるのか、おれは見なくても判るんだって。
「大規模な|追撃《ついげき》隊に追いつかれないように、夜のうちにこの場所を離《はな》れたいんです。グウェンダルが部下に準備をさせていますから、陛下も……」
「皆はどうなった!?」
ノリカが指先に何かを見つけ、小さく叫《さけ》んで掘り出した。
「ここで酷《ひど》い目にあってた女の人達だよ。腰《こし》に鎖《くさり》なんかつけられて、|狭《せま》くて暑い穴に入らされてた女性達だ。魔法の石だか金儲《かねもう》けの元だか知らねーけど、彼女達はいいように利用されてたんだよ。みんな実家に戻れたかな」
「門を開いて一時だけでも自由にした。俺達にできるのはそこまでです。あとは彼女達本人が、自分で心を決めるしかない。この先どうやって生きてゆくかは、自分自身にしか決められないんです。生まれ育った土地に戻っても、また追われて捕《と》らえられるかもしれない。あるいは家族や理解者の協力を得て、平穏《へいおん》無事に暮らせるかもしれない。いずれにしろ選ぶのは彼女自身、俺達には強要することはできません。それでですね」
彼らしくなく言い淀《よど》み、体重をかける脚《あし》を左右入れ替《か》えてからわざと深刻な顔をつくる。どうせ答えを知っているくせに、もったいぶった物言いで焦《じ》らしてきた。
「……魔族と恋愛《れんあい》関係にあったというご婦人方が、十四人ほどいるんですが。彼女達は一様に、そのー、夫であった者の祖国を拝みたいと言っているんですね」
「一緒《いっしょ》に戻ればいいじゃん! おれたちと。いいよ、そうしよう。|眞魔《しんま》国にはツェリ様がいるからさ、自由恋愛主義同盟で保護してもらえるよ! 何より王様が許可してるんだから、こんな無体な扱《あつか》いは絶対にさせない。責任もって連れてくよ、|砂漠《さばく》の大|脱走《だっそう》」
「陛下、ギュンターに成り代わって申し上げますが、時には熟慮《じゅくりょ》なさることも大切ですよ。それから、こっちは俺の意見として言うけれど……」
ヴォルフが向こうで叫んでいる。食べ物を探してくれたらしい。おれがコンラッドと一緒なのを見ると、地団駄《じだんだ》っぽく走り出す。
「……動物的|勘《かん》が大正解のケースもある」
「じゃあ野性の勘に従っとこうぜ」
「野性ですか」
押し殺した鳴咽《おえつ》が聞こえて、おれは一瞬《いっしゅん》、恐怖《きょうふ》で身を竦ませた。何しろ足の下は墓地だから、啜《すす》り泣く者といったら限られている。しかし実際には幽霊《ゆうれい》でもヴァンパイアでもなく我が子を捜していた母親だった。
「いないのよ……身体《からだ》どころか骨も髪もない……あの子がいたって痕《あと》が何もないの」
「もう、十年も経《た》つからね」
慰《なぐさ》めようにも、陳腐《ちんぷ》な言葉しか思いつかない肉体がどれくらいの年月で土に還り魂がどういうルートで天国に向かうのか、科学も生物も宗教も学んでいないので、うまく説明できなかった。
ずいぶん深くまで達した穴に手を入れてみると、昼間の地表の熱はどこへやら、震《ふる》えがくるほど冷たかった。指先にかちりと何かが当たる。
「なんだろ、これ」
爪の先で引っ掛《か》けて持ち上げる。細長く、所々に出っ張りがある。骨にしてはあまりにも手触《ざわ》りが滑《なめ》らかだ。長いのと小さい三角形と、二種類あった。
「それはあたしも見付けたけど、そんなの息子じゃない。ただの筒《つつ》だもの。人間の一部じゃないもの」
筒。
一部。
細長い筒で何かの一部。
「まさか!?」
まさかまさかまさか!? こんなところに!?
ダンジョンも中ボスも宝箱もなく!?
おれは胸のポケットから、親指よりいくらか太めの焦《こ》げ茶《ちゃ》の筒を取り出した。流れ流れて寄場送りとなるまでに、ボディーチェックもあったのだが、武器とも認められなくて、|没収《ぼっしゅう》されずに済んだのだ。前に三つ後ろに一つの穴を持っ、懐《なつ》かしさを感じる十センチほどのパーツ。そして土にまみれているのは、出っ張りのある長い物と三角のパーツ。
「こっ……このオフホワイトと焦げ茶のコソトラストは……」
両眼と指が覚えているとおりに、三つの部品を組み合わせる。
|魔笛《まてき》合体!
「…………ソプラノリコーダー?」
魔族の至宝と称《しょう》される貴重な笛が、そこら辺に転がってるソプラノリコーダー?
ランドセルに挿《さ》したまま登下校したり、時には武器として大活躍《かつやく》したり、ちょっとストーカー入った奴《やつ》になると、好きな女の子のをこっそり舐《な》めてみたりしたくなるけどやらなかったりでも誘惑《ゆうわく》に駆《か》られたりして…………えええええーっ!?
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試《ため》しに音だけ出してみよう。もしかしたら見かけはこんな|庶民《しょみん》的でも、音色は超《ちょう》一流の逸品《いっぴん》かもしれない。楽器は見た目じゃ判るまい。土と埃《ほこり》を服で拭《ぬぐ》う。
大きく息を吸って。
ぽぴー。
「ほんとにソプラノリコーダーっ!?」
「さすがですね陛下! 手にしていきなり音が出せるなんて! ほら日本の諺《ことわざ》でも言うじゃないですか、桃栗《ももくり》三年、柿《かき》八年……」
それは尺八だよ。首ふり三年だよ。
「おれ、この楽器、初めてじゃない気がする。遠い昔にどこかで会っているような」
「そういうの、既視感《デジャ・ヴ》っていうんじゃないですか?」
「違うと思う。まあこれが赤くないけどシャア専用ザクだとしたら、量産型の方で六年近く訓練積んでたというか……」
例えのマニアックさは置いといて。もしもこれが魔笛だというのなら、音楽の授業は無駄《むだ》ではなかったことになる。あの頃《ころ》は笛の試験なんぞやらされながら、クラスの大半がこう思っていたものだ。
「こんなもんブーピー練習したところで、将来なんの役にも立ちゃしねえ」と。
人生って何が起こるか判らない。申し訳ありません、音楽|教諭《きょうゆ》。
「短いほうはどうやって手に入れたんです?」
「これはニコラに貰《もら》ったんだよ。ニコラは彼氏のゲーゲンヒューバーに……ああ、そうか!」
スヴェレラの首都を逃《に》げ回っている自分達が、リプレイ状態で浮《う》かんできた。ヒューブを救うために好きでもない男と結婚《けっこん》しようとしていた花嫁《はなよめ》。純白のドレスで走りだす彼女。投げ捨てたブーケを受け取る神父さん……これは|削除《さくじょ》。
魔族の協力者と名乗り出た|坊主《ぼうず》頭の男、彼の孫で成長の遅《おそ》い十歳の少年。母親は慣習に背《そむ》く婚姻《こんいん》をし、連行された先で子供を産んだ。十年前にグウェンダルに似た魔族の男が、生まれたばかりの孫息子を連れてきてくれた。
「ヒューブだ。全部ゲーゲンヒューバーに繋《つな》がってるんだよ」
途中《とちゅう》から殊更《ことさら》ゆっくりと歩いてきたヴォルフラムが、親戚《しんせき》の名を聞いていっそう不|機嫌《きげん》になった。
「ヒューブがどうした?」
「隠《かく》したんだよ、この部品を! 埋《う》められたばかりの赤《あか》ん坊《ぼう》の墓に! 生まれてすぐに母親から離されて、死にかけている赤ん坊を掘《ほ》り返したんだ。ノリカ!」
説明の半分も理解できていない母親は、無意識に乱れた髪《かみ》を指で梳《す》いていた。
「あんたの子供は生きてるよ! 力になれると思うんだ」
「あたしの息子が?」
「そう。あんたの父親の名前は?」
答えは聞かなくても判っている。
「シャスだけど」
「だよなッ。ちょっと足の悪いおっさんだよな。あんたの父親は……実の娘を売っ……密告したのかな……」
ノリカはゆっくりと首を振り、泣きそうな笑《え》みを浮《う》かべて否定した。
「あたしを売ったのは別の人。気を許していた果物屋の女主人に、ついつい口を滑《すべ》らせちゃったんだよ」
よかった、きっと家族と再会できるよ。おれの名にかけて、約束する。
「だが、ゲーゲンヒューバー本人は、一体どこへ姿を眩《くら》ましたんだ?」
人間のことなどどうでもいいという態度で、ヴォルフラムが新たな疑問を口にした。
「……それがわかんないんだよなぁ」
愛《いと》しいニコラをほうってまで。