|睡眠《すいみん》不足も空腹も辛《つら》かったが、それより何より喉の渇きがピークに達していた。
「一昨日《おととい》の午後から|一滴《いってき》も飲んでねえよなあ」
「その|掠《かす》れ声。聞くと余計に渇く気がするな」
「でも|喋《しゃべ》ってないとなんか、生きてるか死んでるかわっかんねーんだもん」
眼前の石床の|窪《くぼ》みには、奴等の垂らした液体レモンゼリーが残っている。粘着《ねんちゃく》性が高いために、なかなか乾燥《かんそう》しないのだ。確かに水分には違《ちが》いないのだが。
「……なあ、あれと自分の尿《にょう》とだったら、どっち飲む?」
「冷やした発泡《はっぽう》葡萄酒《ぶどうしゅ》が飲みたい」
「いや、だからあの黄色いのと自分の黄色いのと」
「氷で割った大麦蒸留酒もいいな」
「……色的には尿派ってわけね、お前は」
こんな危機的状況に陥らなくとも、健康法の|一環《いっかん》として実行している|皆様《みなさま》がいるのだから、身体に悪いわけはないだろう。ここはひとつ思い切って鏃いて、男前度を上げておくというのはどうだろうか。人生、何事も経験だ。
「あー、でももう|汗《あせ》の一滴も出ませんや」
時|既《すで》に遅《おそ》し。幸いなことに好機を逸《いつ》してしまったようだ。
繭内の進行状況は順調らしく、一時間くらい前から小さな音が聞こえていた。内部から嘴《くちばし》で卵の殻《から》を叩《たた》くのは、朱鷺《とき》の雛《ひな》の話だし……。
「繭の場合もハシウチとか言うのかな」
「橋内って誰《だれ》ダー、男カー?」
ヴォルフラムもかなり壊《こわ》れている。
「陛下」
どうやら|脱水《だっすい》状態のあまり、耳までおかしくなってきたようだ。懐《なつ》かしい声が聞こえるよ。
「陛下、そこにいますー?」
「これ幻聴《げんちょう》?」
「う。ウワギノソデグチ」壊れきっている。
頭上で|騒々《そうぞう》しい気配があって、何組もの足音が行き交《か》った。
「良かった! 陛下、巣穴に落ちてたんですね。深刻な怪我《けが》はありますか」
「コンラッド!? ほんとにコンラッド!? マジもん!? パチもんじゃない!?」
「俺のパチもんてどういうのだろ」
十メートルくらい上方から、ウェラー|卿《きょう》が覗《のぞ》き込んでいた。いつもと変わらぬ|爽《さわ》やかな笑顔を向けられると、大したことではないような気分になる。モンスターの蠢《うごめ》く巣穴で二晩過ごしたのも、馬小屋に泊《と》まった程度の出来事みたいに感じられる。
「すみません。もっと早く見つけられれば良かったんですが、何故《なぜ》か情報が|錯綜《さくそう》して。二人|一緒《いっしょ》に消えるから、|半狂乱《はんきょうらん》のギュンターは駆《か》け落ちだの逃避行《とうひこう》だのと泣き|叫《さけ》ぶし。周囲も認める|婚約者《こんやくしゃ》なんだから、駆け落ちする必要はまったくないのに……陛下? どこか痛みます?」
「だ、|大丈夫《だいじょうぶ》、喉《のど》が渇《かわ》いて腹が減ってるだけ」
水分が足りないから、涙《なみだ》の流れる心配もない。
「早く綱《つな》を下ろせ! 事態は一刻を争う」
急に元気を取り戻《もど》したヴォルフラムが、頭上を|仰《あお》ぎ見て大声で言った。
「生まれそうなんだ!」
「え、ヴォルフまさか」
ウェラー卿、捨て身のボケ。
「違う、生まれそうなのはぼくじゃない! 残念ながらユーリでもないぞ。何故ならぼくらは男同士だからなッ! この虫が、今にも出てきそうだ。もうヒビの入っている繭もある」
コンラッドの唇《くちびる》が困ったなと動いた。とりあえずおれたちは大ピンチなので、早く梯子《はしご》を降ろして欲しい。覗き込んでいる他《ほか》の男達も、一様に|眉《まゆ》を寄せて困った顔だ。
「陛下、お願いがあるんですが」
「判《わか》ったちゃんと後で聞くから。あっもしかして交換《こうかん》条件なのか!? あんたに限ってそんな|卑怯《ひきょう》なことしないよなっ?」
「そうじゃなくて。水と食糧《しょくりょう》は差し入れますから、彼等が繭から出てくるまで、あと少しそこで頑張ってくれませんか」
「ああ、水と食べ物を貰《もら》えるんならあと少しくらい別に……って、えーっ!? なんでおれが」
「彼等は非常に|繊細《せんさい》な種族なんです。特に巣立ちの瞬間は大切なので、できれば補助してほしいんです」
あれが!? あの超巨大《ちょうきょだい》幼虫が繊細な種族だって!?
「だっておれとヴォルフに乗っかって、嗅《か》いだり吸ったりしたんだぜ!?」
「それは|凄《すご》い、理想的だ」
「はあ!? この若さで食われて死にたくな……」
「出てきたぞーっ!」
覗き込んでいた男達のうちの一人が、興奮した声でそう叫んだ。ぎょっとして振《ふ》り返ると、二、三個奥の繭が大きく割れて、茶色い物体がのそりと起き上がる。おれもヴォルフラムも絶句して、|中途《ちゅうと》半端《はんぱ》に上げた指を止めてしまった。
「こ、これは……」
「陛下、ヴォルフ、急いでこれを|被《かぶ》って」
投げられた物を|咄嗟《とっさ》に受け取ると、赤茶の毛糸で編まれたキャップだった。裏にはタグまで付けてある。マイド・イン・グウェンダル。
「……まいどー」
グウェンダル産という表現からして|間違《まちが》っているが、そんなことを指摘《してき》しても仕方がない。頭からすっぽりと被ってみると、両側に耳が着いていた。
「く、くまみみ?」
十数メートル上からは、可愛《かわい》いコールがわき起こった。やめてくれ。おれなんかよりも三男|坊《ぼう》のほうが百倍似合っている。これこそ正統派美少年。
ぼがんという重い破裂音《はれつおん》と共に、また一つ未確認《みかくにん》生物の繭が割れた。上からは|驚愕《きょうがく》の超可愛いコール。
「クマハチ超カワイイーっ!」
「あーんクマハチ、かーわーいーいーィ」
クマハチ? 熊《くま》さん八っつあん与太郎《よたろう》ご隠居《いんきょ》さん、のクマハチではない。耳つきキャップ着用済みの二人の前に立ったのは、上半身と手足はぬいぐるみの熊、|触覚《しょっかく》と腹部は黄色と黒で|蜜蜂《みつばち》そっくりという、世にも|奇妙《きみょう》な生物だった。本物の……いやこいつだって本物なんだろうけど……山にいるツキノワグマくらいのガタイを持ち、背中にはなんと、透明《とうめい》な昆虫《こんちゅう》の羽根を持っている。飛べるのだろうか、あの薄《うす》い羽根で。
「…………」
言葉もないおれたちの前に歩み寄り、クマハチは|右腕《みぎうで》を大きく振りかぶった。
食われるッ! ヒグマに狩《か》られる鮭《さけ》の気持ちとシンクロしかけるが、相手はおれもヴォルフラムも襲《おそ》おうとはしなかった。インディアン|嘘《うそ》つかないのボーズになって、つぶらな瞳《ひとみ》を潤《うる》ませる。
「ノギスっ」
「へ?」
ノギスはー……技術準備室じゃないからここには置いてないけど。ていうかそれって、鳴き声かよ!?
「の、のぎすの墓、とか」
|駄洒落《だじゃれ》で|勘弁《かんべん》してもらえるだろうか。
クマハチ一号はばりんばりんと他の繭《まゆ》を踏《ふ》みながら、|天井《てんじょう》穴の真下まで歩いて行った。そしてもう一度|名残《なごり》惜《お》しげに振り返ると、両手を天に向けて飛び立った。さすがに「じゅわっ」とは言わなかったが。見学者の間に拍手《はくしゅ》が巻き起こり、たちまちやんやの喝采《かっさい》となる。中には感極《かんきわ》まって涙を流し、鼻水をぶらさげる者までいた。
そうこうしているうちに繭はどんどん割れて、次々とクマハチ三号四号が|挨拶《あいさつ》に来た。
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クマハチ八号が決めポーズをとる頃《ころ》になると、おれたちもすっかり|環境《かんきょう》に順応して、笑って
「おはようノギス」
「いってらっしゃいノギス」
などと言葉を掛《か》けてやれるようになった。
最後まで残ってしまったのは、あの救急救命|措置《そち》を受けた繭だった。控《ひか》えめな音でカプセルが割れて、クマハチ十二号店が顔を出す。
「おおーっ!」
ギャラリーからは|歓声《かんせい》が沸《わ》き起こり、皆《みな》口々に|囁《ささや》き合った。
「女王クマハチだ」
「女王クマハチだよこの目で直《じか》に見られるとは」
「なんて優雅《ゆうが》な模様だろうねえ、ああー長生きはするもんだ」
おれの美的感覚で表現すると、端切《はぎれ》で作ったテディベアにしか見えないんですけど。しかもオールピンク系のパッチワーク。
女王クマハチはしずしずとこちらに来ると、ゆっくりと腕《うで》を上げてこう言った。
「ありがとうノキス」
「うん? ああ、どういたしましてノギス!」
それからおれとヴォルフラムを思いきり押し倒《たお》し、濡《ぬ》れた鼻を|擦《こす》りつけて飛び立っていった。
黄色と黒の縞々《しましま》があれほど似合うのは、工事現場か彼女のお尻《しり》くらいのものだろう。セクシーな腰《こし》のくびれ辺りに。
「あー婚姻《こんいん》届が貼《は》り付いてるよ」
ふらつきながら梯子を登り切り、やっと上の階層に戻《もど》ることができた。脱水《だっすい》症状《しょうじょう》と立ち眩《くら》みで、しばらく座《すわ》っていなければならなかったが、その他《ほか》は概《おおむ》ね良好で渡《わた》されたドリンクの味もきちんと判《わか》った。
「はあ……しかし食われなくてよかったよ」
「クマハチは肉食じゃありませんよ」
「だって部屋の隅《すみ》に人骨が……あれー?」
穴の縁《ふち》から見下ろすと、髑髏《どくろ》が繭の残骸《ざんがい》に抱《だ》き付いている。
「あれは|瀕死《ひんし》の骨飛族《こつひぞく》です。クマハチの繭はカルシウムが豊富なので、ああしてエネルギーを補給してるんですよ」
「うっわ……ちょっと見、|地獄《じごく》絵図だな」
ジョッキ一杯《いっぱい》飲み干したヴォルフラムが、低く|唸《うな》って壁《かべ》に寄り掛かった。
「まさか迎賓棟《げいひんとう》に棲《す》みついていたのが、あの幻《まぼろし》のクマハチだったとは」
「幻なの?」
「血盟城にクマハチが産卵したと知って、俺も最初は|驚《おどろ》きました。絶滅《ぜつめつ》したとも言われる種族ですからね。だから密猟者《みつりょうしゃ》やコレクターといった良からぬ輩《やから》に狙《ねら》われないように、怪物《かいぶつ》ということにしてたんです。ところが産卵してすぐに、親が息絶えてしまったようで」
ああそれでおれたちを親と間違えて、嗅《か》いだり吸い付いたりしてたんだ。幼虫には視力がなくて幸いだった。ばれたら確実に窒息死《ちっそくし》だ。
王様と元王子に礼を述べ去ってゆく研究者達を見送ってから、ウェラー|卿《きょう》はおれの肩《かた》に鼻をくっつけた。
「やっぱり」
「何だよ」
「決め手は匂《にお》いだったんだ。ドゥボス産の顔料を使ったでしょう、あの恐《おそ》ろしく臭《にお》うやつ」
「確かにヴォルフが使ったよ。まさか、さる動物の|排泄物《はいせつぶつ》って……」
「大人のクマハチの糞《ふん》からは、鉱物に似た成分が抽出《ちゅうしゅつ》されるんです。今では|滅多《めった》に手に入らない最高級品ですよ。しかし陛下とヴォルフのお陰《かげ》で、新しい女王クマハチも生まれたことだし、完全な絶滅は免れるでしょうから、来年からは我が国でも作れるかもしれません」
聞き捨てならない単語を耳にして、おれは慌《あわ》てて確かめる。
「来年も来るの!?」
「え、それは当然。何ヵ所か気候のいい土地を巡《めぐ》った後、一年後には同じ場所に戻って卵を産むんです。特にこの城には両親がいると信じてるから、あの女王は必ず戻るはずだ」
「両親ー?」
責めようのない善人スマイルを引っ込めて、コンラッドはおれと弟を交互《こうご》に指差した。
「どっちがどっちと思われてるかは知らないけど」
眞魔国・クマハチの父。
眞魔国・クマハチの母。
「え」
途端《とたん》に、パッチワークでできたテディベアやら、あみぐるみのクマちゃんやらが、昆虫特有の透明な羽根をつけてラインダンスを踊《おど》る映像が|浮《う》かんでしまった。もちろん中央でダチョウの羽根とか飾《かざ》っているのは、フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムと、このおれだ。
「ええーッ!?」
「なんだユーリ、お前また血の繋《つな》がらない子供をつくったのか。これだからお前は尻軽《しりがる》だというんだッ」
「うるさい、お前だって父か母どっちかにされてるんだぞ!? けどクマハチの母とウルトラの母ってどっちが|偉《えら》いのかな。宇宙を守ってる分、ウルトラかな……」