助けてくれたのはありがたかったけど、僕は決していじめられっこじゃないんだってば。
悪質な同級生に絡《から》まれたのも初めてなら、カツアゲされかけたのも初めてだったんだ。
そもそもねえ、成績命! だとか、高|偏差値《へんさち》組だとか。僕のことをろくに知りもしないくせに、固定観念で語るのはやめてくれよ。確かに存在感は薄《うす》かったけど、肉体と精神を|鍛《きた》えるべく、武道を習ったりもしてたんだから。空手を、そのー……通信講座で。
とにかくっ、僕がどんな人間なのかなんて僕自身にだってよく解《わか》ってないんだから、勝手な推測はやめてくれ。
だいたいねえ、自分が本当は誰《だれ》なのかとか、そんなのは人類にとっての永遠の謎《なぞ》だろう? だからこそ自分探しの本なんかが、ベストセラーになったりするんだから。
じゃあ試《ため》しに|訊《き》くけどさ渋谷。
きみは誰?
どうして生まれて、何のために生きてるの?
ああっ、だから悩《なや》み込むなってば! 誰だって解《わか》っちゃいないんだからさ。
実はもう、おれは|溺《おぼ》れて死んでいるのか。だからこんなに息が苦しいのか?
「うう……バンドウエイジのばかやろー……」
「起きてください、陛下」
朝だというのにむくみも寝癖《ねぐせ》もなく、いつもどおりに|爽《さわ》やかなウェラー|卿《きょう》が覗《のぞ》き込んでいる。
「……へいかって呼ぶな、名付け親のくせに」
「失礼、つい癖《くせ》で。でももう三番目覚まし鳥が鳴きましたよ」
「|嘘《うそ》っ!?」
健気《けなげ》にも時を刻み続けるデジアナGショックによると、現在の時刻は朝八時。ちなみに日付は十一月三十日で、こちらの世界の暦《こよみ》では冬の第一月だ。一日はおおよそ二十四時間計算でいいらしく、時計に目立った狂《くる》いはない。それはつまり惑星《わくせい》の大きさと自転のスピードの比率が、地球と同じくらいだということであって……難しいことは解《わか》らない。
とにかく、村田健《むらたけん》の失恋《しつれん》記念でシーワールドに行き、イルカのバンドウくんと握手《あくしゅ》しながらスターツアーズして、剣《けん》と|魔法《まほう》と美形軍団の異世界に来てから、かれこれ百二十日近くが経《た》ってしまったわけだ。
この国に来るのは三度目だから、もうそろそろ常連さんに|昇格《しょうかく》してもいい頃《ころ》だろう。|首尾《しゅび》よくとまではいかないにしても、どうにかこうにか問題を解決し、さあいつでも現代日本に戻《もど》れるぞと、下着もノーマルなトランクスタイブに履《は》き替《か》えて準備|万端《ばんたん》で待っていた。
なのに。
起き上がろうと足掻《あが》くおれの目尻《めじり》を、コンラッドは親指で素早《すばや》く|擦《こす》った。
「またバンドウくんの夢を?」
「まあね」
帰れなかったのだ。
祐里《ゆうり》でも優梨《ゆうり》でも悠璃《ゆうり》でもなく、おれの名前が響《ひび》きも懐《なつ》かしい|渋谷《しぶや》有利《ゆうり》原宿不利で、高校生ながら草野球チームの主催者《しゅさいしゃ》で、キャプテンで八番で正捕手《ほしゅ》をやってた日本に、おれは帰ることができなかった。
「……もう四ヶ月も経つのにな……ああっそれどころじゃねーよこいつ! いやに苦しいと思ったら、こんな全身で乗っかかってるじゃないかッ!」
天使の寝顔《ねがお》で|悪魔《あくま》の寝相《ねぞう》、フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムが、両手両足をしっかりと絡《から》ませて、おれの安眠《あんみん》を|妨害《ぼうがい》していた。ふりふりレースで絹の夜着だ。
「冗談《じょうだん》じゃないよ、こんなとこギュンターに見られたら……っ」
「もう来ておりますーっ!」
重く厚い木製の|扉《とびら》を豪《ごう》打《だ》して、部屋の外でフォンクライスト卿が叫《さけ》んでいる。きっと美しい顔を不安と焦《あせ》りで歪《ゆが》ませて、髪振《かみふ》り乱しているのだろう。
「陛下、どうなさいました陛下っ!? ここをお開けください! ここをお開けくださいーっ」
どんなときでもおれの味方の保護者|兼《けん》ボディーガードは、夢うつつのヴォルフラムを|脇《わき》に転がした。
「念のために、鍵《かぎ》を」
「さすがだコンラッド、助かった」
手っ取り早く特注のトレーニングウェアを身に着ける。緑地に太い白の二本線というバラエティー番組でしか見られないようなデザインと、伸縮《しんしゅく》性にいまいち不満はあるのだが、学ランタイプの黒服よりは動きやすい。
ドアを開けると同時に「走ってくる」とだけ言い残し、ギュンターの横をすり抜《ぬ》けた。背後では女みたいな悲鳴があがっている。
「何故あなたが陛下のお部屋にーっ!? しかも褥《しとね》の中にまで」
おそらくこれから|修羅場《しゅらば》となるであろう寝室《しんしつ》を後にしながら、自分でも不思議だったことを尋《たず》ねてみた。
「けどなんでヴォルフは、おれんとこに住んじゃってるんだ? こんなばかでかい建物なんだから、ゲストルームの一つや二つはあるだろうに」
いやそれ以前に、どうして血盟城に|滞在《たいざい》し続けるのか。彼の|本拠地《ほんきょち》はビーレフェルト地方で、この|物騒《ぶっそう》な名前のついた|堅固《けんご》な場所は、おれのお城のはずなのに。そう、どこにでもいるような野球|小僧《こぞう》だった渋谷有利は、十六歳目前にして一国一城の主《あるじ》にされてしまったのでした。
しかもそんじょそこらの王様ではない。日本語ロックの「王様」にも笑わされたもんだが、おれの肩書《かたが》きも結構すごい。ごく普通《ふつう》の背格好でごく普通の容姿、頭のレベルまで平均的な男子高校生だったはずなのに……。
おれさまは、|魔王《まおう》だったのです。
洋式便器に流されるというアンビリバボーな|奇跡《きせき》体験の後に、やたら顔のいい連中に取り囲まれて、今日からあなたは魔王ですなんて告げられたら、誰でもこれは夢だと思う。おれもそう思った。夢なら早くさめてくれ、現実世界に戻してくれと眞王《しんおう》とかいう偉《えら》い存在に、祈《いの》って祈って祈り倒《たお》してみたりもした。
けれどもう、そういう段階は通り過ぎた。
落ち込んでいる|暇《ひま》はない。サインしなきゃならない書類は山積みだし、考えなければいけない問題も次から次へと湧《わ》いてくる。会わなければならない要人の数といったら、行列のできる店かよと|呆《あき》れるくらいだ。もちろん、日々のトレーニングも欠かせない。職業魔王は身体《からだ》が資本だ。
そんな模範《もはん》的な国主の姿に、教育係で王佐《おうさ》でもあるギュンターは、うっとりしたり涙《なみだ》を流したりと忙《いそが》しい。まあ基本的に|脳《のう》味噌《みそ》筋肉族(略して脳筋族)のおれだから、ほとんどの雑事をこなしているのは彼自身なのだが。
少しずつ、読み書きもできるようになってきた。今のところ|優秀《ゆうしゅう》な三歳児程度だが、習ってもいないような小難しい本のタイトルを、指でなぞっているうちにあっさり読んでしまったりもする。英会話教材の宣伝にもあるように、いきなり才能が開花する日がくるのかもしれない。
灰色の階段を蹴《け》って中庭に踏《ふ》み出すと、敬礼する間も与《あた》えずに兵の前を走り抜ける。朝の光を浴びて冬芝《ふゆしば》がきらめいていた。草の下には|霜柱《しもばしら》が立っている。吐《は》く息は白く、|握《にぎ》った指先まで悴《かじか》んでいて、澄《す》んで冷たい空気を急に吸い込んだために、鼻の奥がつんと痛んで涙がでた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
脇を走るコンラッドが短く訊いた。彼は時々、同じ質問をする。
「何が? 大丈夫だよ?」
胸で揺《ゆ》れる青い石が冷たさを増した。銀の細工の縁取《ふちど》りに、空より濃《こ》くて強い青。ライオンズブルーの魔石は責任を思い出させてくれる。
押しつけられたわけじゃない。自分で選んだ地位のはずだ。
おれは魔王の|魂《たましい》を持って生まれ、この国を守ると約束した。
約束したんだ。
いつもどおりのコースを回ってから城に戻り、朝食にありつく前に|汗《あせ》を流そうと部屋に着替《きが》えを取りに向かうと、|途中《とちゅう》の謁見《えっけん》・執務《しつむ》室《しつ》ではなにやら騒《さわ》ぎが起きていた。
「まだもめてんのかヴォルフ、ギュンタ……」
「陛下っ!」
小麦色に焼けた肌《はだ》によく似合う、少年みたいなショートカット。赤茶の大きな瞳《ひとみ》を笑《え》みで細めて、|向日葵《ひまわり》みたいな少女が駆《か》け寄ってきた。大きさを見た限りではお腹《なか》の子供は順調らしい。
「ニコラ、来てたんだ」
「お久しぶり! 陛下、お元気でいらした?」
人間ながら魔族の花嫁《はなよめ》、広末《ひろすえ》涼子《りょうこ》系のお嬢《じょう》さんだ。四ヶ月ほど前、彼女はおれに、おれは彼女に|間違《まちが》われ、お互《たが》いひどい目に遭《あ》った。だが、結果として彼女は夫の故郷で子供を産むことを決意し、おれは何人かの女性を救うことに成功した。リコーダー風の魔笛も手に入ったし、結果的にはオールライトなのかもしれない。
「|直轄地《ちょっかつち》を通過する用事があるとかで、閣下が送ってくださったの。でも不思議、ヒューブのことをあんなに|怒《おこ》ってらしたのに、あたしにはとてもお|優《やさ》しいのよ」
閣下とはフォンヴォルテール卿グヴェンダルのことで、ニコラの夫、グリーセラ卿ゲーゲンヒューバーの|従兄弟《いとこ》にあたる。黒に近い灰色の長い髪《かみ》と、どんな美女にも治せない不機嫌《ふきげん》そうな青い目、誰《だれ》よりも魔王に相応《ふさわ》しい|容貌《ようぼう》で腰《こし》にくる重低音の声を持った男は、半年前までは前魔王現上王陛下フォンシュピッツヴェーグ卿ツェツィーリエ様の長男として、王太子|殿下《でんか》の地位にあった。
おれの部屋に半ば同居しちゃってるフォンビーレフェルト卿ヴォルフラムと、トレーニング相手まで務めてくれてるウェラー卿コンラートも、それぞれ父親こそ違《ちが》うけれどフェロモン女王ツェリ様から生まれている。これまでは魔族似てねえ三兄弟なんて呼んできたのだが、ここ最近は|認識《にんしき》を改めた。
体格的にはおれといい勝負の三男は、母親そっくりの|目映《まばゆ》いばかりの|金髪《きんぱつ》と湖底を思わせるエメラルドグリーンの瞳、夢で何か曝《さきや》かれたら天使のお告げかと涙しちゃいそうな、正統派|完璧《かんぺき》美少年だ。もっとも現実に|喋《しゃべ》らせれば、神の言葉どころかわがままプー。
自由|恋愛《れんあい》主義者のツェリ様が、剣《けん》以外に取《と》り柄《え》のない旅の人間と結ばれて、生まれた|息子《むすこ》が次男のコンラッドだ。美形集団の中においては地味な印象をうけるが、小耳にはさんだ話によると、彼は非常に女性にもてるらしい。美しすぎず格好良く好青年で腕《うで》も立ち、その上、過去にもなんかあり、獅子《しし》の心を隠《かく》してるとくれば、そりゃあもう女の子は放っておかないだろう。実際におれが女だったら、こんな出来すぎた男はごめんだけどね。
教育係のフォンクライスト卿ギュンターは、彼とは正反対の存在だ。背まで流れる灰色の髪に、知性を湛《たた》えたスミレ色の瞳。腰にくる魅惑《みわく》的なバリトンで静かに語りかけられたら、どんな女性も瞬殺《しゅんさつ》のはずだ。なのにこの超絶《ちょうぜつ》美形ときたら、肝心《かんじん》の中身のほうがとんでもないのだ。どういう美的感覚なのかおれごときを褒《ほ》め称《たた》え、取り返しがつかないほど壊《こわ》れてきている。彼がどこまでいっちゃうのかは、王としての心配事のひとつでもあった。
現在も半壊《はんかい》状態のギュンターは、生意気|盛《ざか》りの美少年を相手に猛抗議《もうこうぎ》中だ。
「ですから何故《なぜ》、あなたが陛下のお部屋で寝起《ねお》きしているのですか!?」
「ユーリはぼくに求婚《きゅうこん》したんだぞ? 寝所《しんじょ》を共にしたいに決まっている」
決まってない。
髪を振《ふ》り乱した美人の必死の|反撃《はんげき》。
「婚約者《こんやくしゃ》はあくまでも婚約者であって、伴侶《はんりょ》や夫婦ではありません! 婚姻《こんいん》の契《ちぎ》りを交《か》わす前に夜を過ごすとは、なななんという破廉恥《はれんち》なっ」
ヴォルフラムは、寝癖のついた前髪を掻き上げた。
「さすがはもうじき百五十歳、おそろしく前時代的な言い分だな!」
八十二歳に言われたかないけどね。騒ぎに巻き込まれるのも面倒《めんどう》だったので、おれは心の中だけで突《つ》っ込んだ。魔族の血は全体的に長命なので、彼等は見た目の五倍くらい生きている。十六歳直前の身としては、スーパー老人大集合という感じだ。
言い争いには加わらないコンラッドが、トレーニングウェアの肩《かた》を軽く竦《すく》めた。
「雑魚寝《ざこね》くらいで目くじらたてなくても……」
「それ以前に、頼《たの》むから誰か気付いてくれよー、おれたち男同士じゃん!?」
目立ち始めた腹部に手を当てて、ニコラが邪気《じゃき》なく|呟《つぶや》いた。
「お二人とも何を勘違《かんちが》いされてるのかしら。陛下にはグウェンダル閣下がいらっしゃるのに」
「それこそ最悪の勘違いだッ1」
三方から一斉《いっせい》に否定される。ただ一人の部外者であるウェラー卿は、必死で笑いを堪《こら》えていた。そりゃあないよコンラッド、この世界で唯一《ゆいいつ》の野球仲間が、|結婚《けっこん》詐欺《さぎ》に遭いそうになってるんだぞ……待てよ、結婚詐欺というより性別|詐称《さしょう》か? ああ、ヴォルフラムが女の子だったなら……けど例によってわがままプーだしなあ……。
ノッカーの鈍《にぶ》い音が数回|響《ひび》き、コンラッドが重い扉《とびら》を片側だけ開けた。正門警備の若い兵が、がちがちに|緊張《きんちょう》して立っていた。
「申し上げます!」
「どうした」
「そのっ、魔王陛下にあらせられましてはっ、ご公務以外のお時間とは存じますがっ」
「そんなに畏《かしこ》まらなくても、サクサク言ってくれてかまわないのに」
「はっ! 恐《おそ》れ入ります!」
ますます固まらせてしまったのか、気を付けをした膝頭《ひざがしら》が震《ふる》えている。
「陛下にお目通りをと願う輩《やから》が、|先程《さきほど》、城門に参りまして」
「あ、なーんだ。それなら朝飯済んでから、スケジュール調整してもらうよ」
補佐《ほさ》官《かん》、つまり王佐でもあるギュンターが、一分前とは打って変わった有能そうな口調で、おれと兵士の間に割って入った。
「そのような用件はまずこの私に」
「ですが……その、ごくごくご私的なことですので……できましたら、そのー、お人払《ひとばら》いを」
青年はぐるりと視線を回した。ギュンターとヴォルフラムに睨《にら》まれて、いっそう顔を赤くする。おれと二人きりになっちゃったら、血圧が急|上昇《じょうしょう》して倒《たお》れてしまうのでは。そうなる前にコンラッドが、|穏《おだ》やかな声で促《うなが》した。
「大丈夫だ。皆《みな》、口が堅《かた》いよ」
「では申し上げます」
兵士は一瞬《いっしゅん》言葉を切り、唾《つば》を飲み込んでから声のトーンを上げた。
「|眞魔《しんま》国国主にして我等魔族の絶対の指導者、第二十七代魔王陛下のご落胤《らくいん》と申す者が……いえ、仰《おっしゃ》るお方が、お見えですっ!」
「ゴラクイン?」
って、何? とコンラッドに尋《たず》ねようとして、向けかけた首をヴォルフラムに掴《つか》まれる。
「ユーリ貴様っ、どこで産んだ? どこでいつ、いつの間に?」
「なっなに、産んでない、産んでませんったら!」
天使のごとき美少年に目を吊《つ》り上げて|迫《せま》られると、あることないこと|全《すべ》て懴悔《ざんげ》したくなる。
「産んでいないということは、どこで作った?」
「なっ、うっ何も、作ってませんッ! だからっゴラクインて何!?」
「貴人が妻ではない女性との間につくった子供のことですよ」
「ああ、上様のゴラクインーとかって時代劇でよく使う隠《かく》し子《ご》ネタかあ。あー、だよなあ、上様に隠し子|騒動《そうどう》はつきものだよ。後継者《こうけいしゃ》争いとかで大変なんだよな……って待てよ? まさかおれ? 貴人にご落胤って、おれに隠し子がいたってこと!?」
「その|疑惑《ぎわく》が」
落ち着き払《はら》ったコンラッドの隣《となり》で、教育係が姿勢を正したまま後ろに倒れた。ショックのあまり黒目がなくなっている。
「うわギュンターがっ」
「なんてことだ! ぼくの知らぬ間にそんな好色なことをッ! だからお前は尻軽《しりがる》だというんだっ」
緑ジャージを掴《つか》んで力まかせにシェイクする。
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「ままま待ってくれ、|脳《のう》味噌《みそ》をゆすゆすゆす揺《ゆ》すらないでくれ、じゅ十六年の長きにわたりモテたことなどないおれに、か、隠し子なんて……」
「すごいわユーリったら。虫も殺さないような顔をして」
ニコラの譬《たと》えは|間違《まちが》っていた。ギュンターは床《ゆか》に転がったまま、早くも痙攣《けいれん》を始めている。
「蚊《か》やゴキブリは殺しても子供はつくってませんおれはっ!」
「で、そのご落胤の君とやらは今どちらに?」
さすがに保護者|兼《けん》ボディーガードは冷静で、報告役の兵士の言葉を促す。王様に隠し子がいるはずないと、きっと信じてくれているのだろう。もしくはおれのモテなさぶりを、アメリカかどこかで聞いてきたとか。
「実はもう……ここにいらしてます……歴代魔王陛下とそのお身内しか継《つ》がれないという眞魔国|徽章《きしょう》をお持ちでしたので、お通ししないわけにも……」
なんだそりゃ。球団関係者にしか配られないペナントレース制覇《せいは》記念チャンピオンリングみたいなものだろうか。その単語に興味をひかれたのか、首にかかっていた婚約者サマの手が緩《ゆる》む。
「徽章を?」
「なあ、なにそれ。王と身内ってことは、ツェリ様の|息子《むすこ》のお前は持ってんの?」
「ぼくは父方の氏だから継いでいない。確か兄上は持っていたはずだ。第七代のフォルジア陛下から、代々フォンヴォルテール家当主に受け継がれているから」
歴史年表に出てきそうな名前を聞いて、ギュンターが電気ショックでも喰《く》らったかのように跳《は》ね起きた。御年《おんとし》百五十歳前後にしては、信じられない腹筋だ。
「でしたらそのガキ……いえご落胤候補は、陛下のお子様ではありません! 陛下はあくまで十六歳にはなられていないと、ご自分でお強く否定されるので、未だ魔王陛下の証《あかし》である徽章の図案さえできていないのですから」
現代日本で草野球|三昧《ざんまい》の夏休みを送っていたおれは、十六回目の誕生日を目前にして、イルカのバンドウくんとスターツアーズしてしまったのだ。だから渋谷有利的には、まだ十五歳と三百六十四日という感じ。
「では誰《だれ》の、どこの家の章を持っていたんだ……あっ、まさかまた新たな兄弟の出現ってわけではなかろうな!?」
美しく恋《こい》多き女性を母に持つと、こういう心配があって大変だ。自分の問題になりつつあって少々|焦《あせ》ったのか、ヴォルフラムは小走りに戸口に向かい、両開きの扉をいっぱいに開けた。
「どいつが……」
彼の視線の先には空間しかなかった。本物はもっと下の下、頭はやっと腰《こし》の辺りだ。
細かい赤茶の巻毛を耳の上で切りそろえ、唇《くちびる》をきゅっと引き結んでる。人生の一大事に挑《いど》む直前のせいか、表情は硬《かた》く、オリーブ色の肌《はだ》からは血の気が引いていた。十年前の再放送ドラマの女優みたいに、濃《こ》い|眉《まゆ》と長い|睫毛《まつげ》が凛《りり》々しかった。
おれは持ち前の人間観察スピードガンで、子供の全容をざっとチェックする。
性別不明、|国籍《こくせき》不明、年齢《ねんれい》不明、カラオケでのパート不明。
なんともヘボな選球眼だ。まあ年齢は、辛《かろ》うじて十歳というところだろうか。
「待てよ? 十歳だろ? その子、おれが何歳の時の子供よ? 十歳だとしたら……おれ六歳だよ!? 六歳っつったら一年生じゃん! 一年生っていや友達百人できるかなだけど、まさか子供はできねえだろ!? やっぱ違《ちが》う! やっぱそいつ、おれの子じゃ……」
すっと深く息を吸って、十歳は踵《かかと》に力を蓄《たくわ》えた。そして思い切り床を蹴《け》り、二人の距離《きょり》を埋《う》めにかかった。
「ちちうえぇーっ!」
「ちっ……父上って」
パパになった喜びを噛《か》みしめる間もなく(まだ噛みしめたくない)、サッカーボールみたいに弾《はず》んだ身体《からだ》が、真正面に飛び込んでくる。おれは条件反射で両手を広げるが、子供は腕《うで》を|右脇腹《みぎわきばら》で固定していた。
午前中の日差しを反射して、一瞬《いっしゅん》、鋼《はがね》が|煌《きら》めいた。
なに?
「陛下っ!」
それが何なのかも判《わか》らないまま|不吉《ふきつ》な予感だけで身体を捻《ひね》ったおれは、バランスを崩《くず》して斜《なな》めに倒れ込み、腰と右手首を強《したた》かに打った。銀の|輝《かがや》きは|滑《すべ》るように床を這《は》って、戸口にいたヴオルフラムの足元で止まった。薄《うす》い金属の転がる軽い音。
「陛下っ、ああなんという恐《おそ》ろしい……陛下、お怪我《けが》は」
「なに、何が起こったんだ? おれなんで転んだんだろ、おれなんでバランス崩したんだ?」
実際には無理に避《よ》ける必要はなかった。犯人が目的を達する前に、素早《すばや》く間に入ったコンラッドが、子供の手から隠《かく》し持っていた刃《やいば》を叩《たた》き落としていたのだ。ギュンターが自分もしゃがみ込み、おれの全身を撫《な》で回す。
「この美しいお身体のどこかに、傷など残ろうものなら……」
「|大丈夫《だいじょうぶ》だからさ……ていうか、関係ないとこ触《さわ》んなって」
教育係の肩《かた》の向こうでは若い兵士が、もがく子供を羽交《はが》い締《じ》めにしている。あまりの事態に顔面|蒼白《そうはく》だ。
「も、申し訳ございませんッ! まさか、まさか子供が、暗……このような大それたことを企《くわだ》てようとは」
「暗殺? おれは暗殺されかけたの!?」
英語で言うとアサシン、日本語で言うと「殿《との》、お命|頂戴《ちょうだい》仕《つかまつ》りまする」そういうのは子供じゃなくて、ブロの仕事だと思っていた。ニンジャとか、ゴルゴとか。
ギュンターが、美しいからこそいっそう凄《すご》みのある宣告をした。
「たとえ年端《としは》のゆかぬ者といえども、魔王陛下への大逆は許し難い大罪です。極刑《きょっけい》を以《もっ》て償《つぐな》わせねばなりますまい。打ち首獄門《ごくもん》あるいは市中引き回しの上、火《ひ》炙《あぶ》りに……」
「ちょっと待て、時代劇でしか聞かないような罰《ばつ》は待てって! 相手はまだ小学生だぞ!? いくらなんでも小学生が暗殺は思いつかねーだろ。もしかしたら誰かに操《あやつ》られてて、洗脳されてんのかもしれないしさっ」
放っておけば自分で手を下しそうなので、教育係を止めるために、おれは立ち上がろうとしたのだが。
「あいた」
右足首に痛みが走り、すぐにへたり込んでしまう。
「ああ、捻《ひね》ったかな」
古い傷の残る|眉《まゆ》を|僅《わず》かに寄せて、コンラッドがおれの靴《くつ》を脱《ぬ》がせる。見る見るうちに|踝《くるぶし》は腫《は》れ上がった。
「参ったなぁ……軸足《じくあし》だよ」
「ああなんと、お労《いたわ》しい! お可哀想《かわいそう》な陛下、できることならばこのギュンターが替《か》わって差し上げたい」
「別にシーズン中ってわけでもないから、じっくり治しゃいいことなんだけどさ……いてッ」
「すみません。捻挫《ねんざ》だけかどうか確かめようと」
灰色の後れ毛を指で払《はら》い、ギュンターはいかにも有能な|補佐《ほさ》官《かん》の|口振《くちぶ》りで言い放った。
「この国最高の名医を、大至急、王城に呼ぶのです!」
同時に次男がのどかな声で、下を向いたまま兵士に告げる。
「ギーゼラを寄越《よこ》すように言ってくれ。それと、その子には見張りをつけろ」
兵士は一礼して駆け出した。どちらの命令が妥当《だとう》かは、若くても判断できるらしい。
緩《ゆる》やかな坂道を、馬の背に揺《ゆ》られながら昇《のぼ》ってゆく。
午後になって空気はかなり温かくなり、ふくらんだジャケットの下の肌は|汗《あせ》ばむほどだった。剣《けん》と|魔法《まほう》の世界に来てまで、ダウンジャケットを着るとは思わなかった。
が、考えてみれば鳥と布があるのだから、防寒具として愛用されてもおかしくはない。だが技術的な問題なのか、革《かわ》のコートと同じくらい重い。意味ないじゃん。
小学校の遠足程度の標高だったが、それが山男のルールなのか、行き交《か》う人は片手を上げて挨拶《あいさつ》をした。時々はフードに隠れたおれの髪《かみ》や目の色に気付いて驚《おどろ》く者もいたが、コンラッドが「静かに」という仕草を見せると、|妙《みょう》に|納得《なっとく》した顔で|頷《うなず》いた。お忍《しの》びなのねと思っているのだろう。
「みんな歩いてる。おれも降りて歩きたいよ」
「足が完全に治ったらね」
ウェラー|卿《きょう》は前を向いたまま、肩越《かたご》しの返事で付け足した。
「大丈夫です、今だけですよ。すぐに元どおり走れるようになるから」
「……判《わか》ってるけどさ」
倒《たお》れて捻った右足首は、痛みもないし腫れも引いている。それでも、本当に元に戻《もど》るのか、走れないのは今だけなのかと不安になる。
元に戻る日なんかこないんじゃないかと、絶望的になる。
怪我の具合を診《み》るために救急箱も持たずに駆《か》けつけたのは、顔色の悪い少女だった。青白い肌の女の子は、|華奢《きゃしゃ》な身体に似合わない軍服姿で、短い挨拶も済まないうちにしゃがみ込み、おれの右足を膝《ひざ》に載《の》せた。もてない人生十六年目の男子高校生は、患部《かんぶ》以外の全身も熱くする。野球部の女子マネにだってしてもらったことはない。
「大丈夫、単純に捻っただけですから」
魔族相手にこんな表現もおかしいが、女性兵は聖母のような笑みを浮《う》かべた。緑の瞳《ひとみ》が細くなる。
「……どっかで会ってる?」
下手なナンパみたいな問いかけにも、気を悪くするでもなく答えてくれる。
「畏《おそ》れ多くも陛下はわたしの仕事場で、お手を汚《よご》してくださいました。それも敵味方の区別なく、慈悲《じひ》の心を皆《みな》にお与《あた》えになった」
「ああ!」
そんな誉《ほ》められ方をすると結婚《けっこん》式の新郎《しんろう》みたいで恥《は》ずかしいが、ギーゼラと呼ばれた女の子は確かにあの日の衛生兵だった。おれが初めてこの世界に喫ばれたどきに、野戦病院で働いていた癒《いや》しの手の一族だ。
「では陛下、お手をよろしいですか?」
「あ、あはい」
「……陛下に初めてお会いしたときには、それはそれは驚きました。高貴なる黒を髪にも瞳にも宿されたお方が実際にわたしの目の前にいらして、魔族と人間の分け隔《へだ》てなく|治療《ちりょう》にお力をお貸しくださるなんて」
まるでそこに|巨大《きょだい》な心臓があるかのような、踝の疼《うず》きが鎮《しず》まってゆく。身体中の熱が一直線に腕に集まり、|握《にぎ》られた左手から彼女の掌《てのひら》に移っていくようだ。
「どうなってるんだろ……痛みも腫れも引いてくみたいだ」
「これがわたしたち一族の魔術なんです。患者《かんじゃ》に触《ふ》れ、相手の心に語りかけながら、肉体と精神の奥深《おくふか》いところに呪文《じゅもん》を囁《ささや》いて|治癒《ちゆ》の速度を何倍にも上げてゆく……そのためには何よりも患者の治ろうという意志を引き出して、気力を与えてやることが重要です。ですから|瀕死《ひんし》の怪我人相手でも、|呑気《のんき》に子守歌なんか唄《うた》ってることもあるんですよ」
「すげえ、ほんとだ。どんどん元に戻ってく! こっれは試合中とか便利だよなあ、チームに一人は是非《ぜひ》とも欲しいっつー感じ」
母親が子供に見せるような慈愛《じあい》の|微笑《びしょう》みをおれに向ける。
「陛下の強大なお力を以《もつ》てすれば、この程度の術など|容易《たやす》いはずです」
「ほんとにぃ? 水の蛇《へび》や骨の大群や泥《どろ》の|巨人《きょじん》よりも?」
衛生兵が一瞬《いっしゅん》だけ、なんだそらという顔になった。
|扉《とびら》の前では教育係が落ち着きなく歩き回り、宥《なだ》めるコンラッドをさっきからずっと困らせている。
「やはり国一番の医師を呼び寄せたほうが……陛下のおみ足を、ギーゼラごときに任せてよいものかどうか……」
「陛下を大切に思う気持ちは立派だが、打ち身から重度の刀傷までギーゼラはあらゆる負傷者を治してきてるんだ。捻挫くらいなら彼女に任せれば安心だろう。自分の娘《むすめ》を少しは信じろよ」
「そーだぞーギュンターぁ、おれみたいな体育会系男子高校生にとっちゃ、女医さんは憧《あこが》れシチュベスト3には入るんだかんな。たとえそれがあんたの娘さんであろうと……娘!?」
負傷した足首を女性の膝の上に載せてもらって治療中というのが、あまりにも幸福だったせいか、いつにもまして長いノリツッコミで、誰《だれ》が誰のと狼狽《うろた》える。
「娘!? え、え、えーとギーゼラがギュンターの? にしちゃそう歳《とし》がかわんない気が……あ実年齢《じつねんれい》は見た目じゃ判んないんだっけ。けど何だよ、こんな大きな娘さんがいるなんて、隠《かく》し子《ご》発覚はおれじゃなくてアンタのほうじゃん。いや特に隠してはいなかったのか。にしても子持ちだなんて知らなかったなあ!」
ギーゼラがあまりにニコニコしているので、おれはそっちを向いて|喋《しゃべ》り続ける。
「けど|優秀《ゆうしゅう》で美人で申し分ない娘さんだな。これじゃつまんない男が寄ってこないかってパパとしちゃ毎日気が気じゃないだろ。そうだよな、考えてみたらギュンターってさ、結婚してて当然、子供がいて当然、孫も|曾孫《ひまご》もいて当然っていう年齢だよな。曾孫の先って何だっけ?」
「玄孫《やしゃご》かな」
「そう、やしゃご! ってなんでそんなこと知ってんの?」
答えたコンラッドの隣《となり》では、教育係がぎょっとするような様相で佇《たたず》んでいた。両肩《りょうかただ》を|脱臼《だっきゅう》状態にぶらつかせ、滂沱《ぽうだ》の涙《なみだ》と鼻水を流している。必死で結んだ唇《くちびる》は力を入れすぎて震《ふる》えていた。
「ど、どうした」
「結婚などしておりません」
「え? あっ、じゃあシングルファーザー? すげえ今時、勇気あるぅ! けど離婚《りこん》の一回や二回、男にとっちゃ勲章《くんしょう》だとかいうもんなッ、バツイチ男性のが渋《しぶ》みがあっていいなんて女も出会い系のPRで見るしなー」
「離婚もしておりませんっ! なにゆえそのような意地の悪いことを仰《おっしゃ》るのですかーっ!? 私めが陛下一筋なのをご存じでしょうにィィィ!」
おれの|踝《くるぶし》をさすっていたギーゼラが、|穏《おだ》やかな口調ながらきっぱりと言った。
「養女なのですよ」
「へ?」
「幼い頃《ころ》に父親が亡《な》くなり、母も病弱だったので、きちんとした高等教育が受けられるようにと、閣下の母上が縁《えん》組《ぐ》みをしてくださったんです。だから血も繋《つな》がっていないし、顔も似ていなくて当然です」
いや、遺伝的要素があるにしろないにしろ、フォンクライスト|卿《きょう》が子持ちであることは事実だ。しかももっと重罪なのは、こんな凛々《りり》しい職業美少女を、おれに|紹介《しょうかい》せずにいたことだ。だって女医|兼《けん》ナース兼女性兵士だよ!? どんな男だって一度は夢見るでしょう。
何をといわれると答えられないけど。
「よーし今日からギュンターのことはパパと呼んでやる。パパ、娘さん元気ー? とか|訊《き》いてやる」
「義父にお尋《たず》ねにならなくても、わたしは陛下の軍隊の一員なのですから、お召《め》しとあればいついかなるときでも参じますとも。さて、取《と》り敢《あ》えずの処置は終わりました」
青白い肌《はだ》の女性軍人は患部と膝を交互《こうご》に叩《たた》いた。
「あとは半月ほど右足に負担をかけないようにしてくだされば」
「え、治ったんじゃないの?」
「身体《からだ》に無理をさせたわけですから、自然治癒したときよりは脆《もろ》くなっております。大事を取るにこしたことはございません。ご安心ください、陛下のお世話は|全《すべ》てこのギュンターがいたします。ご不自由をおかけしたりはいたしませんとも」
「待てよそんな大げさなッ、え、まさかおれ、寝《ね》たきりとかなの? 要|介護《かいご》認定《にんてい》レベルいくつなの?」
「いいえ、普通《ふつう》に過ごされてかまいませんよ。ただし歩かれるときだけは……」
ギーゼラはナーススマイルで棒を差し出す。
「これをお使いください」
「つ……杖《つえ》?」
「そうです。名前は|喉笛《のどぶえ》一号」
「は? つ、杖に名前が?」
しかも喉笛一号って。いやきっと数々の負傷者の歩行を支えてきた、名工の|誉《ほま》れ高い逸品《いつぴん》なのだろう。そういわれてみれば茶色く真《ま》っ直《す》ぐでツヤがあり、T字型の持ち手部分もどことなく品がある。待てよ、この形には見覚えが。確かうちの祖父も愛用していた。つまり、老人用ステッキだ。
「……がーん、若くしてステッキ生活……」
「英国|紳士《しんし》みたいでステキですよ陛下」
コンラッド、それは|駄洒落《だじゃれ》なのか慰《なぐさ》めなのか。
先端《せんたん》がマシンガンになっていたり、格好いい仕込み杖だったりはしないかと、ワインオープナーみたいに引っ張ってみる。すると。
しゅぽん! と抜《ぬ》けた。
「……花とか出ちゃうし」
「おみごとですー」
かくしておれはいっそう落ち込み、気の毒に思ったウェラー卿は昼前に城から連れ出してくれた。街を抜けてから三十分くらい馬で走ると、休耕中の田畑地帯も終わってしまい、連山への一本道だけになった。
整備された山道を登り始めてから小一時間も経《た》っただろうか。突然《とつぜん》、常緑樹が|途切《とぎ》れて視界が開け、何にも|邪魔《じゃま》されない冬空が広がった。
「さあ降りて。足に負担をかけないように」
おれは使い慣れない杖を握り、左手に体重をかけて歩いてみた。まあなんとかいけそう。
頂上は展望台になっていて、転落防止の頑丈《がんじょう》な柵《さく》で囲まれていた。吹《ふ》き抜ける風は白く冷たいが、何人もの観光客が思い思いの方角を見下ろしていた。
「へえー! なんか遠足思い出すよ! 天覧《てんらん》山の公園で昼飯食ったんだよな」
「気をつけて、ちゃんと喉笛一号を使ってください」
「判《わか》ってるって。やっぱ山の頂上まで来るとさぁ、山びこ聞かずにはいらんないよなッ」
おれは片手を頬《ほお》に当て、半分メガホンで息を吸う。|脇《わき》にいた子供とほとんど同時だ。
「やっ……」
「うっふーん!」
|一拍《いっぱく》おいてエコー。
なにそれ!? |叫《さけ》び損《そこ》ねたホーが声帯を逆行する。
子供の一声を皮切りに、全員が大音響《だいおんきょう》で叫びだした。うっふん天国だ。
「何故《なぜ》こんなことに」
「頂でのメジャーな掛《か》け声《ごえ》なので。日本はどんな感じですか?」
「やっほーだよ」
「それはまた、色気の欠片《かけら》もない」
山びこ相手に色気をアピールしてどうする。いやその前に、あっはんの立場は!?
一頻《ひとしき》り叫び終えたおばさんが、おれの杖と顔を見比べてから近寄ってきた。
「気の毒に坊《ぼう》や、若いのに足が悪いんだね。あっちの方角に向かって祈《いの》るといいよ。あっちには眞王廟《しんおうびょう》も王城もあるから、きっとあんたの願いもきいてくださるよ」
「えーと、どうも、ご親切に」
おれはそこから来たんだけどね。
そんなことを告白するわけにもいかず、柵に寄り掛かって教えられた方を見下ろした。
ずっと続く一本道の向こうには、城門に守られた王都と血盟城。
「寒くないですか」
「平気」
掌《てのひら》よりも小さな銀のカップに琥珀色《こはくいろ》の液体を差し出される。考えもせずに一口飲んでしまって、口の中の辛《から》さに咳《せ》き込んだ。
「さっ、酒じゃんこれッ」
「身体が温まると思って。もうすぐ十六歳なんだから、そろそろ慣れておかないと」
「あのなっ日本人はなっ二十歳までは禁酒|禁煙《きんえん》なの! まあそんな法律がなくっても、おれは身長の伸《の》びる可能性が残されている限り、成長|促進《そくしん》を|妨《さまた》げるブツはやんないけどね」
「そうか、日本は二十歳で成人でしたね。この国では十六で大人とみなされるものだから」
「十六で? 早くねえ?」
「さあどうだろう。他と比べたこともないし」
だって実年齢算出の方程式によると、肉体的には三歳児くらいにしかなっていないのでは。
三歳児ばかりの成人式、三歳児にして選挙権。問題は投票所まで辿《たど》り着けるかどうかだ。初めてのおつかい的ハラハラ感。
おれの想像を見透《みす》かしたように、コンラッドは困った笑《え》みを|浮《う》かべる。
「|魔族《まぞく》の成長に関しては一概《いちがい》にはいえませんが、俺は異なる血が流れているせいか、十二歳くらいまでは人間ぺースだったな。そこから先はえらくゆっくりだったけど。ヴォルフなんかは由緒《ゆいしょ》正しい純血魔族だから、儀式《ぎしき》のときはまだまだ子供でしたよ。そうだな、今朝の自称《じしょう》ご落胤《らくいん》の女の子くらい」
「女の子だったんだ!?」
「気付かなかったんですか?」
さすがにモテ男、チェックが早い。
しかし十歳児姿のヴォルフラムというと、もう宗教画の天使しかイメージできない。さぞかし羽根と輪っかが似合ったことだろう。
「この国では十六の誕生日に、先の人生を決めるんです。自分がこの先、どう生きるのかをね。軍人として|誓《ちか》いを立てるか、文民として繁栄《はんえい》を担《にな》うか。あるいは偉大《いだい》なる先人の|魂《たましい》を護《まも》り、祈りの日々を送るのかを。決めなくてはならない事項《じこう》は人によって様々です。グウェンもヴォルフも、父母どちらかの氏を選ばなければならなかったし、俺は十六で、魔族の一員として生きることを決めた……人間側としてではなく」
柵に体重を預け、景色ではない遠くに視線を向けている。声に後悔《こうかい》が滲《にじ》んでいなかったことで、おれは隠《かく》れて|溜息《ためいき》をついた。もしも彼が眞魔国を離《はな》れたいと望んだら、引き止める手段がないからだ。
「ギーゼラはやっぱり十六で、フォンクライスト家の養女になることを選択《せんたく》したはずです。一生のうちに一度は、その後の運命のかかった決断をしなければならない時がある。魔族にとってはそれが十六の誕生日なんです」
ちょうどおれの目の高さに、血盟城の背後に位置する眞王廟があった。篝火《かがりび》は昼も夜も夏も冬も、決して絶やされることがないという。さっきのおばさんの言葉どおりに、あそこに向かって祈ったら、何もかも解決するのだろうか。でも、おれの願いは何だろう。望んではいけないことのような気がする。
途端《とたん》に足元がぐらつきそうな、罪悪感に|襲《おそ》われた。つい殊勝《しゅしょう》な言葉が口から出る。
「……じゃあおれ早く十六になんないと」
「何故?」
「ギュンター困ってそうだしさ」
「そんなはずがアラスカ」
………は?
急に気温が下がった気がした。
「い、今なんて言った?」
口を開こうとするコンラッドを見て、不吉な予感に襲われる。すごい勢いで首を左右に振ってしまった。身体も拒否しているらしい。
「あっ、あーいいっ、もう一度言わなくてもいいっ!」
「元気がないみたいだから、ちょっと笑わせようかな、と」
「ああーそうか、そうだったのかぁ!」
こんなに非の打ち所のない奴《やつ》も|珍《めずら》しいと、常々思ってはいた。顔も性格も声も良くて、腕《うで》が立って気の利《き》いたことをサラリと言える。影《かげ》のある過去を抱《かか》えていて、しかも子持ちでもバツイチでもない。そんな|完璧《かんぺき》な好青年がいるわけがない、いや、存在していいはずがない。どこかにきっと重大な欠点があって、それを秘密にしているに違《ちが》いないと、心|密《ひそ》かに思っていた。
例えば酷《ひど》い水虫で脱《ぬ》いだ|靴下《くつした》が猛烈《もうれつ》な|匂《にお》いだとか、脱ぐと胸毛が|猛獣《もうじゅう》並みとか。|爽《さわ》やか笑顔が魅力《みりょく》でも、その実あれは総入れ歯だとか。
だがしかし、問題はそこではなく、壊滅的にギャグが寒い点だった。
「コンラッド、今後|一切《いっさい》おれを笑わせようなんて考えなくていいから。いいか? 金輪際だからなっ!?」
こんなのを|頻繁《ひんぱん》に聞かされたら、記録的厳冬になってしまう。
「いやだなあ、一回スベッたくらいで。もう一度チャンスをくださいよ」
「よっよよよよしっ! もいっかい、もいっかいだけだかんなっ」
「いいですか? そんなことアラ……」
同じかよ!?
「あーっもういいっやっぱいいっ! おれもう元気だから、元気じゃないの足だけだから!」
「じゃあ、足首も元気になりにいきますか」
ざらつく柵《さく》に寄り掛かったまま、総入れ歯を疑われたばかりのいい男スマイルで、ウェラー|卿《きょう》はちょっとだけ身を屈《かが》めた。聞いている者などいないのに、|悪戯《いたずら》の計画を相談するような小声になる。
「捻挫《ねんざ》が癖《くせ》にならないように、しばらく姿を晦《くら》まそうか」
「晦ますってどこへ」
彼は魔族らしからぬ単語を使い、アメリカ帰りをにおわせた。
「リハビリテーションです」