ガールハント。
だから村田《むらた》、お前ってほんとは何歳? と証明書の提示を求めたくなるような言葉に乗せられて、お盆《ぼん》を過ぎた海月《くらげ》の多い海まで来てしまった。
おれ自身は、愛は狩るものではなく得るものだという平和主義者なのだが、十六年間ろくにモテたことがない悲しい事実と、バイト代に釣《つ》られてここにいる。
「夏、青い海、|輝《かがや》く太陽」
「……クラゲ」
「大胆《だいたん》水着、リゾート地での開放感」
「……フジツボ」
「海水浴場で出会う男はみんなカッコよく見える。何故《なぜ》なら、サングラスで顔が半分|隠《かく》れてるから!」
「……それゲレンデと|間違《まちが》えてるだろっ」
駐車場《ちゅうしゃじょう》方面にある自販機《じはんき》の補充《ほじゅう》のため、砂に脚《あし》をとられがちな台車を押しながら、声を絞《しぼ》り出して|抗議《こうぎ》する。
「だいたい、お前、ナンパ、逆ナン待ちも、オッケー、なんつっておいて、実際にゃ、日中は殆《ほとん》ど、海の家の仕事っ、夜は夜で、ペンションの手伝いって、これでどこで、水着の女子を、ゲットしろっちゅーのよ?」
「情熱さえあれば、時間なんて」
渾身《こんしん》の力を込《こ》めるおれを尻目《しりめ》に、友人はさらりと受け流す。
中二中三とクラスが|一緒《いっしょ》の眼鏡《めがね》くん、村田|健《けん》は、あらゆる種類の力仕事を、おれ独りにまかせて楽をしていた。そもそもこの海の家|兼《けん》ペンション「M一族」は、こいつの|親戚《しんせき》が経営しているのだ。気心知れた者を低賃金で雇《やと》おうという、時勢に乗った堅実《けんじつ》な経営方針の結果、高校一年生である又従兄弟《またいとこ》の息子に白羽の矢が立ったのに、当の本人がさぼりっぱなしとは何事だ。
「マーガレットの間《ま》に泊《と》まってるOL二人組はどうよ。昨日、お前の転ぶとこ見てかわいいなんて言ってたぞ?」
ペンション「M一族」の客室には、それぞれ植物の名前がつけられている。
「マクワウリの間《ま》の熟女三人はお前の|着替《きが》えシーンに出くわしちゃったって言ってたし、マンドラゴラの男四人組は百点満点で点数つけてたし」
「ちょっと待て、それのどこが彼女出来放題なんだ!? いやもうこの際、|恋愛《れんあい》面には目を瞑《つぶ》るとして、夏休みウハウハバイトで大儲《むおもう》けってとこだけに|焦点《しょうてん》を絞るとしてだな、ひっじょーに不思議に思うのは、なんでこんなに地道に働いてるおれと、ちゃらんぽらんなお前とで、これでギャラは同じー、なのかってことだ」
「まあまあそう腐《くさ》りなさんなって。そのうちスーパーハイスクールスチューデント、僕等に惚《ほ》れる女性がきっと現れるよ」
おれとしてはもう、一夏のアバンチュールなんか|諦《あきら》めている。
とにかく日給九千円に惹かれて此処《ここ》に来たのだ。だから彼女ができようができまいが、草野球資金だけ稼《かせ》げればどうでもいい。相方《あいかた》の期待するロマンスは、かなりの確率で目の前を通り過ぎていたに違いない。
おまけにビーチサンダルで隣《となり》を歩く村田健は、髪《かみ》の色まで一月前と違う。
夏の終わりにイメージチェンジ。
なーんて、もてない男のバイブル|漫画《まんが》みたいなことを企《たくら》むやつが、身近にいるとは思わなかった。彼の髪は今や|脱色《だっしょく》されて金に近く、カラーコンタクトで瞳《ひとみ》の色まで青に変えていた。それでも眼鏡を手放せず、ブルーの度入りサングラスを頭に載《の》せている。近眼族はつらいよ。
「なんだよ。野球選手だって|金髪《きんぱつ》も茶髪もいるだろー? お前の好きな顔のいいほうの松井《まつい》だって金髪じゃん」
「そらそうだけどさ……」
だからあれは顔のいいほうだから似合うんだよと言いかけて、村田健の後頭部へと|溜息《ためいき》をつく。中二中三とクラスが一緒の眼鏡君は、決して女子に嫌《きら》われるタイプの外見ではない。頭の良さや人柄《ひとがら》が滲《にじ》み出たような、知的で涼《すず》やかな顔だと思う。もうちょっと自分に自信を持てば、髪なんか染めなくとも彼女くらいできるだろう。
ただし彼がいわゆるビジュアル系かというと、そこには大きな問題が残る。
まあ、美形かどうかの判断基準なんて、国や種族によってかなり異なるものだし。
「……だからってカラーコンタクトまで装備して、モテたいオーラ振《ふ》りまかなくてもいいんじゃないのー? だいたいお前んとこって男子校だろ、夏休み明けに彼女じゃなくて彼氏ができちゃったらどうすんだよ」
「そのときはそのときだ。責任とって付き合いますとも!」
村田はぐっと両拳《りょうこぶし》を|握《にぎ》った。本気だとしたら相当、男前だが。
「こっちはどうしてもモテたいんだ。池袋《いけぶくろ》から電車に乗ると、十中八九、東京ドーム行っちゃうお前には、この気持ちは永遠に解《わか》らないだろうけど。まったくねえ、名前が渋谷《しぶや》有利《ゆーり》原宿《はらじゅく》不利なくせに、出掛《でか》ける先は後楽園《こうらくえん》か西武球場前《せいぶきゅうじょうまえ》なんだから」
「水道橋《すいどうばし》で降りることもあります……てより目的地と名前は関係ねーだろがーっ!」
そう、おれの名前は渋谷有利。百合《ゆり》でも悠里《ゆうり》でも幽体離脱《ゆうたいりだつ》の略でもなく。この名前のせいで生まれて十六年間、どんなに苦労したかは……もう忘れることにした。十六歳の誕生日を迎《むか》えてやっと、説明しやすくて便利かもと思えるようになった。殆どの場合、自己|紹介《しょうかい》は、苗字《みょうじ》だけで終わってしまうし。
「……それにしても、夏休みの海の家バイトで彼女ゲッチュだなんて、今時マンガでも成功しねーよ。村田は女子に、夢持ちすぎ」
「じゃあ炎天下《えんてんか》で草野球してれば、カッコイイーって女の子が騒《さわ》いでくれるか? 渋谷は野球に夢持ちすぎ」
「そんな都合のいい夢みてません」
「どっちにしろ、いいじゃないか。どうせ家にいたって高校野球見てるだけなんだろ? だったら真夏の太陽浴びて、ビーチで健康的に働いたほうが、チームの必要経費は稼げるし、さんざん気にしてたユニフォーム焼けも解消できる」
|扉《とびら》を開いた自販機から、当然の権利として青い缶《かん》を一本いただく。何時間も売れ残ったスポーツドリンクは、冷えすぎて甘みがなくなっていた。村田の手で段ボールから機械に補充された商品は、同じ道を次々と転がり落ちてゆく。突《つ》き出た肩胛骨《けんこうこつ》を眺《なが》めながら、おれはやっぱりちょっと違うと思っていた。
首から上と二の腕だけがこんがりという、野球|小僧《こぞう》の証《あか》しであるユニフォーム焼けは、あまり|自慢《じまん》できたものではない。足首まで見事に白い下半身は、プールサイドでは別の意味で注目の的だ。おれ主宰草野球チームのレギュラーの中には、「モモヒキ」というありがたくない二ックネームを授《さず》かった者もいる。
しかし今、おれたちには新たな模様ができようとしていた。
通りすがりのカップルが、横を向いて笑いをこらえる。他人の目から見ても|面白《おもしろ》いという証拠《しょうこ》だ。
「腕《うで》と背中が焼けたと思ったら……胸も腹も腿《もも》も前面だけ真っ白じゃないか。これじゃヒト型ドラえもんだっての。イロモノみたいな格好《かっこう》させられてさっ」
海の家の制服は、水着にエプロン。かわいい娘《こ》がやれば目にも楽しいだろうが、いかんせん野郎《やろう》どもばかりである。気色の悪いことこの上ない。若い女性客にはそれなりに好評と聞いたが、常に背中やケツばかり見られていると、ある種のセクハラじゃないかと疑いたくなる。
サーファータイプ着用のおれはまだ控《ひか》えめだが、ビキニ海パンの村田なんかすっかり「エプキニ」状態。直訳すると、エプロンあんどビキニバンツという新語だ。他人事《ひとごと》ながら、視線が痛い。
おれ自身も失望で目が痛い。
生まれて初めての裸《はだか》エプロン(もどき)が、よりによってムラケンだなんて。
制服というよりは衣装《いしょう》とかコスチューム調なので、マダム達には絶対に何か妄想《もうそう》されていると思う。
「妄想されようがされなかろうが、彼女のいた日々よカムバックだ。十六歳の夏は一度きりで短いんだから、出会いを求めて身を飾《かざ》るのは|孔雀《くじゃく》も同じさ」
「孔雀は|迷彩《めいさい》ビキニじゃねーだろ」
「なんだよー、うちの制服に不満そうだなー。その割にはちゃっかりエプロンと|帽子《ぼうし》の色を合わせてみたりしてさ。その……首にぶら下げてるいつもの石も。だいたい何だよ、ビーチで野球|帽《ぼう》って! 今時プロ野球のキャップ|被《かぶ》ってる奴《やつ》いないよ。|巨人《きょじん》帽くんとか掛布《かけふ》くんとか呼んでやる」
「そっちこそ、帽子でも被んなきゃ日射病でぶっ|倒《たお》れんぞ? こんな苛酷《かこく》な3K労働続けてたらさ」
3Kとは。き[#「き」に丸傍点]たねえぞ、聞[#「聞」に丸傍点]いてなかったよこんなの、気[#「気」に丸傍点]をつけよう盗撮《とうさつ》、の三つだ。飲み干した空き缶をゴミ箱に放《ほう》ってから、同じ手で胸に下げた石を握った。
空より濃《こ》くて、強い青。
ライオンズブルーの魔石《ませき》は紫外線《しがいせん》を受けて、|僅《わず》かに熱く、色が薄《うす》くなっていた。これをくれた人の思惑《おもわく》と、元の持ち主の嘆《なげ》きが気にかかる。お守りのようなものとは言われていたが、へなちょこな自分に相応《ふさわ》しいとは思えない。
「……こんなとこで、無駄《むだ》にくすぶってるっていうのにさ……」
「うう、うるさーい。無駄とはなんだ、無駄とは。若い頃《ころ》の経験は貴重な財産なんだぞー? なにしろ将来大人になって、どんな職業に就《つ》くか判《わか》らないんだから。ペンション経営だって覚えれば選択肢《せんたくし》の一つに入るかもしれない」
ところが、齢《よわい》十六歳にして、職業が決定している高校生もいるのだ。
表向きは現実を直視しない草野球ホリック、しかしてその実体は究極の勤労学生。
それが、おれ。
どこにでもいるような野球小僧、渋谷有利は、ある日を境に一国一城の主《あるじ》なんかにされてしまったのだ。しかも、そんじょそこらの王様ではない。スーパースター、ザ・ロックの「オレ様」ぶりもすごいけれど、おれの肩書《かたが》きも結構すごい。ごく|普通《ふつう》の背格好でごく普通の容姿、頭のレベルまで平均的な男子高校生だったはずなのに……。
おれさまは、魔王だったのです。
およそ|雰囲気《ふんいき》のない場所から流された先は、RPGの|舞台《ぶたい》になりそうなファンタジー世界だった。そこでこの世のものとも思えない美形軍団に取り囲まれて、今日からあなたは魔王ですなんて|迫《せま》られたら、誰《だれ》でもこれは夢だと思う。
けれど、すべては現実。
|魂《たましい》がどうなのかは知らないけれど、おれが|眞魔《しんま》国の王に就任しちゃったのも、魔族と人間が|一触《いっしょく》即発《そくはつ》なのも、山と積まれた問題を誰かが解決しなければならないのも、すべては自分で選んだ現実だ。
時々、逃《に》げ出したくなることもある。そんな重責を担《にな》えるのかと、|前触《まえぶ》れもなく不安になる。何とか踏《ふ》みとどまっていられるのは、バックを固めるチームメイトが|優秀《ゆうしゅう》だからだ。
「ねえ、あそこの赤いペンションの人よね」
ぼんやりと視線をさまよわせていたおれは、困惑《こんわく》したような声に顔を上げた。
おれたちよりも少し年上、|恐《おそ》らく女子大生であろう二人組が、肩を抱《だ》き合うようにくっついて、半泣きでこちらに近づいてきた。缶を入れる手を止めて、村田がにっこりと応対する。
「そうですけど。どうしましたか、海月《くらげ》にでも刺《さ》されました?」
健全な男子高校生には刺激が強すぎて直視できないが、女性の一人は両腕で胸を隠《かく》していた。柔《やわ》らかそうな両乳に夢の谷間。一体どのようなハプニングが!?
「あっちの洞窟《どうくつ》の近くで、水着を流されちゃったの。見えるところに引っかかってるんだけど……あたしたちじゃ取りに行けなくて」
紺《こん》に細い赤線の|横縞《よこじま》と、|両脇《りょうわき》が紐《ひも》になっているレモンイエローだ。何がって、ビキニの色。より日に焼けているストライプの方の女の子が、泣いている友人の肩を揺《ゆ》すった。小麦色の肌《はだ》に、ヘソピアス。
ああーその水着じゃ流されもするよー、と心の中だけで突っ込んでおく。紐系下着の危《あや》うさは、常用しないと判らない。ちなみにおれは訳あって経験済だ。
「|大丈夫《だいじょうぶ》だよ、ね、この子達がとってくれるってさ」
「え!?」
ヘソピの彼女が力強く慰《なぐさ》める。依頼《いらい》も契約《けいやく》成立も経ていないのに、いつのまにかそういうことに決められてしまい、おれも村田も内心では、まずいことになったと思っていた。しかし、今の二人はいち海水浴客ではなく、ペンション「M一族」の臨時スタッフだ。困り果てているお客さんを前に、知らん顔を決め込むわけにはいかない。
お客さんのためならば、洞窟でもジャングルでも分け入りましょう。おれたちは心を奮い立たせた。決して二人組が可愛《かわい》かったからではない。
「よーし、いざ鎌倉《かまくら》っ」
「違《ちが》う違う|渋谷《しぶや》、いざ洞窟」
問題の洞穴《ほらあな》は思ったより大規模で、いかにもデートスポットという薄暗《うすぐら》さだった。今は腰《こし》辺りまで水位が上がり、少しばかり濡《ぬ》れないと行き着けないが、潮さえ引けば歩いて渡《わた》れるだろう。ゴツゴツとした岩場の向こう側に、レモン色の物体が引っかかっている。
ただ問題は、現場より手前の海面に、赤い旗が長閑《のどか》に|浮《う》かんでいることだ。
「お客さん、ここ、遊泳禁止だよ。困るんだよねえお嬢《じょう》さん達、こういう危険なとこで密会されちゃあ」
|呆《あき》れるあまり、みのもんた調。
「うーん、二十……メートルくらいかな。泳げるよな、渋谷」
「おれ? で、でも遊泳禁止だぞ!?」
「禁じられた場所で泳ぐの得意だろ? ほら、例のイルカプールとかさ」
返す言葉もございません。
おれはやむなく足を浸《ひた》した。思ったより冷たい海水が、スニーカーの内側まで流れ込んでくる。デニムのエプロンをたくし上げ靴底《くつぞこ》で岩の感触《かんしょく》を確かめながら、暗い洞窟に取り残された黄色い蝶《ちょう》を救出に向かった。ビキニだけど。
「しぶやー、だいじょぶそうかー?」
赤い旗まで来たときには、水の高さは胸の位置だった。予想よりは多少深いが、足が着くから平気だろう。慎重《しんちょう》な足取りで現場に到着《とうちゃく》し、目に痛い黄色の布に手を伸《の》ばす。
「……これが|生涯《しょうがい》初の生ビキニなんだよな……」
やっと指が届いた|瞬間《しゅんかん》、おれはある意味健康的なことを考えていた。海水でほんのりと温かく湿《しめ》った布地は、素直《すなお》に右手の中に収まった。
この際、ご褒美《ほうび》の|一環《いっかん》として、被ってみるくらいは許されるのではなかろうか。いや、頭に載《の》っけて「カエルさーん」はまずいにしても、せめてひと嗅《め》ぎくんかくんかするくらいは。
「しぶやー早く戻《もど》ってこーい。|一緒《いっしょ》にペンションに帰ろうー」
なけなしの理性を総動員し、レモンイエローの捕獲《ほかく》物を右肩に乗せる。村田が|大袈裟《おおげさ》に手を振《ふ》っていた。
「うるせーなもう、言われなくても帰……う……」
進もうと踏み出した足先には、海の生物が鎮座《ちんざ》していた。
「よりによってなんでカニがこんなとこにッ? こ生きたままカニを踏み|潰《つぶ》すと、天から臼《うす》が落ちてくる。日本人の多くの子供は、幼少時にこう教え込まれるのだ。茶色いハサミを振り上げて、敵はこちらを威嚇《いかく》している。|咄嗟《とっさ》に避《よ》けようとして仰向《あおむ》けに転び、潮水に全身浸ってしまう。載せただけだったビキニがふわりと浮いて、目の前を漂《ただよ》って逃げようとする。
「待てこら!」
慌《あわ》てて手を伸ばして掴《つか》み直すが、間一髪で沈んでしまう。ここで逃《の》がしてなるものかと突っこんだ腕が、底へと引っぱられる。
ぐい。
「……げ」
もっと大きな力で、おれの身体《からだ》が引きずられる。
「む、村田、巨大イカが……っ」
|砂浜《すなはま》では三人|揃《そろ》って耳に手を当て、一糸乱れぬ、なんですかー? ポーズだ。
せっかくゲットしたビキニ上だけは、絶対に離《はな》すまいと意地になるものだから、|右腕《みぎうで》からどんどん沈《しず》んでいき、鼻まで海水がきて息ができなくなる。人を海の底に引きずり込もうとするのは、海坊主《うみぼうず》とか舟幽霊《ふなゆうれい》だ。四ヵ月前のおれだったら、殺されるとか泣き喚《わめ》いていただろう。
けれど今はかなり冷静だ。
だってまた、喚《よ》ばれつつあるんでしょう? おれ。
経験を積んで身につけた方法だが、こういうときは慌ててもがいたりしてはいけない。なるべくリラックスして深呼吸して……しまった、深呼吸したら空気の代わりにホンダワラ(海藻《かいそう》)が口に入ってきたぞ?
あとはもう、語るもむなしいスターツアーズ。
そういや、親父《おやじ》。
なんだいゆーちゃん。
前々から不思議に思ってたんだけどさ、うちって誰《だれ》か禁酒してるっけ?
いや、してないよ。パバもママも飲み放題。
……じゃあなんで冷蔵庫がノンアルコールビールでいっぱいなんだよ。
なんでって、そりゃあゆーちゃんのために決まってるじゃないか。中学生ともなれば、親に隠れて酒タバコを試《ため》してみたくなるだろう。好奇心旺盛《こうきしんおうせい》で多感なお年頃《としごろ》だもんな。けど思春期におけるアルコールは、百害あって一利なし。成長の促進《そくしん》を|妨《さまた》げるばかりか、脳細胞《のうさいぼう》をヘロヘロにして「あったまわるー」になっちゃうんだ。だからパパとママはゆーちゃんのために、目に付くところにはノンアルコールビールしか置かないことに決めたんだよ! そのかわりといっちゃあなんだが、酒の味とか感想は、いつでも言葉で教えてあげるからなっ。さあ|訊《き》いてくれゆーちゃん。ぐびぐび。今すぐ訊いてくれゆーちゃん。ぶはあ。
そんなイヤガラセをされても、おれの禁酒|禁煙《きんえん》は揺らがない。だってやっぱり現役《げんえさ》プレーヤーとしては、一ミリでも身長が欲しいのだ。
だからたとえ目の前に|巨大《きょだい》な樽《たる》が置かれて、思う存分飲んでくれと頼《たの》まれても、おれは絶対にいただかない。ただし、晴れて野球選手となった暁には、遠慮なくビールかけをさせてもらうけど。
ああ、いいなあ。あの人やあの人やあの人にかけられたいなあ、生ビール。涙《なみだ》と混ざって目にも染《し》みるんだろうなあ、きっと鼻から気道にまで入っちゃって、むせたり吐《は》いたりするんだろうなあ……。
「ぐがぽ、ごびゃッ」
鼻どころか耳の穴からも何かが流れ込んできた。痛みと弾《はじ》ける|気泡《きほう》で目を開けていられない。
とにかく呼吸をしようと喘《あえ》いでも、周囲には空気が|一切《いっさい》無かった。
もがこうにも手足が伸ばしきれず、浮かび上がろうにも頭が何かにつかえる。とんでもなく|狭《せま》い水槽《すいそう》に閉じこめられたのか? 蝿しかもこの味は単なる水ではない。
ビール!?
自分の短い人生において、ビア樽に詰《つ》め込まれる日が来るとは思わなかった。|天井《てんじょう》近くのほんの|僅《わず》かの酸素に気づき、木の蓋《ふた》に唇《くちびる》を押しつけて呼吸する。その間にもどうにか|脱出《だっしゅつ》しようと、周りの壁《かべ》を必死に蹴《け》る。
さすがにえらく頑丈《がんじょう》にできていた。
足だけではなく頭や肩《かた》でもアタックしてみるが、なかなか|木枠《きわく》は外れない。渾身《こんしん》の力を込《こ》めて左に押した途端《とたん》、樽はぐらりと傾《かたむ》いた。
「ぐぅば、ごばぼぽぽぢがびょ」
ていうか、階段落ちかよ!? と満足には言えないまま、入れ物はおれごと転がり落ち、三回転してから|横倒《よこだお》しになった。その|衝撃《しょうげき》でばかっと二つに割れる。床《ゆか》一面に広がったビールの真ん中で、咳《せ》き込むほど酸素を吸い込んだ。
「……も、桃《もた》太郎《ろう》ってこんな気持ちだったんかなっ」
いきなりアルコールの樽に詰め込まれていても、もう大袈裟に|驚《おどろ》いたりはしない。意表を突《つ》く場所に落とされるのにも慣れてしまった。
現代日本のある地球から眞魔国のある異世界へ移動するときは、だいたいいつもこんな感じだ。
明るく照らされた周囲を見回すと、まず目に入ったのは働く女性達だった。露出度《ろしゅつど》の高い超《ちょう》ミニのワンピースに、おれと同じような青いエプロン。ジョッキを載せた盆《ぼん》を両手で高く持ち テーブルの間を独楽鼠《こまねずみ》みたいに動き回っている。ほとんど|満杯《まんぱい》の席からは、注文ともセクハラともつかない声が飛ぶ。
酒場、というよりもビアホールだろうか。中央には肩を組んで唄《うた》う集団がいて、隅《すみ》には一人で飲んでいる孤独《こどく》を愛する男もいた。
一番近いテーブルの団体客が、こちらを指差して|叫《さけ》びだす。
「おい、二階から樽を落っことしてきた給仕がいるぞ。俺達の飲む酒を減らしやがった」
「けどこいつ男だろう、この店はいつ男の給仕を雇《やと》ったんだ? まあいいや、ようにーちゃん、もう一杯《いっぱい》……んー?」
赤ら顔の酔《よ》っぱらいは、まじまじとおれの顔を見た。しまった、と慌てて帽子《ぼうし》を目深《まぶか》に被《かぶ》り直す。この世界では髪《かみ》と瞳《ひとみ》の黒に大きな意味があり、無防備にさらすのは危険だ。
「おいおい、にーちゃん思い切ったなあ! 髪を黒く染めるなんてよー。陛下に憧《あこが》れんのも判るけどよ、熱烈忠誠《ぞっこん》親衛隊《ラブ》に見付かったら小言じゃすまねーぞぉ? あいつら本気で陛下命だかんなあ」
どうやらファンと勘違《かんちが》いしてくれたようだ。それにしても親衛隊とは聞き捨てならない。本人の知らないところでヤバ目の組織がでぎているようだ。
「陛下ーっ!」
木戸が乱暴に開かれて、髪を振り乱した男が駆《か》け込んでくる。ちらりと覗《のぞ》いた店の外は、強い雨の叩《たた》きつける夜だった。
「陛下、ご無事でしたかっ!?」
「げ、ギュンター」
「げ、とは、あまりなお言葉でございますっ。ああでもこうして再びお会いできただけでも、身に余る幸せではございますがーっ……どはっ」
超絶《ちょうぜつ》美形の涼《すず》やかな目元が引きつって、一瞬《いっしゅん》のうちに顔色が変わった。血の気をなくして真っ青なのに、鼻から口にかけては真っ赤に染まる。
「なななんというお姿ですかっ!? よりにもよって、は、は、は、裸前掛《はだかまえか》けとはっ!」
「裸前掛け……なに!? 違うって海パン穿《は》いてるって! うわギュンター、鼻血鼻血っ」
「しかも何故《なにゆえ》、乳吊《ちちつ》り帯《おび》など|握《にぎ》っておられるのですかー」
乳吊り帯……ビキニの上のことか。正確にはこれは下着ではないので、男が握っても特に問題はないのだが。<img height=600 src="img/025.jpg">
灰色のロン毛から|水滴《すいてき》をまき散らし、スミレ色の両眼を潤《うる》ませておれの手を握ってくる。
フォンクライスト|卿《きょう》ギュンターは、眞魔国第二十七代|魔王《まおう》(つまり、おれ)の|優秀《ゆうしゅう》な王佐であり、保護欲|過剰《かじょう》な教育係だ。|完璧《かんぺき》な形の鼻が赤いのは、|号泣《ごうきゅう》までカウントダウン状態だからだろう。何気なく振《ふ》り返る動作だけで、女性のハートを鷲掴《わしづか》みという容姿の持ち主なのに、おれのこととなると涙と鼻水まみれ。見返り超絶美形が台無しだ。
客達が口々に|囁《ささや》き始める。
親衛隊だ、親衛隊が来やがった。
「……あんたか、正体は」
なんだか身体《からだ》中の力が抜《ぬ》ける。
大麦の|匂《にお》いを立ち上らせるおれの胸に、そのとき小さな影《かげ》が力一杯《ちからいっぱい》飛び込んできた。
「ユーリ!」
「げほ……ぐ、グレタ、なんでこんなとこに」
縁《えん》あって親子となった女の子の身体を、腹の上から持ちあげる。|綺麗《きれい》に日に焼けたオリーブ色の肌《はだ》、凜々《りり》しい眉《まゆ》と長い|睫毛《まつげ》。この前よりも少し伸《の》びた赤茶の巻き毛は、両耳の上で二つに結《ゆ》われている。親バカながら、非情に可愛《かわい》い。
「なんだグレタ、いっそうキュートになっちゃったじゃんかー。罪作りだぜジュニア?」
「ジュニアって誰、男ー?」
……ヴォルフラムからの悪い影響が。
転がされたままふと見上げると、木戸の横にウェラー卿も立っていた。彼だけはどんなときでも冷静だ。|狼狽《ろうばい》える姿を見たことがない。
「よ、コンラッド」
当然、あの|爽《さわ》やかな|笑顔《えがお》で返事をしてもらえるものと思っていたら、魔族似てねえ三兄弟の次男である男は、|珍《めずら》しく深刻そうに眉を顰《ひそ》めた。
「感動の再会を|邪魔《じゃま》するようで申し訳ないんですが……」
自分の上着を押しつけてから、おれの下半身に目をやると、海パンだけの両脚《りょうあし》が気になるらしく、手近な男に金を握らせてズボンを調達した。
「さあ、穿いて」
おっさんのぬくもりの残るそいつに、慌《あわ》てて靴《くつ》のままの足を通す。
「なんだよ、いやに|不《ふ》|機嫌《きげん》だね」
前魔王現上王陛下の次男であり、頼《たよ》れる保護者|兼《けん》ボディーガードのウェラー卿コンラートには、魔族と人間両者の血が流れている。フェロモン系美女であるツェリ様が、剣《けん》しか取り柄《え》のない旅の人間と恋《こい》におち、生まれた子供がコンラッドだ。そのせいか外見的には地味めな印象で、兄グウェンダルや弟ヴォルフラムと比べると、おれの劣等《れっとう》感は|刺激《しげき》されない。
しかし何故《なぜ》か美形すぎる兄弟達よりも、彼のほうが女性人気は高いという。きっとさりげなく気の利《き》いた言動と、清潔感あふれる笑顔の|賜物《たまもの》だろう。
もっとも、そんな好青年のコンラッドでも、薄茶《うすちゃ》の瞳が翳《かげ》る瞬間があるのだと、今ではおれも知っている。
こちらの声が低くなったことで、客達も元のテンションに戻《もど》り始めた。酒飲み連中の関心は、|所詮《しょせん》は目の前の杯《さかずき》だけだ。
「できるだけ早く、安全な場所へお連れしないと」
「なに、だってここはどうやら国内だろ? 自分の国なのに安全じゃないってどういうことよ。あ、またなんか急を要する問題が持ち上がったんだな? それで大急ぎで喚《よ》び出されたってわけか」
「いいえ、陛下……」
ギュンターが申し訳なさそうな声を出す。おれは重い革《かわ》ジャケットに袖《そで》を通し、濡《ぬ》れた床からゆっくりと立ち上がった。
「実は……およびしておりません」
「はあ?」
「その……大変申し上げづらいことなのですが……いえもちろん、陛下が我が国にいらしてくださればと、望まぬ日はないのですが……」
「我々がおよびしたんじゃないんですよ」
勿体《もったい》ぶった言い方に焦《じ》れたのか、コンラッドが割って入った。普段《ふだん》はそういうことをする人ではないので、よほど切羽《せっぱ》詰《つ》まっているのだろう。
「いや、むしろ我々魔族としては、事が収束するまで安全な場所に留《とど》まってほしかったんです。少なくともご両親の許《もと》ならば、危険はほとんど及《およ》ばないでしょう」
「それはおれに、来るなってこと?」
コンラッドはグレタの腕《うで》を取り、小さく|頷《うなず》いてから付け足した。
「今はね。とても危《あや》うい状態なので」
「人間ども……いえ、人間達の国でまたしても不穏《ふおん》な動きがあったのです。間者《かんじゃ》からの情報によれば……恐《おそ》ろしい、非情に恐ろしい|凶器《きょうき》に手をつけたとのことで……」
よほど威力《いりょく》のある兵器なのか、ギュンターは言葉を呑《の》みこんだ。地球でいえば核《かく》ミサイルとか惑星《わくせい》大直列とかだろうか。
「とにかく、おぞましい物なのです。その箱を開ければ、遠い昔に封《ふう》じられたありとあらゆる厄災《やくさい》が飛び出し、この世に裏切りと死と絶望をもたらすという」
「ああそれ、パンチラの箱だろっ?」
ウェラー卿が思わず吹《ふ》きだした。
「なるほど、見えそうで見えなくて、いかがわしい」
正しくは「パンドラの箱」だった。
「似てはいますが、もっとたちの悪い物です。パンドラの箱には希望という名の救いがあるけれど、あれには何の希望もない。一度|蓋《ふた》を開けたが最後、誰《だれ》にも止めることはできません」
グレタが怯《おび》えたようにおれの腕にしがみついた。
「この世界には決して触《ふ》れてはならないものが四つある。人間達、しかも強大国のシマロンは、その内の一つを手に入れたんです。箱の名前は『風の終わり』。彼等の元に預けておけば、いつかは蓋を開けてしまう」
「そんな最悪なもんなのに?」
「最悪なものだからこそ、それを利用しようとするんだ。自分達ならうまく操《あやつ》れると信じてる。けれど、それは過信だ」
ウェラー卿の銀を散らした虹彩《こうさい》が、一瞬《いっしゅん》暗い闇《やみ》になった。
「……ギュンター、こっちは異国人の足音が聞こえる。念のため裏口に回ろうか」
「では店主に|厨房《ちゅうぼう》を通らせるよう言いましょう」
「頼《たの》むよ。さあ陛下、お疲《つか》れだとは思いますが」
「陛下って呼ぶな、名付け親のくせに」
お約束の言葉に|緊張《きんちょう》を解かれたのか、少しだけほっとした顔をする。こんな|些細《ささい》なことで嬉《うれ》しくなるなんて、どんな恐ろしいことを予期しているのだろう。
「……そうでした。とにかく非常事態が治まるまで、あちらの世界で待ってほしい。眞王廟《しんおうびょう》に巫女《みこ》達が集まって、すぐにでも地球に戻れるよう準備しているから」
「おれのいない間に、戦争始めたりしないだろうな!?」
「できる限り、避《さ》けるようにします」
「できる限りじゃなくて、絶対に!」
「判《わか》りました。じゃあスパイ大作戦の方向で。ほら、グレタも遅《おく》れないように」
ギュンターが厨房で手招きしている。料理人は|鍋《なべ》を振《ふ》りながらも、横目でおれたちを窺《うかが》っていた。さぞかし|奇妙《きみょう》な一行に見えていることだろう。
「あちらでもご自分の立場を考えて、自棄《やけ》を起こさずに慎重《しんちょう》に行動してください。何もかも片が付いたら、必ずおよびしますから。でもそのときに俺が……」
俺が、何? と聞き返す|隙《すき》も与《あた》えずに、コンラッドは裏口の戸を開けてしまった。冷たい空気と強い雨が、夜の闇をいっそう居心地《いごこち》悪くしている。
グレタのフードを引っ張り上げてから、おれたちは静かに歩きだした。こんな雨では|松明《たいまつ》も提灯《ちょうちん》も役に立たない。ギュンターが口の中で何事か唱えると、彼の高い鼻が赤く灯《とも》った。暗い夜道はカピカピの美形の鼻が役に立つのね。
確かに実用的な魔術だが。
「なんかもっとこう、かっこいい照明はないもんだろうか」
「どうりで」
ウェラー卿は苦笑した。
「地球のクリスマスについて、根掘《ねほ》り葉掘り|訊《き》いてくると思ったら」
馬を繋《つな》いだ木まで辿《たど》り着くと、先に自分が乗ってからコンラッドはグレタを引き上げた。前に抱《かか》え込むようにして、|両脇《りょうわき》から手を回して手綱《たづな》を|握《にぎ》る。おれとギュンターも同様に、一頭に二人で跨《またが》った。
首筋に鼻息がかかるのは、非常事態だから|我慢《がまん》しよう。
「この先に教会がございます。うまくすればそこからあちらへと、移動できるやもしれません。巫女達が|迅速《じんそく》であればで……」
耳の横を鋭《するど》い風が過《よ》ぎった。濡れた髪《かみ》が|僅《わず》かに遅れてそちらになびく。
コンラッドが短く何か|叫《さけ》び、並んだ馬から腕を伸《の》ばす。
「陛下、危ないっ!」
頭の上からの声と殆《ほとん》ど同時に、おれは勘《かん》に頼って右に傾《かたむ》く。左脇で、肉を突《つ》き刺《さ》す厭《いや》な音がした。不意に背中の温度が低くなる。
「ギュンター!?」
派手《はで》に泥水《どろみず》を跳《は》ねさせて、教育係が馬から落ちた。赤い光が蛍《ほたる》みたいに、曲線を描《えが》いて転がった。指が手綱に引っ掛《か》かったのか、前肢《ぜんし》を上げて激しく嘶《いなな》く。
「ギュンターっ、どうしようごめん! おれが避《よ》けちゃったばっかりに!」
「ユーリ、早く降りて。降りるんだ!」
全速力で駆《か》け出される直前に、どうにか鞍《くら》から腰《こし》を浮《う》かせる。背中から落ちるかと思ったが、コンラッドがうまく間に入ってくれた。
「まさかこんな所にまで……灯《あか》りが見えますか、一気に走るから、絶対に後ろを見ないように。さあグレタの手を」
「でもギュンターが」
泥の中に横たわる教育係の方に、ふらふらと二、三歩行きかける。
「いいから!」
強い力で引き戻され、おれはグレタの手を掴《つか》んで、揺《ゆ》れる火に向かってひた走った。恐らく二百メートルくらいだったのだろうが、頭の中が真っ白で、|距離《きょり》も時間も判らない。コンラッドは逆方向に馬を放ち、動かない同僚《どうりょう》の首筋に手を当ててから、少し遅れて追いついた。
オレンジ色の二つの灯りは|扉《とびら》の両脇で燃える松明だった。屋根に守られた入り口をそっと押すと、観音開きの片側だけが軋《きし》んで動く。腰より下の|隙間《すきま》から、止める間もなくグレタが|滑《すべ》り込む。
「……ここって教会なの? 神様の像もお説教するお爺《じい》さんもいないよ」
「いいから」
旅人がいつでも休めるようにか、内部は明るく暖かかった。|石床《いしゆか》に木製のベンチがズラリと並び、燭台《しょくだい》には何十本もの蝋燭《ろうそく》が灯されている。オーソドックスなキリスト教会と大差はないが、正面の祭壇《さいだん》には|十字架《じゅうじか》ではなく、水を湛《たた》えた平たい鉢《はち》と、|巨大《きょだい》な絵画が飾《かざ》られていた。
豪奢《ごうしゃ》な部屋の様子が描《か》かれているだけで、誰の姿も写しとられていない。
となりで少女が|溜息《ためいき》と|一緒《いっしょ》に|呟《つぶや》いた。
「|綺麗《きれい》な人。ヴォルフに似てる」
「え、だって誰も描《か》かれてないぞ、グレタあれがヴォルフラムに見えんのか?」
強《し》いて言えば、装飾過多なテーブルの脚《あし》あたりが。
頑丈《がんじょう》そうな|閂《かんぬき》をかけてから、コンラッドが祭壇に近寄ってきた。危機に瀕《ひん》していることを思い出し、同時に一人欠けていると改めて知った。おれはずぶ濡《ぬ》れの彼の服を両手で掴み、|半狂乱《はんきょうらん》で赦《ゆる》しを請《こ》う。
「ごめん、どうしようコンラッド、ギュンターが撃《う》たれた! 絶対おれのせいだ、おれが勝手に避《よ》けたからだよッ!」
「落ち着いて。撃たれたんじゃない、銃《じゅう》はないんだから」
「でももしかしてっ……死……っ……」
言葉が奥に引っ掛かり、喉《のど》が詰《つ》まって呼吸ができない。
「息をしてください。大丈夫《だいじょうぶ》、死んではいないし、あなたのせいでもない。俺もギュンターも国内にまで敵が侵入《しんにゅう》してるとは思わなかった。誰かが手引きしなければ、武器や馬は容易に持ち込めない。内通者がいる可能性を考えなかった。これはユーリでなく俺達の、ミスだ」
「でもっ……」
「ギュンターが射られたのも、あなたが避けたからじゃない。あの暗闇では|唯一《ゆいいつ》の明確な的だったからだ。それに、ユーリが傷ついてギュンターが無事だったら、|今頃《いまごろ》彼は胸を突いて命を絶ってるよ。心配しなくても彼は死んでいない……仮死状態にはなってるけれど。でも、そのお陰《かげ》であそこに置き去りにしても、命を落とさずに済みます。わざわざ�死んでる�相手にとどめを刺すほど、敵も|暇《ひま》じゃないだろうからね」
「|嘘《うそ》、をっ」
ようやく唾《つば》を呑《の》み下して、向かい合った相手の両眼《りょうめ》を覗《のぞ》き込む。コンラッドの右眉《みぎまゆ》に残る古い傷が、微《かす》かに震《ふる》えたのを、おれは見逃さなかった。
「……嘘を言って、ないだろうな」
「言っていない」
「さっきからあんたは、何か隠《かく》してる。おれに知られたくない大事なことがあって、必死で口を噤《つぐ》んでるだろ!?」
「どうしてそんなこと」
「おれの仕事だからさっ」
雨に濡れているはずなのに、胸の魔石《ませき》が温度を上げた。熱く重く、皮膚《ひふ》に押しつけられて、焼き印でも残りそうに強く痛む。
「ホームベースの後ろにしゃがんだら、心を読むのがおれの仕事だからね。投手も、バックも全員の考えを読んで、判断下すのがキャッチャーの仕事。味方だけじゃない、バッターもランナーも向こうのベンチの作戦も、敵味方全員の心を読んで、サイン出すのが捕手《ほしゅ》の仕事。おれはまだ未熟で半人前だから、全員の気持ちまでは判んないけど、一番近い人のことくらい少しは感じるよッ」
短気な上司に胸《むな》ぐらを掴まれたままで、コンラッドは、ふっと口元を歪《ゆが》めた。笑いとはほど遠い表情だ。
「……かなわないな」
「誰《だれ》か来たっ!」
グレタの悲鳴に近い叫び声で、二人同時に扉を見る。強い衝撃で|閂《かんぬき》がしなり、今にも牙城《がじょう》は崩《くず》されそうだ。体当たりというレベルではない。
「人間の力じゃないな……何を使ってくるつもりだ」
ウェラー|卿《きょう》は|大振《おおぶ》りの剣《けん》を抜《ぬ》き放ち、祭壇の絵画へと鞘《さや》を預ける。我が剣の帰するところ眞王の許《もと》のみと、低く呪文《じゅもん》みたいに呟いた。
「よせよコンラッド、縁起悪いよ!」
もう二度と剣を鞘に戻さないつもりか。
「鞘は眞王陛下にお預けする。眞王の許しがあるまで戦い続けるということです。その代わり、陛下のご加護がありますようにってね。ようするに気合いですよ、気合い。グレタを|椅子《いす》の下にでも隠してください。向こうも子供までは狙《ねら》わないだろう」
「おれは? まさかおれは|丸腰《まるごし》のまま!?」
「絵の眞王が見えますか」
コンラッドは|唐突《とうとつ》にそんなことを訊いた。相変わらず大きいサイズの|額縁《がくぶち》には、ゴージャスなインテリアの王様ルームしか描かれていない。
「……二人しておれをからかってる?」
「良かった、見えないんだな。ではその水を思いきりかけて」
「えっ!? そ、それは名画|鑑賞《かんしょう》のルールとして、大反則なんじゃないかなあ」
自称《じしょう》・品行方正な高校生としては、芸術を損《そこ》なうような|真似《まね》はできない。しかし、今にも|突破《とっぱ》されそうな扉を見てしまうと、|修羅場《しゅらば》をくぐってきた専門家の言葉を信じるしかなかった。
|満杯《まんぱい》の水を湛えた平鉢から、遠慮《えんりょ》がちに指先で跳ねさせてみる。
「うわ光ったよ。化学反応かなっ」
「そんな上品なことしてないでくれ。もっと思いきり、全面に」
文部科学省の小言を|覚悟《かくご》しながら、おれは平鉢を両手で抱《かか》え、これでもかとばかりにぶっかけた。等身大はあろうかという額縁から青白い光が教会中に広がる。
「……すげ……」
「そこから移動できますから」
「はあ!?」
追われるストレスが耳にきて、聞き|間違《まちが》えたのかと思った。
「だって絵だぞ!? 光ってるからって、水かけたからって、ふにゃふにゃになってるわけねえじゃん。しかもキャンバス突き破っても、その先には硬《かた》い壁《かべ》があ……」
金具と木材が吹《ふ》っ飛んで、正面の入り口が突破された。十人以上の追っ手が駆け込んで来る。
口々に何事か叫んでいるが、語尾《ごび》が独特で聞き取れない。全員が同じ格好《かっこう》をしていて、マントの下で長い手足が泳いでいた。
赤と緑で隈取《くまど》った、揃《そろ》いの仮面をつけているため、一人として顔は判《わか》らない。
服の色が濃緑《のうりょく》なのを別にすれば、まるで「スクリーム」の殺人鬼《さつじんき》だった。
「陛下、早く! 迷ってないで飛び込んでくれ」
「けどこんな大勢、あんた一人でどう……」
「守り切れそうにないから、言ってるんだ!」
追っ手のうち二人くらいが、|小脇《こわき》に武器らしき物を抱えている。通販《つうはん》番組でよく見かける、超強力小型|掃除機《そうじき》みたいな形態だ。長いヘッドが一回震えると、猛《もう》スピードの火球を吐《は》き出した。バスケットボールよりずっと大きい。
吸い込まないのか!?
一発目は運良く壁に向かったが、二発目は|過《あやま》たずおれを狙ってきた。
「危《あぶ》ねっ」
日頃《ひごろ》の癖《くせ》でキャッチングにいきそうな自分が怖《こわ》い。布の焦《こ》げる匂《にお》いが鼻を突く。炎《ほのお》は額縁の中央に吸い込まれ、円状に渇《かわ》いて光が消えた。そっと指先で押してみると、ごく|普通《ふつう》の油絵の感触《かんしょく》になっていた。
残る八人はじわじわと歩を進め、跳《と》びかかるタイミングを窺《うかが》っている。
二歩半|程《ほど》離《はな》れた前線で、おれに背を向けたままウェラー卿が言った。
「お願いだから、言うとおりにしてください」
「けど渇いて……」
「では早く水を探して……っ!」
言葉が終わる前に敵が両側から|斬《き》りかかっている。鋼《はがね》で一方を振《ふ》り払《はら》い、返した|鍔《つば》で次の一閃《いっせん》を受け止めた。背後から襲《おそ》われるのが恐《おそ》ろしくて、おれは首をそちらに向けたまま、祭壇《さいだん》の左のドアに手をかけた。開かない。ノブをいくら回しても、開かない。
「くそっ」
絶え間ない金属音と、目の端《はし》にちらつく青い火花。数回に一度は剣が|石床《いしゆか》を打つ鈍《にぶ》い音が混ざり、足の裏からも衝撃が伝わってくる。
渾身《こんしん》の力で|扉《とびら》を蹴《け》り飛ばすと、中央に見事な穴が空いた。
|土砂降《どしゃぶ》りの外だ。
「どう……」
ほんの数秒間、雨に気を取られ、背後に注意を払い損ねる。追っ手の一人はその|隙《すき》を見逃《みのが》さず、おれの背中に刃《やいば》を振り下ろした。
悲鳴に似た風が、中程で詰まった。何か硬い物に突き当たるが、力と重さに任せて斬り落とす。狩《か》りの獲物《えもの》が空から落ちるような、肉が地面に転がる|不吉《ふきつ》な音。
肉も骨も斬られた自分が、石の床に|倒《たお》れたのだと思った。
反射的に振り向くと、右手で相手と剣を合わせるコンラッドがいた。耳や首から濃《こ》く赤い血が流れている。
四ヵ所くらいに緑色の塊《かたまり》があって、それだけ敵は減っていた。
「外に」
言われて扉の穴を潜《もぐ》ろうとすると、踵《かかと》に何か、独特な感触があった。
腕《うで》だ。
「コンラッド!?」
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目を逸《そ》らすだけの勇気もなく、おれはただ斬り落とされた左腕を|凝視《ぎょうし》していた。指は|握《にぎ》るように曲がったままで、肘《ひじ》の角度もごく自然だった。血は|一滴《いってき》も流れておらず、まるで精巧《せいこう》な義手みたいだ。
「ユーリ!」
はっとして顔を上げると、守護者の背中は逆光で影《かげ》になっていた。左脇に、確かな違和感《いわかん》。
最悪な|状況《じょうきょう》のせいなのか、それとも苦痛のせいなのか、噛《か》み殺した|嗄《しゃが》れ声だ。
「早く外に。もう祭壇から移動するのは無理そうだ」
「コンラッド、腕が……」
それ以上、口にできない。
「言ったはずだ。あなたになら」
それでもおれには、額に冷たい|汗《あせ》を|浮《う》かべたコンラッドが、血の気の引いた頬《ほお》と口端を上げて、不敵に笑うのが判っていた。
「……手でも胸でも命でも、差し上げると」
|普段《ふだん》の人当たりのいい笑《え》みではなく、剣鬼の形相かもしれないが。
これ以上誰も、傷つけてはいけない。誰も待ち伏《ぶ》せていないことを祈《いの》ってから、おれは扉の穴に上半身を突っ込んだ。|大粒《おおつぶ》の雨が顔を叩《たた》く。
心許《こころもと》ない泥《どろ》に両手をついて、やっとのことで全身を引きずり出した。けれど、すぐに足元の地面は崩れ、土砂と共に|滑《すべ》り落ちる。掴《つか》まる枝はどこにもない。
「崖《がけ》かよ!? ちょっ……おい」
名前を呼ぼうと振り返ったとき、熱気と爆風《ばくふう》で扉が吹き飛んだ。
泥土と雨に呑《の》みこまれながら、おれは頭上を見上げていた。離れてゆく教会の裏口からは、炎と|煙《けむり》が噴《ふ》きだしている。
微塵《みじん》に散った破片と|輝《かがや》く火の粉が、天からキラキラと舞《ま》い落ちてくる。空中の雨粒に反射して、輝きは二倍にも三倍にもなった。
真下から見る、花火みたいだ。
泥で視界も呼吸も|奪《うば》われる|瞬間《しゅんかん》まで、ぼんやりとそんなことを思うしかない。
誰《だれ》かがおれの耳元に、短く詫《わ》びの言葉を残す。