絵のモデルになるよう頼《たの》まれたら、誰《だれ》だって少しは躊躇《ちゅうちょ》する。ましてやそれが裸婦《らふ》ならぬ、ラ男であったなら、十中八九お断りだ。
おれももちろん躊躇した。そしてやんわりと辞退した。
ところが描《か》き手も心得たもので、今が一番いい時機だからとか、若くて|綺麗《きれい》なうちに絵画として残しておこうとか、アイドルを脱《ぬ》がせちゃうカメラマンみたいに言葉の限りを尽くして説得してくる。おれのほうも段々|面倒《めんどう》になってきて、上半身だけの条件付きで|承諾《しょうだく》してしまった。日々の鍛錬《たんれん》の|賜物《たまもの》で少しは筋肉がついてきていたし、数日前にグウェンダルが|廃棄《はいき》していったトレーニングマシンの効果も見たかったからだ。
|眞魔《しんま》国科学の粋《すい》を結集して製作されたそれは、通販《つうはん》番組でよく見たブレードにそっくりだった。魔力増強刃というらしいが、中央の|握《にぎ》りを持って振《ふ》ってみると|驚《おどろ》くほど背筋と腹筋に効く。さすがは大投手ランディ・ジョンソンもご愛用の品、これならあらゆる筋肉を|鍛《きた》えられそう。
「だったら鍛え上げてプチマッチョになった肉体を、グラビアならぬ油絵で残すのもいいかもなと思っただけなのにーっ」
「逃《に》げるなユーリ! 男らしくないぞ」
下半身を隠《かく》す布を押さえながら、おれはドアヘと突進《とっしん》した。絵筆を投げ捨てたヴォルフラムが、鼻を摘《つま》みながら追いついてくる。
「ひひどかかひぇると言ったんひゃから、ひゃいほまひぇひひんと座《すわ》ってひろ」
「|冗談《じょうだん》じゃねーぞ!? 確かに脱いだのは上だけだったけど、下半身が腰蓑《こしみの》ってのはどういうセンスよ。ジャングル大帝《たいてい》は大好きだけどジャングルの王者ターザンにはなりたくねーっての。しかもこの、この、うううこの恐ろしい臭《にお》い! なんだこりゃ!? お前どこのメーカーの油絵の具使ってんの? くさやの干物《ひもの》から抽出《ちゅうしゅつ》されるやつ!?」
室内は呼吸を|拒否《きょひ》したくなるような|物凄《ものすご》い臭気《しゅうき》に満ちていた。自分だけちゃっかり鼻を洗濯《せんたく》バサミでガードして、ヴォルフラムはおれの腰蓑をしっかり掴んだ。
「くそっ、おれにもその魔動|洗濯《せんたく》バサミとやらをよこせ! ああもう臭《にお》いで気が遠くなってきたよっ」
「まったく、芸術を解さない輩《やから》は困る。最高級の顔料を前にして、香《かお》りのことしか言えないとはな!」
|目映《まばゆ》いばかりの|金髪《きんぱつ》と湖底を思わせるエメラルドグリーンの瞳《ひとみ》、天使のごとき|美貌《びぼう》の元王子様は、アクセサリー代わりの鼻洗濯バサミを揺らしながら言った。
「これは|滅多《めった》なことでは手に入らない希少価値の顔料だぞ。お前の肌《はだ》の色に近いと思って、わざわざ国外から取り寄せたんだ。聞くところによると、さる動物の|排泄物《はいせつぶつ》から……」
「サル!? サルのうんこなのか!?」
「いや、猿《さる》ではなく」
「猿であろうがなかろうが、糞《ふん》から作られた絵の具でおれの顔を塗《ぬ》るな。しかも」
おれはアマチュア画家の手を振り払《はら》い、涙《なみだ》の出そうな|刺激臭《しげきしゅう》を堪《こら》えてキャンバスに歩み寄った。長男が編み物で三男が絵画とは、外見と趣味《しゅみ》のギャップが大きい兄弟だ。こうなると次男の私生活がどんなものなのかは、|訊《き》かないほうが身のためかもしれない。
「これのどこがおれの|肖像画《しょうぞうが》だ? お前の眼《め》にはおれがこんな風に見えてんの? これどう見たってピカソどころか……」
厚い胸板と割れっ腹めざして鍛錬中の肉体は、垂れた胸とせりだした腹に書き換えられている。丸くおどけた両眼の周りには|隈取《くまど》りがあり、気のせいか長い髭《ひげ》が数本飛び出ている。片手に|徳利《とっくり》さえ持たせれば。
「……|完璧《かんぺき》に|信楽焼《しがらきやき》のタヌキじゃん!? 居酒屋に転がってるタヌキだよなあ!? |普段《ふだん》は美しいだの見目いいだのっておだてていてからにさ、本当はこういう風に見えてたわけ? |抽象的《ちゅうしょうてき》にも程があんだろ」
「ぼくの才能に|嫉妬《しっと》してるのか」
「違《ちが》うって。それにこの胸、この垂れた乳!」
ご丁寧《ていねい》に乳首まで描いてあるが、野球人というより相撲《すもう》レスラーの肉である。
「確実にBカップはありますよ。こんなに誇大《こだい》広告されたらおれ、JAROに電話されちゃうぜ!?」
「ジャロってなんジャロ」
「お前が言うなーっ」
とにかく空気を入れ換《か》えようと、部屋中の窓という窓を開けまくる。秋の午後の黄色っぽい陽光が差し込んで、枯《か》れ葉を乗せた風が流れてきた。
手近な布を振り回し、どうにか悪臭《あくしゅう》を分散させようとする。腰蓑一丁で両手両足をばたつかせる姿は、傍《はた》から見れば相当|奇妙《きみょう》だろう。
「何やってんだよ、手伝えよっ。このままじゃ今夜|寝《ね》られないだろ」
そう、お約束どおり此処《ここ》はおれの居室で、ベッドルームに|隣接《りんせつ》したプライベートなリビングだ。テニスコート二面分の広さはあるが、確かに王様個人の部屋のはずだ。
「だいたいどうしてお前はおれんとこに住んじゃってるんだよ。こんなばかでかい建物なんだからさ、ゲストルームくらいいくらでもあるんだろ?」
悪びれる素振《そぷ》りさえ見せずに、ヴォルフラムは胸の前で腕《うで》を組んだ。得意の反《そ》っくり返りポーズになりつつある。
「別棟《べつむね》の客舎は兄上の隊が使っているが、城内の東側に迎賓棟《げいひんとう》がある」
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「それだ、迎賓館! 外国のお|偉《えら》いさんとかが宿泊《しゅくはく》する|施設《しせつ》だろ? 今はお客さん誰も来てないからさ、ヴォルフがそっちに住めばいい。そうすりゃもうグレタに疑われることも、ニコラに|二股《ふたまた》はよくないって囁《ささや》かれることもなくなる」
「迎賓棟は|駄目《だめ》だ。聞いていないのか?」
どうして駄目なんだ、下品が伝染《うつ》るからか? 泊《と》まるだけなら|大丈夫《だいじょうぶ》だろうに。
美少年は魔動洗濯バサミ越しに鼻を鳴らし、腰蓑姿のおれを見下ろした。
「自分の城の|状況《じょうきょう》も把握《はあく》できていないとは。これだからお前はへなちょこだと言うんだ。ギュンターかコンラートから聞かされていないのか? いいか、この城の東側には、見たこともないような|怪物《かいぶつ》が棲《す》みついているんだ」
おれは軽く肩《かた》を竦《すく》め、顎《あご》を前に突《つ》き出した。|眉《まゆ》と目の間が|妙《みょう》に空いて、|間抜《まぬ》けな顔になってしまう。
「怪物ー?」
「そうだ」
「怪物、ていうか魔物?」
「魔物じゃない。いいかユーリ、少々アタマが軽いくらいなら、可愛《かわい》い奴《やつ》と好意的にも思えるが、|極端《きょくたん》に頭の悪そうなことを言っていると正真正銘《しょうしんしょうめい》本物《ほんもの》の|馬鹿《ばか》かと笑われるぞ。我々が魔物の扱《あつか》いに困るはずがないだろう。魔物の大半は魔族に忠誠を|誓《ちか》っている」
「へえすげーや、さすがにマのつく者同士だ。けど怪物とか化物《ばけもの》は別なわけ? なんだろどこが違うんだよマと怪《かい》と」
足の数とか甲羅《こうら》の形とか、背中の星の模様とかだろうか。
ヴォルフラムは絵の具を箱に戻《もど》し、イーゼルを軽く蹴《け》って折り畳《たた》んだ。今日のところはこれくらいにしといてやらあ、という態度。此処は誰の部屋だっけと、今更《いまさら》な疑問が頭をもたげる。
「だったらその問題の生物を追っ払《ぱら》えば、お客さんはそこに泊まれるわけだよなあ」
「はあ? お前はまた何を|奇天烈《きてれつ》なことを」
「キテレツじゃねーよ、そいつを|首尾《しゅび》よく|駆除《くじょ》すれば、ヴォルフも迎賓館で生活できるんだろ? そうすれば絵のモデルをやらされることも、部屋中を汚染《おせん》されることもなくなる!」
「簡単に始末できるようなら、衛兵や警備隊がとっくにやっている。そうならないということは、|厄介《やっかい》な相手に違《ちが》いない」
「わっかんないぞ? 実は密かにヨワヨワなんだけど、誰《だれ》一人として敵の弱点を発見できてないだけかもしれないぜ? よーし決めた! 快適空間と完全一人部屋と安眠《あんみん》のために、おれはモンスターを退治する!」
久々に聞く、RPG用語らしき|響《ひび》きだ。
野性味|溢《あふ》れる姿で背筋を伸《の》ばし、腰《こし》に両手を当ててワイルドに|叫《さけ》んだ。
「おれは断固モンスターと闘《たたか》う! ターザン|嘘《うそ》つかない! 怪物が怖《こわ》くて松坂の球が捕《と》れるかってんだーっ」
捕らせてもらえる予定もないけど。
昼過ぎという時間帯のせいか、城内の警備は比較《ひかく》的|緩《ゆる》やかで、行き交《か》う人の数もそこそこ、犯行にはうってつけの状況だった。自然と忍《しの》び足になる。
「待てよ、別に悪いことしようってわけじゃないんだよな、おれたち」
そう、人々……主におれを困らせている存在、城の奥深くに巣くうモンスターを|討伐《とうばつ》するのが今回のイベント。救出するべき姫《ひめ》や村人は特にいないが、この任務に成功すれば快適な一人暮らしが待っている。目指せ個室、勝ち取れ安眠。
「悪いことではないにしろ、あの場にいたのがギュンターだったら、計画するまでもなくお終《しま》いだったぞ。過保護な年寄りや護衛にも内緒《ないしょ》で、こんな子供じみた作戦に付き合ってやっている、ぼくの心の広さに感謝しろ」
「いや、原因は八割方お前なんだけどね」
装備一式を借りている身としては、大声で批判はしづらかった。
問題の迎賓棟への渡《わた》り石廊下は、黄色と黒のロープで封鎖《ふうさ》され、|暇《ひま》を持て余した兵士が二人、休めの姿勢で立っていた。なんだかとても、長閑《のどか》でユルい。
「これは陛下! このようなむさ苦しいところへようこそ!」
「ああうん、ちょっと君達を労《ねぎら》おうかと思ってさ」
おれとヴォルフラムの姿を見てたちまち姿勢を正した兵達に、元王子|殿下《でんか》は慣れた様子で手を振《ふ》った。
「ちょっとした散歩だ、楽にしていいぞ」
どちらが王様だか判《わか》りゃしない。
力強い太字の注意書きが、壁《かべ》に何枚も貼《は》られている。立つな、入る、時! ああ、要するに立入禁止か。
「怪物が棲みついてるらしいね」
「怪……はっ、確かにそのような生物が、おりますことはおりますデスが、奴の根城……いえ寝室《しんしつ》は一層下ですし、この先はミッキーが巡回《じゅんかい》しておりますので、ご心配には及《およ》びません! |皆様《みなさま》のお使いになる区域には、絶対に近づかせないことをここに誓います!」
選手|宣誓《せんせい》みたいに腕を上げて、小柄《こがら》なほうの兵士が更《さら》に背筋を伸ばした。|舞浜《まいはま》では踊《おど》っているばかりのミッキーも、眞魔国では絶大な信頼《しんらい》を得ているようだ。
「それでだね、実はその怪物を、話の種にちょっとだけ見てみたいなーなんて、思っちゃったりしてんだけど」
「は!? 陛下が、アレをですか!? いえしかしコンラート閣下はご|一緒《いっしょ》ではないので……?」
せっかく下手に出てお願いしてみたのに、兵士はぎょっとして顔色を変えた。すぐに名前が出たところをみると、責任者はギュンターではなくコンラッドらしい。仕方がない、堂に入っているとは言い難《がた》いけれど、ここは一つ偉大《いだい》なる|魔王《まおう》陛下ぶって居丈高《いたけだか》に命令でもしてみるかと、おれが首を二回鳴らした時だった。
「そうか、それがお前等の総意か」
いつもの美少年ボイスとは一八〇度違《ちが》う、地の底から響くような恐《おそ》ろしい声で、ヴォルフラムは静かにそう切り出した。どことなく長兄を彷彿《ほうふつ》とさせる。魔族似てねえ三兄弟なんて呼んではきたが、最近では「外見に|騙《だま》されちゃいけない三兄弟」になりつつある。
「コンラートが一緒でないのが不服なんだな。ぼくとユーリだけでは城内さえ自由に歩かせないと、お前等警備は言いたいわけだ。自分達の主はユーリではなく、コンラートだと示し合わせているんだろう!?」
「そ、そんなとんでもないっ」
「いーや、そうに決まっている! たとえ|僅《わず》かな数だとしても、その思想は確かに反逆罪に通じるものがあるぞ。ウェラー|卿《きょう》を担《かつ》ぎ出して国家|転覆《てんぷく》を謀《はか》ろうとは! 大逆の芽は早いうちに摘《つ》んでおかなければ」
「め、|滅相《めっそう》もございませんッ」
二人の兵士は顔面を|蒼白《そうはく》にし、気の毒なくらいに狼狽《うろた》えた。今にも三男の足に|縋《すが》り付き、赦《ゆる》しを請《こ》いそうな怯《おび》え方だ。
「この身が主と|仰《あお》ぐのは魔王陛下お一人だけでありますッ、どうか失言をお許しください」
「ではぼくらがお忍びで怪物見学に向かったことは、お前等の上官であるコンラートに報告せずにおけるのだろうな?」
「も、もーちろーんでーすとーも」
来日三ヵ月の留学生みたいな発音で、年長の男が請《う》け合った。
「陛下のお気の向かれるままに、どうぞこの場もお通りください! ちなみに自分は陛下トトでも『ヴォルフラム閣下に押し切られる』に給料全額注ぎ込んでおりますッ」
「ちょっとそのっ、おれトトってのは何なんだよ?」
余計なことを言うなとばかりに、男は相棒に蹴り飛ばされた。
警備を|誤魔化《ごまか》して入ってしまうと、迎賓棟《げいひんとう》は案外しんとしていた。
封鎖されて長いのか、空気が古く湿《しめ》っている。|匂《にお》いといい冷気といい明るさといい、掃除《そうじ》していない冷蔵庫の奥みたいだ。
「迷いこんだ肉二つ……」
「おい、姿勢を低くしろ」
ダンジョン探索《たんさく》時の先頭キャラは、いきなり|攻撃《こうげき》を喰《く》らう可能性が高い。なのにおれが前列配置ということは。
「おれって|戦闘《せんとう》要員?」
「背後から敵が来たらどうするつもりだ」
そうだった。現実世界では不意打ちも|卑怯《ひきょう》な手もありだ。
静まり返った通路の遠くから、微《かす》かな音が風に乗ってくる。リズム感に恵《めぐ》まれた赤ん坊《ぼう》が、床《ゆか》を|枕《まくら》で叩《たた》くような音だ。
「なんだ? この軽い足音みたいなの」
速さは|心拍《しんぱく》の倍くらい。段々こちらに近づいてくる。おれは唯一与《ゆいいつあた》えられている武器、|喉笛《のどぶえ》一号をしゅぽんと抜《ぬ》いた。例によって、花とか出ちゃった。
「やっぱダンジョン最初のモンスターは、小さくて青くて可愛《かわい》いタマネギ型と相場が決まってんじゃねえ?」
「ばかユーリ! 伏《ふ》せろ、地面にへばりつけ!」
「うるさいなあ、バカって言ったやつがバカなんで……うひえ!?」
コーナーを六速で駆《か》け抜けて正面から|迫《せま》ってきた|巨大《きょだい》な敵は、小さくも青くも可愛くもなかった。もちろん、スライム一族ではない。
「み、ミッキー!?」
の、手。
太くて丸い四本の指。ご存じM|鼠《ねずみ》の白い手の部分が、人差し指と中指を足にしてつっ走ってくる。縦横共に何百倍かの拡大率で、ほとんど通路を塞《ふさ》いでいる。まさか、ミッキーが手だけだとは、おれも想像していなかった。|HP《ヒットポイント》もやたらと高そうだ。
「ど、どーするヴォルフ……ってうわ、後ろからも!?」
おまけに仲間も喚《よ》びやがった。
パーティーメンバーの助言を得ようと振り返ると、背後からもミッキー(の手)が走ってきていた。ぽすぽすぽすぽすという軽やかなピッチ走法で、通路の|天井《てんじょう》まで塞いでいる。
「これじゃ前門のコニシキ、後門の曙《あけぼの》状態じゃん!」
「突《つ》っ立ってるな! 伏せろ、伏せるんだユーリっ、張り紙に書いてあったろう?」
立入禁止とはまさに言葉どおりの意味だったのか。
おれたちは|咄嗟《とっさ》にしゃがみ込み、ミッキーズ(複数形)の股下《またした》を潜《くぐ》ろうとした。だが|一瞬《いっしゅん》|遅《おく》れたおれの顔面は、ミッキー一号の股間《こかん》に|激突《げきとつ》してしまう。
「ぐは」
ビーチバレーで顔面サーブを決められたら、きっとこんな感じだろう。苦痛よりも|衝撃《しょうげき》が先にきた。|脳《のう》味噌《みそ》を強く揺《ゆ》さぶられ、|記憶《きおく》が|途切《とぎ》れそうになる。ヴォルフラムの呼ぶ声も、水中スピーカーを通したみたいにこもっている。
「だいじょ、ヴォル、ふ、うにょ」
石の床に|倒《たお》れ込めるかと思ったのも束《つか》の間、おれたちはミッキーペアに挟《はさ》まれて、にっちもさっちもいかなくなってしまった。彼等は|譲《ゆず》るという行為《こうい》を知らないらしく、互《たが》いにぐいぐいと押し合っている。がっぷり四つに組んだその姿は。
「うう……これぞミッキー相撲《ずもう》……」
西・ミッキ乃山、東・ミッキ道山。
四股名《しこな》をつけている場合ではない。待てよ、どっちかがカノジョ鼠(の手)だとしたら、これは取組《とりくみ》ではなくイチャツキか? いずれにせよこのままの状態が長く続けば、我々貧弱な二人とも、|窒息《ちっそく》してアウトになってしまう。ムッチリした白い皮膚《ひふ》に鼻と口を塞がれながらも、おれは必死で同行者に声をかけた。
「ヴォルフ、どう、ニカシテっ、下に逃《のが》れようっ。こいつらの腰《こし》の位置が上がった瞬間《しゅんかん》がチャンスだからっ、いちにのさん、で、身体《からだ》を、引っこ抜くぞ」
「わかっ、はなだ」
おにーちゃんのほうだね? 「判ったのだ」と言いたいらしい。
ふっと彼等の腰が高くなり、股下の空間が広まった。ひしゃげた鼻のせいで情けない掛《か》け声と共に、おれと三男は頭部を引きずりおろす。顔のパーツが|全《すべ》て上に引っ張られるが、大きな蕪《かぶ》を収穫《しゅうかく》するみたいな音と同時に、頬肉《ほおにく》と呼吸が楽になる。
「良かった、抜け……」
だがしかし、今度は下方に行き過ぎだ。なんでいきなり地面がなくなってるの!? 人生とは必ず|両《りょう》極端《きょくたん》、ちょうどいいということがない。足の裏には石床が存在せず、引力の法則に従って移動中だった。てっとり早く言うと、落ちている!
「ひょーぅうぅー」
尾《お》を引く悲鳴だけを残して、おれたちは別の階層に落下した。
固い地面を予想レて身体を丸めるが、着地点には|奇妙《きみょう》な弾力《だんりょく》がある。二、三回軽く跳《は》ねてから、ようやく足場が安定した。尻《しり》と掌《てのひら》の下に広がるのは、ひんやりと吸い付くグミみたいな塊《かたまり》だった。
「……ヴォルフラム? ヴォルフ、なあ|大丈夫《だいじょうぶ》だったか? どっか致命《ちめい》的な怪我《けが》ねえか?」
「くそっ、顔をやられた」
「マジ!?」
冷蔵庫内の照明程度の明るさの中を、連れの元まで|膝《ひざ》で進んだ。あの|綺麗《きれい》な顔に傷でもつけようものなら、賠償請求《ばいしょうせいきゅう》されても文句は言えない。美少年の価値が損《そこ》なわれたからと、結婚《けっこん》を迫られてもまた困る。
薄暗《うすぐら》い室内にも目が慣れてきて、フォンビーレフェルト|卿《きょう》の被害《ひがい》状況《じょうきょう》も確認《かくにん》できた。
「なんだ、鼻がちょっと上向いただけのことだよ。お得意の魔動洗濯《まどうせんたく》バサミで嫡《つま》んどきゃ、一日二日で元どおりだって」
「簡単に言うな。はにゃがひたひ」
八つ当たりのつもりなのか、ヴォルフラムは|拳《こぶし》で床を叩いた。グミ状の生白い床面は、|一拍《いっぱく》おいて震動《しんどう》を伝える。
おれたちは、何の上に座っているんだろう。
「なあ、なんかこれ、動いたぞ」
「動いただと? まったくお前ときたら、ぼくの鼻よりも地面のほうが心配だなんて、|婚約者《こんやくしゃ》としてあまりに薄情《はくじょう》だとは思わないのか」
おれのお約束フレーズだが、言い飽《あ》きているので半ば棒読み。
「だっておれたち男同士じゃーん、はともかく。こんなブヨついた床があるもんか。こりゃきっと布団部屋とか食糧《しょくりょう》貯蔵室とか……おおっ!?」
震度計の針が跳ね上がる勢いで、尻の下の白グミが揺れた。おれたちは猛《もう》スピードで曲線を|滑《すべ》り降《お》り、今度こそ固い石に腰をうちつけた。丸い小山状だった存在が盛り上がり、いきなり身体を伸《の》ばし始めた。あれよあれよという間に、おれたちよりも高くなる。白グミ|頑張《がんば》れとか旗振っている余裕《よゆう》もない。
「ぐ、グミどころか……」
目の前でいきり立っている生物は、人間よりも巨大なカブトムシの幼虫だった。乳白色の胴体《どうたい》に焦《こ》げ茶の鼻先、内側に短く寄った足らしきものが、不気味に細かく震《ふる》えている。芋虫《いもむし》ともダンゴムシともちょっと違《ちが》う、どのアングルで見ても
「幼虫」だ。
口元から黄色い粘着《ねんちゃく》液を滴《したた》らせている。三時のおやつを発見した喜ぴの涎《よだれ》だろうか。
「なんじゃこりゃあ!?」
腹についた液を手で拭《ぬぐ》い、ひっくり返ったアルト声で、美少年は尻餅《しりもら》をついたまま後退《あとずさ》った。超巨大《ちょうきょだい》カブトムシ幼虫とか、色違いパンダ模様の|砂熊《すなぐま》とか、イレギュラーな生物が苦手なようだ。
おれだって非常識なサイズの動物は得意ではないが、|緊急《きんきゅう》警報が鳴り響《ひび》く脳味噌内の、ずっと端《はじ》っこの|窓際《まどぎわ》席では、これがもしオオクワガタの幼虫だったら、どれくらいの値段がつくかを計算していた。しかも|奇声《きせい》を発して立ち上がる虫どもは、全部で十|匹《ぴき》程もいるのだ。
「すげえ……クワガタ天国……」
「うっとりしてるなユーリっ! 食われる、食われるぞーっ」
固まりかけのレモンゼリーをまき散らし、幼虫達はおれに向かって跳《と》びかかってきた。視界が乳白色だけになり、再び窒息《ちっそく》地獄《じごく》が始まった。