おれの中ではその間ずっと、燃えよドラゴンズが流れていた。
それもニューバージョンの99[#「99」は「'99」(99年度の意)で縦書き一文字。]ではなく、板東英二《ばんどうえいじ》が歌うやつだ。セ・リーグは嫌《きら》いだ、嫌いだ、嫌いだって言っているのに、スーパーひとし君がボッシュートでほくそ笑《え》んでいる。
「う……うー、バンドウエイジが、野々村《ののむら》真《まこと》が……」
「またあの夢を見ているのか」
視神経に光が入ってきて、|瞼《まぶた》の裏まで白くなる。痛みを堪《こら》えて目を開けると、真上に|煌《きら》めく|金髪《きんぱつ》と湖底の碧《みどリ》が|瞬《またた》いていた。これで性別が女だったら、性格くらい|我慢《がまん》して付き合うのに。
「……とかって……うわっ、またなんでお前が膝枕《ひざまくら》!?」
草の上を三回も転がって、ヴォルフラムの膝から身体《からだ》を離《はな》す。四肢《しし》は怠《だる》く喉《のど》もカラカラで、後頭部には耐《た》え難《がた》い疼《うず》きがある。後ろについた両手に体重を預け、天を仰《あお》いで深呼吸した。
「頭|痛《いて》ぇ、吐《は》きそう」
「|寝不足《ねぶそく》だ」
|庶民《しょみん》的な|症状《しょうじょう》を口にして、ヴォルフラムはタオルを投げて寄こす。
「顔を拭《ふ》け、涎《よだれ》の痕《あと》が残ってるぞ。あれだけの|魔術《まじゅつ》を使ったら、いつもならかなり|眠《ねむ》るのに、今日はほんの半刻しか休んでいない。頭痛も吐き気も当然だろう」
「魔術……そうだおれ、火は!? ビロンは!?」
ゆっくりとした慎重《しんちょう》な足取りで、グレタが水を持ってきてくれた。木のカップを口元に押し当てて、心配そうに覗《のぞ》き込む。数日前におれを殺そうとしていたなんて、言っても誰《だれ》も信じないだろう。
「ルイ・ビロンはヒスクライフが当局に連行した。|娼館《しょうかん》もなんとか鎮火《ちんか》した。|硫黄《いおう》臭《くさ》い湯が大量に降り注いだからだが、どうせお前は覚えていないんだろう」
「いや……あれ、なんか変だな。覚えてるよ。いつもならすっかりぽんと忘れてるのに」
まずい、口癖《くちぐせ》が伝染《うつ》っている。
絹のカーテンに|遮《さえぎ》られたような、|朧気《おぼろげ》であやふやな|記憶《きおく》でしかないが、まるで他人が撮《と》った短編映画みたいに、自分の背中を見ていた感じ。
「|龍《りゅう》、だよな。そう、だったら頭ん中で|六甲《ろっこう》おろし歌ってりゃ、虎《とら》が使えるのかとも思ってたり、このまま十二球団のマスコットを、順に使えたらすげーなと……」
獅子《しし》も鷹《たか》も水牛も海神も強いけど、鴎《かもめ》と燕《つばめ》と鯉《こい》は遠慮《えんりょ》したいとか贅沢なことを考えてた。
おかしい。いつもなら女の人の声がして、意識が|途切《とぎ》れてしまうのに。
「女の、声? 女って誰《だれ》だ」
「それはぼくの質問だ! いいからとにかく横になれ。少しでも体力を回復しろ」
「そんな、おれだけ寝《ね》てるわけにはいかないよ。イズラも、ニナも、誰かが助けなきゃ」
「二人とも生きてるよ、消防隊員が助けたよ!」
立ち上がりかけたおれを慌《あわ》てて支え、グレタが|喉笛《のどぶえ》一号を|握《にぎ》らせてくれた。冬草で覆《おお》われた地面では、杖《つえ》は少々|頼《たよ》りない。手首のデジアナを確認《かくにん》すると、現在時刻は午後二時過ぎ。レースからまだ一時間しか経《た》っていなかった。
燻《くすぶ》り続ける木造建築は、焼け落ちてもはや見る影《かげ》もない。手前の草の上に負傷者が集められていたが、ろくに|治療《ちりょう》も受けていなかった。十人ほどの年若い消防隊員は、黙々《もくもく》と作業を続けているが、野次馬は道の向こうから、|好奇《こうき》の視線を投げるばかりだ。固まり合って|喋《しゃべ》ることに忙《いそが》しく、手を貸す|暇《ひま》はないらしい。
「医者は? どうして医者がいないんだよ」
当然、|医療《いりょう》班もいたのだが、あまりに|怪我《けが》人《にん》の数が多くて、|充分《じゅうぶん》な対応をしきれずにいたようだ。あんな建物によくぞこれだけというほど、女の子達は詰《つ》め込まれていたのだ。無言のまま俯《うつむ》いたり啜《すす》り泣いたりあるいは横たわったまま祈《いの》ったりと百人近い少女達がいつくるか判《わか》らない自分の番を待っていた。
「あれだけ大規模な火災だったのに、死人が出ないのが不思議なくらいだ」
ヴォルフラムが肩《かた》を貸してくれた。座り込まずに耐《た》えるのが、こんなにしんどいとは思わなかった。重苦しい空気に押しつぶされ、重力が倍増したみたいに辛《つら》い。
「……ユーリ?」
下の方からの細く掠《かす》れた呼びかけに、おれはがくりと|膝《ひざ》を折った。
「ユーリの声だよね」
「イズラ? 顔が……煤《すす》がついてて判らなかったよ」
金茶の髪《かみ》も日に焼けた肌《はだ》も、黒く変わってしまっていた。彼女達が最も嫌《きら》う、不吉で邪悪《じゃあく》な黒色に。それに煤の汚《よご》れだけではない。こちらに向けた瞳も濁っている。
「よかったイズラ、無事だったんだ」
「ねえ、ニナに会った? |途中《とちゅう》まで一緒《いっしょ》だったんだけど、あたし目が見えなくなっちゃって」
「目が……いや、ニナには会ってないよ。でもきっと|大丈夫《だいじょうぶ》だと思う。死者は……亡《な》くなった人はいないらしいし」
「よかった。ユーリ、ニナを見つけたら昨日みたいに治してやってくれる? あの子まだ風邪《かぜ》が治ってないから、また熱が出たら可哀想《かわいそう》だもの」
自分の腕にも脚《あし》にも、|火膨《ひぶく》れや打ち身が残っている。|睫毛《まつげ》も|眉《まゆ》も焼け焦《こ》げて、喉をやられたのか声もおかしい。
「なあ、その前に、とにかくきみの……」
半ば羽交《はが》い締《じ》め状態で引き起こされた。土を見ていた視界が急に青空になる。真夏のグラウンドでの千本ノック、あれと同じ立《た》ち眩《くら》みがきた。
「陛下!」
「平気へーき、こりゃ脱水《だっすい》症状《しょうじょう》だわ。スボーツドリンクとかあったら……」
肩の後ろから声がする。
「ヴォルフラム、離れたところで休ませるようにと頼《たの》んだだろう」
「ぼくに言うな。そいつが勝手に歩くんだから」
おれを羽交い締めにしているコンラッドの服には、火事場の|匂《にお》いが染みついていた。
「言ったろ? おれホイミをマスターしたんだよ。気休めにしかならないかもしれないけど、軽い傷なら治せると……」
「|駄目《だめ》です」
嘘《うそ》だろ?
振《ふ》り向こうとして失敗し、後頭部がまた疼いた。
「ヒューブのときと同じことは言わないよな!? だってイズラはおれを助けてくれたし、敵だなんて思ってねーしッ」
「自分がどれだけ|消耗《しょうもう》しているか、考えてください!」
「大丈夫だよ、大丈夫だって!」
それが口先だけだって、おれ自身にも判っていた。集中することはおろか、まともに考えることもできそうにない。インフルエンザが治る途中みたいに、怠くて痛くて苦しかった。
だからといってこの|惨状《さんじょう》を目の前にして、寝込《ねこ》んでいられるはずがない。できることがなければ膝を抱《かか》えて見守るだろうが、いまのおれには力がある。少しでも他人の痛みを和《やわ》らげて、役に立てるだけの力があるのに。
「放せよ、好きにさせてくれよ! やるべきことをしたいだけだって!」
「それであなたが倒《たお》れたら、いったい誰が治してくれるんですか!? どんなに強大な|魔力《まりょく》を持つ者でも、自らの限界を知る必要がある。それを弁《わきま》えずに乱用すれば、最悪の場合には命を落とすこともあるんだ! 慣れない力で疲《つか》れ切った身体と|魂《たましい》を、再び酷使《こくし》させるわけにはいきません」
「けど……」
どうにか絞《しぼ》り出す声で、イズラがおれの名前を呼ぶ。あたしはそんなに辛くないから、ユーりも休んでと気を遣《つか》う。
「……あんたがどんな顔してるのか、後ろにいてもちゃんと判るよコンラッド。本気で心配してくれてるのも、自分がくたくたなのも判ってるよ。けど、この子達はっ」
グレタが一人一人の顔を覗いて、ニナを探して歩いていた。ひとつでもイズラの心配が減るようにと、できることをし始めたのだ。
「……この子達は、右も左もわかんない外国にいきなり連れて来られたんだよ。それも自分の意志じゃなくて、家族のために仕方なくだ。いつ帰れるのかも、親や兄弟にまた会えるのかも判らない。本当にこれで良かったのか、他《ほか》に選択肢《せんたくし》がなかったか、今の自分がベストなのかも判らない。この先どんなことが待ち受けていて、どれだけやれるのかもわからない。その不安を誰かに言うことも、鬱《ふさ》ぎこむことも人前じゃできない! 元気で、機嫌《きげん》よく、愛想よくして、笑ってなくちゃならないんだよッ! 何故だかわかるか!? それがみんなのためだからさ!」
悔《くやな》し涙《みだ》以外には、今まで泣いたことなんてない。
「なんで家族や友人のために、そんな|我慢《がまん》をするか判るかい? みんなが好きだからだ。大切だからだよ……」
ちょうど耳の後ろで、ウェラー|卿《きょう》が|訊《き》いた。質問ではなく苦悩《くのう》だった。
「つらいですか」
おれは自分でも焦《じ》れるくらい、ゆっくりと首を横に振る。
「……つらく、ない。そうじゃない。辛《つら》いのは、おれのとった行動の結果が、彼女達の運命を決めたことだ。おれがろくに考えもせず、スヴェレラでバカをやったから」
おれは自由を|奪《うば》われているのか、それとも寄り掛《か》かっているのか。
「だから、何か、したいんだ。罪滅《つみほろ》ぼしになんかならなくてもいい。余計な世話と罵《ののし》られてもかまわない。できることをしたいんだ」
それが、おれの望む『|渋谷《しぶや》有利《ゆうり》』だから。
「……放せよ」
「手を離《はな》したら立っていられないでしょう」
彼の言うとおりだ。
霞《かす》む視界の片隅《かたすみ》に、鮮烈《せんれつ》な赤が飛び込んできた。新たな火災が発生したのカと意志の力で首を上げる。火ではなかった。
「これはどういうことなのですか!?」
炎《ほのお》の女だ。
燃える赤毛を高く結んだ小柄《こがら》なご婦人が、力強く自信に溢《あふ》れた早足で、怪我《けが》人《にん》の間を縫《ぬ》いやって来る。片手にトランク三つずつ、背中に木箱二つを背負っていた。あの身長と|華奢《きゃしゃ》な手足で、筋肉番付上位の力持ち。
「アニシナ? きみが何故ここに」
「その前に。ウェラー卿、貴方《あなた》が抱えているこのだらしのない物体は、髪と瞳《ひとみ》の双黒《そうこく》からすると、我々の敬愛する陛下のようですが。ああやはりそのようですね」
困惑《こんわく》しているおれの顎《あご》を掴《つか》み、ひょいと持ち上げて目線を同じにする。
「お久しぶりです陛下、|戴冠《たいかん》式《しき》の日以来ですね。もっともわたくしは十貴族の末席で、陛下のお顔などどうでもいいと思っておりましたけれど。|魔王《まおう》陛下にあらせられましては、ご|機嫌《きげん》麗《うるわ》し……くはないご様子。なにゆえ汁《しる》だらけになってらっしゃるのですか?」
何十人もの貴族と面会したが、ここまで遠慮《えんりょ》のない者も|珍《めずら》しい。きびきびしすぎた物言いから受ける冷たい印象は否《いな》めないが、理知を宿した水色の瞳には、悪意も堕落《だらく》も読みとれない。あるのは|好奇《こうき》心《しん》と探求心。自分を信じる強い気持ちだ。
「……ちょっと自己|嫌悪《けんお》になりかけてました」
「自己嫌悪! くだらない感情ですが、グウェンダルも時折そんな表現を使います。男性がよく利用する逃《に》げ道《みち》ですね!」
このひとの取り|扱《あつか》い説明書希望。コンラッドが躊躇《ためら》いがちに口を挟《はさ》む。
「アニシナ、今はそれどころでは」
「それより、一体何ですかこの惨状は!? ついに愚《おろ》かな男どもが|共謀《きょうぼう》して、気高く賢《かしこ》い女達を攻撃《こうげき》し始めたのですか? もしそうであればこのフォンカーベルニコフ・アニシナ、|微力《びりょく》ながら女性|陣営《じんえい》に加わらねばなりません! 微力というのは謙遜《けんそん》ですが」
人の話を聞きやしない。
「ふと思い立って旅に出て、カーベルニコフ発祥《はっしょう》の地、ムンシュテットナーに向けて航海中、わたくしの|傑作《けっさく》・魔動四級|船舶《せんぱく》が、季節はずれの強風を帆《ほ》に受けて、このような下世話な土地にまで運ばれてしまったのです。それにしてもあの風には腹が立つ。海図も天気図も完璧《かんぺき》に読み込んだわたくしが、|気紛《きまぐ》れな海風に翻弄《ほんろう》されるなんて」
「だからアニシナ、今はそれ……」
「しかし! こうなったのも何かの巡《めぐ》り合わせ。せっかくこの地に着いたのですから、何か実りある活動の一つでもして、魔族への畏怖《いふ》と尊敬を植え付けておくこととしましょう。では手始めに、負傷者の|治療《ちりょう》でも」
え!?
「治療してくれるの!? アニシナさん」
「おや陛下、陛下は強大な魔力をお持ちだと、ツェリ様からもお聞きしましたが。なのに何を突《つ》っ立っておられるのです? ご自身の力を試《ため》す絶好の機会ではありませんか。ざっと百人、やりでがありそうですね。ではまず手近なあなたから」
赤い|悪魔《あくま》はしゃがみ込み、|膝《ひざ》に顎を載《の》せたイズラの手を取った。
「あなたはどこが痛むのです?」
「痛いところはあまりないけど……目が……目が見えなくなっちゃったの。ねえもうこの目は治らないの? もう二度と走ったりできないのかなあ」
「さあどうでしょう。今はまず目よりも、細菌《さいきん》感染の危険のある腕《うで》と脚《あし》の|火膨《ひぶく》れを快方に向かわせましょう。|煙《けむり》と炎による一時的な|衝撃《しょうげき》のせいなら視力はいずれ戻《もど》るでしょうが、もし戻らなかったとしても、そう悲観したものでもありませんよ」
ずっと向こうの集団で、グレタが何度も跳《は》ねている。ニナが見付かったのだろうか。
「……わたくしの友人は生まれつき視力に恵《めぐ》まれませんでしたが、指先で軽く触《ふ》れることで、どんな物でも読んでしまいましたよ。あなたもそうなればいい、もし目が治らなければの話ですが」
「あたしは元々、字が読めないもの」
「それではこれから学びなさい。読み書きができないと不便でしょう」
「|駄目《だめ》よ」
おれはゆっくりと地面に下ろしてもらい、膝に顔を埋《うず》めたイズラの髪《かみ》に触れた。手首を|握《にぎ》るアニシナは、返事を待ちも求めもしない。
「……女には勉強の必要はないって、村に帰っても言われるもん」
「そうね。わたくしの育った国でも、少し違《ちが》いますがこう言われます。男は男らしく、女は女らしく。ところが|面白《おもしろ》いことに、どういう女をして女らしいとするのかを教えない。その結果もうみんな色とりどり、どれが『当たり』かは二千年間答えが出ません」
そういう教育の産物が、アニシナでありツェツィーリエだ。
グレタが寒風に頬《ほお》を紅潮させ、息せき切って走ってくる。
「ニナ、いた。でもすごくぐったりだよー」
眞魔国の三大魔女の一人は、イズラの指を|優《やさ》しく撫《な》でた。
「おや、あなた、|繊細《せんさい》な指をしていますね。編み物をしてみる気はありませんか? さて、あなたはもう自らの治癒力《ちゆりょく》と、人間の医術で事足りるでしょう。視力のほうはそこのお方に治してもらいなさい」
「アニシナ、陛下は酷《ひど》くお疲《つか》れで……」
「そういう過保護なお取り巻きが、軟弱《なんじゃく》な男を作るのです。ぶっ倒《たお》れるまで|魔力《まりょく》を使ってご覧なさい」
にやりとしか見えない笑い方が、こんなに似合う女性はいない。
「なんでしたらわたくしが担《かつ》いで帰って差し上げましてよ」
フォンカーベルニコフ卿アニシナは、背筋を伸《の》ばして次の患者《かんじゃ》を診《み》に行った。手伝えることがあると判断したのか、グレタが小走りで後を追った。
おれはみっともなく座り込み、その|颯爽《さっそう》とした後ろ姿に目を奪われる。不規則回転中の|脳《のう》味噌《みそ》にはちょっと問題ありなホルモンが|分泌《ぶんぴつ》しつつあった。
「……なんか……すげえいいよなぁ……アニシナさん」
コンラッドはともかく、いつもならヒステリックに怒鳴《どな》り散らすヴォルフラムにまで、気の毒そうな顔をして肩《かた》を叩《たた》かれた。|騙《だま》されるな、と無言の警告。|被害《ひがい》に遭《あ》ってからでは遅《おそ》い。
「ミツエモン殿《どの》!」
午後の日射《ひざ》しを跳ね返し、|目映《まばゆ》いばかりのスキンヘッドで、ぴっかりくんはおれに片手を挙げた。背丈《せたけ》は少々足りないが、彼の精力的な言動はおれなんかよりずっと指導者に相応《ふさわ》しい。奥さんの実家で婿養子《むこようし》として大活躍《だいかつやく》だが、カヴァルケードの王室も彼が継《つ》いでくれたらいいのにとふと思う。そうなれば、カ国との外交問題も解決だ。
「お身体《からだ》のほうは如何《いかが》かな。いやしかしさすがはミツエモン殿、前回の術に比べこの度《たび》は幾分《いくぶん》やんちゃさも消えて、いっそうご立派なものでしたぞ。可愛《かわい》らしい娘御《むすめご》ももうけられて、親としてのご自覚も芽生えられたのですかな」
もうけたわけでもないですが。
「で、そのご息女のことなのだが」
「グレタが、なにか?」
手入れされた口髭《くちひげ》を指で扱《しご》き、へたり込みそうなおれに合わせて腰《こし》を下ろしてくれる。緑にまみれることも気にせずに、草の上にどかりと胡座《あぐら》をかいた。
「私の部下の報告によると、どうやらご息女の両肩《りょうかた》には、生みの親の名前が彫《ほ》られているようですな。ああ気に障《さわ》られたら申し訳ないのだが、公衆浴場の管理者には、刺青者《いれずみもの》はとりあえず報告する義務があるのです」
あの際《きわ》どい水着に目を|奪《うば》われていては勤まらないわけだ。海綿状態になりつつある脳のシワを、必死に押し広げて思い出す。
「うん確かに、右肩に母親の名前はあったな。グレタのお母さんはイズラって名前で……」
|瞼《まぶた》を|擦《こす》っていた隣《となり》の少女に、きみのことじゃないよと言ってやる。
「イズラ……やはり」
ヒスクライフの顔が一瞬《いっしゅん》、深刻になる。白茶の眉《まゆ》が寄せられて、髭《ひげ》の下の唇《くちびる》が短く唸《うな》った。
「ミツエモン殿、もちろんご存じのこととは思うが、もしやご息女は廃国《はいこく》ゾラシア皇室の生き残りですかな」
「廃国……ええっ!?」
皇室の生き残り!? ということはそのコウシツはグレタを残して全滅《ぜんめつ》しちゃったってことになるのか。しかもまたまたお姫様《ひめさま》だったのか。お姫様なのにおれを暗殺にきたのか!? 疲れた頭で動転するおれの代理で、コンラッドが会話を続けてくれた。こういうときに信頼《しんらい》できる部下がいると助かる。ギャグ以外では完璧だから。
「なるほど、両肩に親の名を彫るのは、ゾラシア皇室の慣習だな。ということはグレタの母親は、ゾラシアに第三婦人として輿入《こしい》れした、スヴェレラの末の姫君イズラ殿ということに」
「……姫様はとても気さくな方で、国ではとても人気が高かったのよ。だから女の子が生まれると、親はみんなイズラって名前をつけたがるの」
掌《てのひら》の下で、骨の浮《う》かんだ背中が細かく震《ふる》える。家族と故郷のことを想《おも》っているのだろう。
「待てよ、じゃあなんでグレタはスヴェレラにいたんだ? 伯父《おじ》夫婦の養女になったのかな。だとしたらおれの隠《かく》し子《ご》なんて言わなくてもいいし……ああっ先方のご両親に了承《りょうしょう》をとらないとっ!」
「その必要はありますまい」
ヒスクライフは目立つ赤毛を目で探し、その足元を走り回る子供に視線を落とした。
「イズラの娘《むすめ》グレタは、人質としてスヴェレラに送られています。内戦とそれに乗じた攻撃《こうげき》で、ゾラシア皇国が|滅亡《めつぼう》の危機に瀕《ひん》した際に、せめてスヴェレラからの攻撃は避《さ》けたいと、王室に人質を差し出したのですよ……だがその半年後に、かの国は民衆政府に制圧された。イズラ姫は未来を予測しておられたのでしょうな。せめて可愛い娘だけでも、自分の母国で生き延びて欲しいと送り出したのでしょう」
「それ……グレタは知ってんのかな」
「|恐《おそ》らくは」
とても長く感じる沈黙《ちんもく》の後に、ヒスクライフは顔を上げて切りだした。これが最善の策であると、彼自身信じている口調だった。
「どうでしょう、あのお嬢《じょう》さんを私どもにお預けくださらぬか?」
「なんだよそんな、いきなりっ」
「今は|無邪気《むじゃき》なだけでよいかもしれぬが、皇室に生まれた血とさだめは消せはすまい。いずれは亡国を興《おこ》す旗頭《はたがしら》か、あるいは歴史の生き証人になるやもしれませぬ。人間の皇族としての教育を、受けているといないとでは大きな差がつく。幸い私の娘ベアトリスも、現在は一年の半分を、王室教育としてカヴァルケードで過ごしております。もしミツエモン殿さえよろしければ、ご息女に私の母国で学んでもらうことを……」
「……人質ってことか? またグレタを人質に出せってことなのか?」
ミッシナイのヒスクライフは言葉を切り、憤慨《ふんがい》の表情を浮かべかけた。だがすぐに感情を引っ込めて、変わらぬ口調で再開する。
「人質などではござらぬ。眞魔国からカヴァルケードの教育機関へ、留学されてはと申しておるのです。もちろん、学友としてベアトリスとよい友情を築いてくれれば、一人の親としてこれ以上|嬉《うれ》しいことはないが、それを除いても得るものは少なくない。無礼を承知で申し上げれば……魔族の|皆様《みなさま》の教育のみでは、この世界の|全《すべ》てを理解するのは難しいかと……」
ヴォルフラムが|爆発《ばくはつ》しそうになっているが、間にコンラッドがいるために、掴《つか》みかかることはできなかった。
「もちろん我々人間側の教育だけでも、公正な判断力を持つ人格をつくるのは難しい。だからこそ、ご息女には両国で学び、両者の仲立ちとなってもらいたいのです」
彼の意見は八割がた正しかった。このままグレタを眞魔国に連れて帰っても、人間の歴史や皇族としての嗜《たしな》みなどを教えてやれる者はいないだろう。ギュンターやその他の教育者に任せきりで、魔族至上主義の人間の少女を育て上げるのは、横暴とまではいかないまでも、どこか後ろめたい気分になる。
有効な助言を求めようにも、ヴォルフラムは|怒《おこ》ってばかりだし、コンラッドはいつもの彼らしく、ご自分でと短く言うだけだ。
「グレタのこと話してた?」
全速力で戻《もど》ってきた子供の頬《ほお》は、この場の誰《だれ》よりも健康そうだった。誰よりも純粋《じゅんすい》で生命力に溢《あふ》れ、あらゆる可能性に満ちていた。
「やあお嬢さん、お父上とお話ししていたところなのですが……」
「グレタ、ヒスクライフさんと一緒《いっしょ》に行くかい?」
「え?」
突然《とつぜん》の提案が飲み込めず、|虚《きょ》を突《つ》かれたように大きな目を瞬かせる。
「ヒスクライフさんの育った国で、彼の娘さんと一緒に勉強する?」
「……なんで?」
「ベアトリスは今年で七歳で、世界の歴史や文化や芸術をカヴァルケードの学校で学んでるんだよ。国と国との関係とか、王女様としての心得なんかも、年の半分は両親から離《はな》れて、お父さんの生まれた国で勉強してるんだ。もしよかったら、お前もそこに……」
「いやだ!」
話を切り出す直前までは、本人が一度でも|拒否《きょひ》したらすぐにでも断ろうと思っていた。
グレタは小さな拳《こぶし》を|握《にぎ》りしめ、ロ端《くちばし》を震わせて|抗議《こうぎ》する。
「だってユーリもううちの子だって、グレタはうちの子だって言ったのに! なのにまた国のためにとか難しいこと言って、グレタをよその国にやるの!? お母様とおんなじ理由を言って、お母様と同じことまたするの!?」
「そうじゃないよグレタ」
「だって同じだよ! よその国にやるんだもん! もうグレタが要らないってことなんだ」
「同じじゃないって!」
「同じだろうが」
いつのまにこんな可愛げのない|喋《しゃべ》り方《かた》になっちゃったのかと、びっくりして二人とも止まってしまった。だが口を挟《はさ》んだのはヴォルフラムで、|呆《あき》れたように片足を投げ出している。
「どこまで理解力のないバカニ人なんだ。まったく親子でそっくりだ」
「ヴォルフ、お前のことじゃないんだからさ……」
「母親がスヴェレラに送ったのも、ユーリがこの『ハゲ』に預けるのも、理由は同じだ」
ああ、言ってはいけない単語を。この際それはおいといて。
超《ちょう》美人の母親と男前の兄二人を持つ、魔族の元ブリ三男|坊《ぼう》は、何をするにも|傲慢《ごうまん》で、注がれた愛情にも自信があった。
「お前のためを思って、そうするんだ」
だいたいどこの世界に子供のためにならないことをする母親がいる? そういうところ|認識《にんしき》不足だというんだ。しかもこんなちんけで非力なガキが国のためになんて逆立ちしてもなるものか。そんなことも思いつかないへなちょこだから、ぼくがついてないと旅もさせられないというんだ。おいユーリ、それにガキ、聞いてるか?
聞いていなかった。グレタは泣いていて、おれは堪《こら》えていた。
「……そうだよ、お前のためにはそのほうがいいかなと思ったんだ」
畜生《ちくしょう》、子供に泣かれたら、おれが悪いことしてるみたいじゃねーかっ! しかも娘に泣かれたら、こっちも泣きたくなるじゃんか!
「魔族だけの中で生活してくより、半分は人間の社会を体験して、もう半分はおれたちの国に住むほうが、両方味わえてお得かなって、いや公平かなって思ったんだ。でもグレタが嫌《いや》ならそれでいい。おれと一緒に王都に戻ればいい」
「……グレタ、ハゲのうちの子になるの?」
わあまたしても口にしてはいけない単語を。
「……グレタもすっかりピカビカにするの?」
全員が片手で「ないない」とツッコミ。
「バカだなグレタ、お前はおれの隠し子だろ? ぴっかりくんちの子供になんかさせないよ!」
「ほんっ……ほんとに……っ?」
「離れてたってお前はうちの子だし、一緒にいなくても家族は家族だろ」
「うん」
「誰も知らない所に行ったって、グレタは眞魔国の渋谷ユーリの娘ですって、胸張って大声で言えばいいんだ。帰りたければいつでも帰ってきていいし、会いたければいつでも会いたいって言っていいんだ。子供を卒業する歳《とし》までは、おれのこと思い出して泣いたっていいんだよ」
「うんっ」
小さくてしなやかで温かい身体《からだ》が、立てないおれに乗りかかってきた。即席《そくせき》縮《ちぢ》れ麺《めん》の髪《かみ》を撫《な》でてやろうとしたが、もう腕《うで》を上げる余力もなくなっていて、肩《かた》に顔を埋《うず》める子供の熱い涙《なみだ》が、服に染《し》み込むのだけを感じていた。
こちらのプチ|戯曲《ぎきょく》など気にもせず、アニシナや消防隊は働いている。
腰《こし》を曲げて屋台を牽《ひ》く|鉢巻《はちま》きの親爺《おやじ》が、通りの向こうからやって来た。子供を首に巻き付けたまま、|眠《ねむ》りこみそうなおれを見つけて声を張り上げる。
「おーい、にーさーん! 腹減ってそうだねい!」
「……お母様と最後に食べたのも、できたてで熱いヒノモコウだったんだよ」
「ああ、あれってゾラシアの|宮廷《きゅうてい》料理なんだっけ」
疲《つか》れ切った働き者達が、何人か屋台に向かっていった。見物で身体の冷えた野次馬も、熱い丼《どんぶり》にありつこうと|一斉《いっせい》に懐《ふところ》の小銭を|探《さぐ》る。
親爺は見物客を手で払《はら》い、火消しの男達だけに器《うつわ》を渡《わた》し始めた。
「何してんだろ、商売っ気のない店主だなあ」
「というより義侠心《ぎきょうしん》のある男なのかもしれませんね」
コンラッドが身軽に立ち上がり、麺類《めんるい》を貰《もら》えるか挑戦《ちょうせん》しに行った。おれとグレタは昨晩食べたけど、口にせずに逃《に》げてしまった娘《こ》もいたっけ。
「イズラ」
「なーに」
|煙《けむり》のせいで止まらない涙を拭《ふ》きつつ、少女は確かにおれに視線を向けた。
「見えるようになったのか」
「……ぼんやり。形が判《わか》るくらい」
「よかった。なあ、イズラもニナも故郷に帰りたいんだよな?」
「そうよ。でもね」
少女は掌《てのひら》を|膝《ひざ》で|擦《こす》り、煤《すず》だらけの自分の顔を軽く叩《たた》いた。ちょっと見ると、気合いを入れているみたいで、元気だせと言い聞かせる行為《こうい》だった。
「でも、もしもっといい仕事があるのなら、もう少し頑張《がんば》って働きたいの。だってスヴェレラには何もなくて、親も兄弟もお金がいるんだもの。それに」
離れていても家族は家族でしょ?