昨日までの彼は、フォンクライスト|卿《きょう》ギュンターだった。
少なくとも、そう呼ばれてはいた。
「……で、とは……かろ……にさいごの、ちょ蔵分があるというのだな?」
「可能性はありますね。しかし千年以上前の薬が、|今更《いまさら》正確に作用するとも考えがたい。よほど保存状態がよくなければ……いえ、それでも毒として使えるかどうか」
フォンクライスト卿ギュンターだった「もの」は、斜《なな》め上の角度から、知人らしき二人を見下ろしていた。あれは確か、フォンヴォルテール卿「完全無欠の冷徹無比」グウェンダルと、その幼馴染《おさななじ》みにして編み物の師匠《ししょう》、フォンカーベルニコフ卿「眞魔国三大|魔女《まじょ》、眞魔国三大悪夢、赤い悪魔、歩く実験|狂《きょう》、マッドマジカリスト、最終凶器悪女、赤の」アニシナだ。
どんどん増えてゆく肩《かたが》書きが、彼女の凄《すご》さを物語っている。
「となると、残された成分表を元に、新たに調合したのかもしれません。だとしたら敵ながらまことに|天晴《あっぱ》れ、材料を揃えるだけでもかなりの労力です。なにしろ塩猿の金……」
「おいっ!」
「……といえば、ここ五百年間で一つも市場に出回っていません。なんです?」
この角度から見下ろすと、グウェンダルの慌《あわ》てようもよく判る。いつも冷たく|不《ふ》|機嫌《きげん》そうな顔しかしない彼も、相手によってはこう変わるのですね。
「少しは恥《は》じらいというものをだな」
「恥じらい? そんな何の実験にも使えないような感情、飼っておくだけ餌《えさ》の無駄《むだ》です。そう、恥じらいといえばギュンターの雪ウサギが溶《と》けかかっていました。わたくしは別に構いませんが、気恥《きは》ずかしいのは男のほうでしょう?」
それにしても私《わたくし》いつのまに、グウェンダルよりも身長が伸《の》びたのでしょうか。これで陛下トトでの総合順位も、彼を抜《ぬ》いて上位|十傑《じゅっけつ》入りでしょうか。人知れずほくそ笑みながら、ギュンターだったものは部屋中に視線を巡《めぐ》らせた。私の雪ウサギがどうですって? 溶けかかっているなら作り直し……。
「あきゃーっ!」
彼は見てしまった。部屋の中央の氷の|棺《ひつぎ》に、自分の遺体が横たわっているのを発見したのだ。
股間《こかん》には形の|崩《くず》れた雪ウサギが、恨《うら》めしげな目つきで載《の》っている。
「おや、気付いたようです」
「あきゃ、私、うううううー、死んだのですね? 儚《はかな》く散った命なのですね!? ああでも、なんと美しい死に顔でしょうか……この晴れ姿、陛下にもお見せしたかった……」
「色々と複雑に倒錯《とうさく》している様子。恋《こい》はもうろくという言葉は、あなたのためにあるようなものです……グウェンダル、アレをとって」
フォンヴォルテール卿の剣《けん》ダコが身体《からだ》に当たり、高いところからひょいと降ろされた。|魂《たましい》を素手で掴まれたのかと思い、ギュンターだったものは悲鳴混じりに抗議《こうぎ》する。
「グウェンダル、私に何の恨みがあって! 死んだばかりの脆《もろ》い魂を迂闊《うかつ》に触《さわ》れば、生まれられなくなるじゃないですかーっ! あっ、さては私が来世で陛下と結ばれる予定なのを妬《ねた》んで、今から阻止《そし》しようという魂胆《こんたん》ですねっ!? うきゃ、そんな粉末まみれの机に置かないでくださいよっ、くしゃみが止まらなくなるじゃ……へぶしっ! へぶしっ、ぶしゅわっ」
「……|黙《だま》らせることはできないのか」
「死ぬまで黙らないのでは」
「死んでも黙りまへぶしゅんっともっ!」
アニシナが形のいい|眉《まゆ》を上げて、棚《たな》から粘着布を取りだした。細長く伸ばして裏紙をむき、ギュンターだったものの顔にべったりとくっつけた。
「貼《は》られたくなければ話を聞きなさい」
やっちゃってから言うな。
「残念ながらあなたはまだ死んでいません。ごく単純な幽体離脱《ゆうたいりだつ》です。肉体のほうも仮死状態とはいえ生命活動を維持《いじ》しているし、幽体もどこかに飛ばされないように確保しました」
「ほにゃへー」
「幽体を保存するのに適した器《うつわ》があったので、あなたは今、その器の中にいるのです」
「ふにゅわーり」
器といわれて彼が想像したものは、植木鉢《うえきばち》くらいの大きさの瓶《びん》で、液体|潰《づ》けになった|脳《のう》味噌《みそ》だった。……いやすぎる。たとえ可愛《かわい》らしい桃色《ももいろ》でも、瓶詰《びんづ》め脳味噌はイヤすぎる。
鳴呼《ああ》なんという不幸! 陛下も愛してくださった灰色の髪《かみ》、スミレ色の瞳《ひとみ》が、桃色の脳細胞《のうさいぽう》のみになってしまったとは。魔族の価値は容姿ではないとはいえ、あの照れ屋で奥手な陛下が「その紫水晶の瞳をいつまでも見詰《みつ》めていたい」とまで仰《おっしゃ》って、お気に入りのご様子だったのに(『秋には揺《ゆ》れる想《おも》い日記』秋の第二月四日目より引用)。……脳内日記文学は、絶好調で進行中だ。
「酢漬《すづ》けになどしていませんよ。そんな、見るからに不味《まず》そうな」
傍《はた》で聞いていたグウェンダルは、不愉快《ふゆかい》そうな顔をした。教育係の酢漬けを想像してしまったのだろう。|鬱陶《うっとう》しい誤解をさせないためにも、彼はギュンターだったものの入っている器の前に、姿見を突《つ》き付けた。
「これがお前だ」
「ひょ……」
磨《みが》かれた鏡に映ったのは、雪のように白い肌《はだ》と綻《ほころ》びかけた蕾《つぼみ》みたいな紅い唇《くちびる》、腰《こし》まで伸《の》びた艶《つや》やかな髪、前で合わせる異国の着物姿の人形だった。
身長は二の腕《うで》と同じくらいで、その三分の一を顔が占《し》めている。切り揃《そろ》えられた前髪は、眉よりも上で見事な直線を描《えが》いている。髪も、弓形の眉も、三日月状に|微笑《ほほえ》んだ目も、高貴で気高い|漆黒《しっこく》だ。アニシナは粘着布を手荒《てあら》に剥《は》がしてやった。
「どうです? おキクギュンター、魔王陛下の花嫁《はなよめ》版」
「魔王、陛下の花嫁、ですか?」
なんとも心ときめく熟語だ。
「そう。おキクギュンター。そしてあちらで眠《ねむ》ってるのが雪ギュンター。おキクギュンターは小さくて可愛い物好きのフォンヴォルテール卿も、陛下ととってもお似合いだと大絶賛」
「ほんとに?」
「……う」
人形の首が一八0度回転して、笑った目をグウェンダルに向けた。途端に背筋が寒そうな動作をする。私が可愛らしすぎるのですね。
「|大傑作《だいけっさく》! 生身の者には不可能な優雅《ゆうが》な動きも、色々と可能にしてあります。|喋《しゃべ》ると口がカタカタ動くし、放《ほう》っておいてもどんどん髪が伸びます。両眼《りょうめ》から赤い殺人光線も出せるのですよ!」
優雅?
「更に、人型生物共通の永遠の夢、空中|浮遊《ふゆう》も可能です」
「空が飛べるのですか!? それはすごい、ではさっそく」
おキクギュンターは満身の力を込《こ》めて作業台から飛び立った……ら、浮《う》いた。
人差し指くらいの高さの場所を、赤《あか》ん|坊《ぼう》並みの速さで移動する。大蠅《おおばえ》が部屋中を旋回《せんかい》するような、気味の悪い稼働《かどう》音を発しつつ。なるほど確かに空中浮遊、空を飛ぶという水準ではない。
「ね、|素晴《すば》らしいでしょう。今なら豪華《ごうか》収納箱もついて、お値段たったの98金!」
「……一つ買うともう一つついてくるのではなかろうな」
「まったく、男は欲張りだこと」
ある意味で仲のいい二人を見ていると、ネタにされている身としては腹が立ってくる。
それでもギュンターは運がいい方だ。この毒に冒されたら、多くの場合は尊厳ある死を迎《むか》えることはできない。しかも遺体は荼毘《だび》に付し、分散させて埋葬《まいそう》するのが習わしだ。それほど恐《おそ》ろしい毒だということである。
「念のためにフォンウィンコット一族の方々には、一人残らず警護をつけましたが……それでも何処《どこ》に血を引く者がいるかは判《わか》りません。国を出て修業中の若者が迂闊《うかつ》に身分を明かせば、すぐさま利用されてしまう」
「ど、どういうことです? 私は十貴族に命を狙《ねら》われたのですか? 私が射られた矢に塗《ぬ》られていたのはあの……あの恐ろしいウィンコットの毒なのですか? 死後も相手の意のままに操《あやつ》られ、骨までしゃぶり尽《つ》くされる……?」
「そうなのですよ。あなたの肉体に出ている|症状《しょうじょう》から判断するに、確定的です。矢尻《やじり》に塗られていたのは、ウィンコットの血を持つ者にだけいいように操られるという非常識な毒。過去、これに冒された者による愉快犯《ゆかいはん》で、どれだけ世間が盛り上が……迷惑《めいわく》したことか」
酒場でしこたま飲んでトイレに籠《こ》もり、内臓まで吐《は》きつつうずくまるゾンビとか。腹を減らした野良犬《のらいぬ》に狙われて、肉片ばらまきつつ逃《に》げ惑《まど》うゾンビとか。いずれも一族の中の不心得者が、他人を|驚《おどろ》かすためだけに動かしていたのだ。
がくっと顎《あご》が外れる音がした。
「れ、れも何のために私を操ろうなろろ……それにしても陛下をお守りれきて本当に良かった。これれあの方に万一のころでもあったら……はっ!? 陛下は!? 陛下はどちらにいらっしゃるのれすかっ!?」
よもやユーリ自身がウィンコットの末裔《まつえい》を騙《かた》ってしまっていることなど、おキクギュンターには知る由《よし》もない。
泥《どろ》の山を前にして、フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムはただ、黙り込んでいた。
夜を徹《てつ》して捜索《そうさく》を続けた兵士達も、疲労《ひろう》で動きが鈍《にぶ》くなっている。
結局、教会の裏手からも崖《がけ》の土砂《どしゃ》からも、遺留品と思われる物は見つからなかった。最初にウェラー卿のものらしき左腕《ひだりうで》が発見されただけで、その後は|一切《いっさい》、進展がない。
「……あの魔石くらいは」
雨で弛《ゆる》んだ|地盤《じばん》のせいで崖崩《がけくず》れに巻き込まれたのなら、これだけ掘《ほ》れば遺体も出てくるはず。
爆風《ぱくふう》で吹《ふ》き飛ばされたのだとしても、青い魔石くらいは残りそうなものだ。次兄《じけい》にしたって、剣《けん》をはじめ襟章《えりしょう》や軍靴《ぐんか》など、断片的にでも焼け残る素材はいくらでもある。
これだけ徹底《てってい》的にさらっても、何一つ発見できないということは、それだけ生存の可能性が高いとも考えられる。
「おい!」
泥にまみれた兵士達が、のろのろと顔を上げる。
「補強が来たら交代する、それまで休め」
「ですが閣下……一刻も早く……」
「いや、雨も当分はなさそうだ。昼まで作業を中断したところで、今後に|影響《えいきょう》はないだろう。モルガン、城から何事か伝令はあったか」
「いえ、|先程《さきほど》ギュンター閣下の意識が戻《もど》られたと報《しら》されたきり、何も……なんでも雪ギュンターと、おキクギュンターとかいう話なのですが」
「……だ、|脱皮《だっぴ》でもしたのか?」
だとしたら、新種誕生の歴史的|瞬間《しゅんかん》だ。
「まあいい。ここを任せる。ぼくは城に戻って、情報を整理する」
「判りました。ですが、あの、閣下」
「なんだ?」
早くも馬に跨《またが》っているヴォルフラムに、兵士は心配の色を隠《かく》せない。
「どうかお独りではなく、護衛の者をお連れください。奴等《やつら》の残党がまだ近くにいるかもしれません」
「|間抜《まぬ》け面《づら》を曝《さら》して、独りでうかうかと歩いていれば、ぼくを狙ってくると思うか?」
「その危険はあります」
「だったら尚更《なおさら》、単独で動く。どの国の差し金でどこを潰《つぶ》せばいいのか知るには、それが一番、手っ取り早い」
わがままプーとは思えぬ男前さに、駆《か》け去る後ろで|歓声《かんせい》がおこった。
陛下トトでヴォルフラム閣下に乗った連中だ。
|騎馬《きば》の行き来がいつもより多いとはいえ、血盟城はなんとか平穏《へいおん》を装《よそお》っていた。
主《あるじ》が暗殺事件に巻き込まれ、今もって生死不明だなどとは、決して国民に知られてはならない。城下がすぐに街となっている|直轄地《ちょっかつち》では、不穏《ふおん》な空気はすぐに民衆へと伝わりやすい。何事にも気を遣《つか》いすぎるということはないのだ。
焦《じ》れるほどゆっくり街中を抜《ぬ》けてから、城近くでヴォルフラムは速度を上げた。そのまま城門を通り過ぎ、端山の構える北へと回る。春を目前にした山道は、柔《やわ》らかい緑に彩《いろど》られかけていた。
中腹までは、首を下げる馬を宥《なだ》めつつ来たが、この先は徒歩でしか進めない。以前より多少は歩きやすくなった道を、フォンビーレフェルト卿は|黙々《もくもく》と登っていった。
眞王|廟《びょう》には昼夜を問わず火が焚《た》かれ、巫女《みこ》の許しがない限り男は入れない。高さが身長の六倍はありそうな入り口も、背筋を伸《の》ばした女性兵士が護《まも》っている。
「これは、フォンビーレフェルト|卿《きょう》ヴォルフラム閣下! 本日はどのよう……閣下!?」
「巫女に|訊《き》くことがある。通るぞ」
「お待ち下さい閣下、どのような高位のお方であろうとも、眞王陛下とその巫女の招きなく眞王廟に立ち入ることは」
「|緊急《きんきゅう》だ」
「閣下!」
制止を振《ふ》り切って侵入《しんにゅう》する。足早な靴音《くつおと》が高い|天井《てんじょう》に|響《ひび》き、黒く磨《みが》ぎ上げられた床《ゆか》には彼の|金髪《きんぱつ》が映って揺《ゆ》れた。きちんとした手順をふんで何回か来たことはあるが、一人きりで|闊歩《かっぽ》するのは初めてだ。
広々とした通路では、侵入者を遠巻きに見守る女の子達が、衣で口元を隠して|囁《ささや》き合っている。殆《ほとん》どがまだ半人前の巫女見習いで、髪《かみ》の長さも腰《こし》くらいまでと常識的だ。
「閣下! ヴォルフラム閣下」
名前を呼ばれて振り返ると、青白い頬《ほお》を少しだけ上気させ、果物《くだもの》の鉢《はち》を両手で抱《かか》えた少女が追いついてきた。フォンクライスト卿ギュンターの養女《むすめ》で、国内でも指折りの優秀な女性医療兵だ。いつもと違《ちが》って髪をまとめて上げており、|無粋《ぶすい》な軍服姿でもなかった。緑色の瞳《ひとみ》を困ったように曇《くも》らせて、子供の頃《ころ》からの知人をやんわりと窘《たしな》める。
「どうなさったの、殿方《とのがた》が許可なく一人で入られるのは禁じられているはずよ」
「急ぎなんだ。お前はどうした、ギーゼラ。その格好では非番だな」
「え、ええ、養父《ちち》が命拾いしたお礼もあるし、何より陛下とコンラッドの……いえ、コンラート閣下のご無事をお願いしようと思って」
「そうか。ああ、ギュンターは脱皮したそうだな、おめでとう」
「だ、脱皮? は、してないと思うんですけど。でもありがとうございます。今は新しい姿に慣れようと復帰訓練中です」
「どんな姿に脱皮したんだ? 蝶《ちょう》か、カニか、|爬虫類《はちゅうるい》か」
ギーゼラは養父の仮の姿を思い浮《う》かべ、もっと不気味だと結論を出した。
「人形類なんですけど……けど閣下、閣下は養父に|偏見《へんけん》がございません? |普通《ふつう》は脱皮なんて考えもしないじゃないですか」
「親子なのに看病しなくていいのか」
「アニシナ様に追い出されました。いい研究材料にされてるみたいです」
ご婦人が|脇《わき》を歩いているというのに、ヴォルフラムは速度を緩《ゆる》めもしない。こういうところがいまいち|恋愛《れんあい》対象にならない理由なのだ。ギーゼラのほうも女性扱《あつか》いを求めているわけではなかったから、結局二人して肩《かた》で風を切る軍人歩きだ。
眞王廟の奥に行くに従って、上位の巫女の姿が目立つようになった。通路脇や|扉《とびら》の向こうには、がっくりとうなだれた幼女が何人もいる。本来なら|嬌声《きょうせい》を上げて遊んでいる年代だ。それが皆《みな》、一様に打ちのめされているのは、他《ほか》では見られぬ異様な光景である。
「……陛下を見失ったことが、相当こたえているのね……ええそれはもちろん当然のことだけど……いつもの巫女達からは信じられないわ」
「あいつらはとにかく生意気だからな」
お前に言われたくはない。
最奥に通じる一歩手前で、またしても女性兵士に阻《はば》まれる。この先は最高位にして最高齢《さいこうれい》、眞王の御言葉をも聞き伝える巫女、ウルリーケの在所だ。
「言賜巫女様は誰《だれ》ともお会いになりません」
「緊急だと言っているだろうが!」
衛視《えいし》は表情も変えない。特に立派な体格でもないが、職業意識に後押しされているのか、フォンピーレフェルト卿相手に一歩も引こうとはしなかった。
「ユーリの移動に失敗したからって、部屋にこもってどうするんだ! おい、言賜巫女サマっ、ここ開けろっ」
「ヴォルフラム……閣下、そんな乱暴な」
「金か? 献金《けんきん》がないと会えないのか!? だったらここに持ってきている。欲しいだけの金額を言ってみろ」
「閣下! それは巫女様方に対する冒漬《ぽうとく》ですよ! ウルリーケ様、早くお返事下さらないと、このひと扉を壊《こわ》しそうでーす。一応、陛下の婚約《こんやく》者だから、|怒《いか》り狂《くる》って今にも暴走しそうですよー」
「一応とはなんだ、一応とは!?」
「しっ、いいから閣下はガンガン怒鳴《どな》ってください」
言われなくともそのつもりなので、ヴォルフラムは抑《おさ》えていた感情を大爆発《だいばくはつ》させた。その間の脅《おど》しの言葉の凄《すご》さときたら、聞いていた衛視までもが俯《うつむ》いてしまうほどだった。
「どーだ言賜巫女、これでもまだ責任取ろうという気にならないか!? だったら今すぐこの扉をぶち破ってやる! けど眞王廟内でぼくに魔力を使わせて、どんなことになっても知らないからな!」
悪口雑言《あっこうぞうごん》が一段落すると、肩で息をするヴォルフラムを押しのけて、ギーゼラが優しい口調で呼びかけた。
「ウルリーケ様、わたしにお任せ下されば、ヴォルフラム閣下のお怒りはどうにかします。ですからここを開けて話をお聞かせ下さい。でないとこの暴走男、|納得《なっとく》しません。言賜巫女様はわたしが責任持ってお守りしますから。彼には指一本、触《ふ》れさせませんから」
石の扉が細く開いた。間から銀の髪がちらりと覗《のぞ》く。ウルリーケだ。
「……ほんとうに?」
「ほんとうですとも」
ギーゼラはゆっくりとしゃがみ込んで、最高位の巫女と視線を同じにした。
「ウルリーケ様が、移動や転送に失敗するなんて、初めてのことですものね」
「失敗なぞしておりません!」
「そうでした。ええもちろん、巫女様が失敗したのではありませんとも。此度《このたび》のことは何者かが|邪魔《じゃま》をしたせいですもの」
「……そう、何者かが、私たちの邪魔をしたのです。私たちは陛下をあちらの世界にお送りしようとしたのに、魔力とは相反する|邪悪《じゃあく》な力で、横から|攻撃《こうげき》を加えたのです」
少女が部屋の奥に戻《もど》ったので、ヴォルフラムとギーゼラは扉を押し開けた。輝《かがや》く銀の髪を磨き上げられた床まで垂らし、眞王の巫女は|溜息《ためいき》をついて座り込んだ。こんなに打ちひしがれた姿のウルリーケは、めったなことでは見られない。
「私たちは今回、陛下をお呼びしてはいなかった」
「ぼくもそう聞いた」
「なのに、何者かの手と術によって、陛下の|魂《たましい》はこちらにいらしてしまうし。その上ご無事にお送りすることも叶《かな》わず、行方《ゆくえ》まで見失ってしまうなんて……言賜巫女としてはこの上もない|屈辱《くつじょく》……こんな失態は生まれて八百年で初めてです」
いかな長命の|魔族《まぞく》といえど、そこまで生きる者も|珍《めずら》しい。|樹齢《じゅれい》どころか地層と同じ人生観だ。生まれた頃に飼っていたカブトムシが、今頃は化石になっているのでは。
「肌《はだ》の張りのいい八百歳だな」
「でもウルリーケ様、陛下がこちらにいらしていることが、巫女様方にはどうしてお判《わか》りになるのです?」
ほんの僅《わず》かだが自信を取り戻し、少女は不遜《ふそん》に微笑《ほほえ》んだ。だがすぐに現状を思い出したのか視線を床に落としてしまう。
「偉大《いだい》なる眞王陛下の御力《おちから》で、歴代魔王の魂の所在は判るのです。凡人《ぼんじん》に見せるものではありませんが……」
凡人という言葉にカチンときたが、今ここで言い争っても始まらない。ウルリーケは小さな歩幅《ほはば》で壁《かべ》に近づき、高い天井から垂れた柔《やわ》らかな幕をさっと引いた。
滑《なめ》らかな黒曜石の台座の上に、仄白《ほのじろ》い球体が浮かんでいる。卵の内側の|膜《まく》のように、ぼんやりと曇って曖昧《あいまい》だ。両腕《りょううで》が抱えられる大きさだが、掻《か》き消えてしまいそうで触れられない。
「ほら、ここに金色の星があるでしょう」
球の中には本物の天体図みたいに、いくつかの星が|瞬《またた》いていた。四つほどが比較《ひかく》的固まっていて、残りは離《はな》れたところに位置していた。巫女《みこ》の示した金の星は、他とは離れた場所で光っていたが、輝きはどれよりも強かった。
「これはあなたの母上でもあり、前魔王現上王陛下の、フォンシュピッツヴェーグ卿ツェツィーリエ様の魂です」
……すごく元気そう。
「退位されて間がないので、まだ魔王としての力が残っているのですね」
「それだけとは思えないけどな……」
次にウルリーケは、集まった四つのうち最も輝きが弱い薄黄色《うすきいろ》の点を指差した。
「そしてこのちらついている光は、先々……先代の王の力が消えかかっている|証拠《しょうこ》です。この辺りはラドフォード地方ですね。ベルトラン陛下はもうすぐ魔王としての強大な力を全て失い、静かな|隠居《いんきょ》生活を送られることでしょう」
「居場所まで判るのですか!?」
「国内ならね。残念ながら人間の土地に居られる場合は、私にも皆目《かいもく》。例えばツェリ様の金色の光は、この世界でお元気だということは確かですが、国を遠く離れているために、いらっしゃる場所は判りません。あの方はいつも精力的に動き回っていますから……あ」
金色のすぐ近くに新しい星が、一瞬《いっしゅん》だけ浮かんですぐに消えた。青く白く強い輝きだったが、他のものより横に長い。
「今のは?」
「……わかりません。非常に強く不安定で……しかも|凶悪《きょうあく》。ムラがある……もしかして」
「ユーリだ!」
ヴォルフラムは、スヴェレラの収容所近くで感じとった、ユーリの魔力を思い出した。あれは凶悪で凄《すさ》まじく、波動に|極端《きょくたん》なムラがあった。
とてもよく似ている。
「確かに陛下の光はいつも|瞬《またた》きが激しいのですが、これは少し異常です。あっ、また」
「異常だろうが正常だろうが、これはユーリだ。良かった生きて、生きてるんだな!?」
広げた右手で額を覆《おお》い、眉間《みけん》につんと染《し》みる痛みを抑えた。涙《なみだ》を堪《こら》えた。
「だがここは何処《どこ》だ? 場所は判るか」
「あなたの言葉を信じるとすれば、陛下はまだ、こちらの世界にいらしたのですね。ああでもそこは我々魔族の土地ではありませんので、どちらにいらっしゃるかは見当もつかない」
「なんだと貴様、八百年も生きてきてそれくらいのこともできないのか!?」
少女がぎゅっと唇《くちびる》を噛《か》んだ。
まずい。
「……は、八十歳ごときに言われたく、ないですねッ」
ウルリーケが泣きだすと悟《さと》ったギーゼラは、|急遽《きゅうきょ》立場を変え、優等生的な発言に走った。
「閣下も大人げないですよ。こんな年端《としは》もいかない女の子に向かって」
「年端もいかないって、八百歳だぞ!?」
八十二歳の美少年が鼻白む。
「女の子はいくつになっても女の子なんです! ね、ウルリーケ様? まったくもう、これだから男というのは」
なんだかアニシナみたいだ。
凄腕《すごうで》医療兵に肩《かた》を抱《だ》かれ、涙ながらに|頷《うなず》く最高齢《さいこうれい》の巫女を見つつ、ヴォルフラムはがっくりと肩を落とした。不覚。わがままプーとまで呼ばれたこのぼくが、急場しのぎの|突貫《とっかん》タッグに破れようとは。
つまりはこういうことか。眞王の言賜巫女ウルリーケは、外見とは裏腹な長老としての心を持つ少女、ではなく、姿も心も純粋《じゅんすい》な女の子のままの老人である、と。なんだかうそ寒くなってしまう。
「もういい、とりあえず生きていることは判った。場所はどうにかして自分で探す。あ、また光った」
ツェツィーリエ前魔王現上王陛下のすぐ|脇《わき》で、横に長い星が再び輝いた。|幅《はば》が広いというよりは、帚星《ほうきぼし》のように|尾《お》を引く感じだ。金の光と比べると、確かに不安定で点滅《てんめつ》も多い。
「母上のほうが魔力が安定して……待てよ、二つともこんなに近いんだから……」
「そうはいっても|一緒《いっしょ》にいるわけではありませんよっ。そこでは近く見えたって、実際には何都市も離れているんですからねっ」
彼を敵とみなした眞王の巫女が、涙声《なみだごえ》で|負《ま》け惜《お》しみを言った。だがもうヴォルフラムには、そんなことはどうでもいい。
「都市の一つ二つなら、離れていても構わない。だいたいの地域さえ特定できれば、その周辺を徹底捜索《てっていそうさく》すればいいんだ。この天体位置を信じるとすれば、ユーリは上王陛下の近くに存在することになる。|狭《せま》い範囲《はんい》なら同じ国、広く考えても同じ大陸には居るだろう。そして現在、母上がいる場所は」
自由|恋愛《れんあい》旅行中のツェリ様には、魔族も人間も関係ない。半年ほど前からお気に入りの一人に加えられた男は、確か大国の富豪《ふごう》だったはずだ。しかも超《ちょう》年下。
「シマロンだ! 貢《みつ》がせていた城や船が、シマロン籍《せき》になっていたからな」
「すると陛下も同じ地域にいる可能性が高い、と……手放しでは喜べない情報ですね」
ギーゼラの口調も重い。よりによって、と前置きのつく結論だ。
魔族と対立する人間の国の中で、シマロンは最大の勢力だ。本国は小シマロン、大シマロンの両者で構成されるが、彼等の国力はそれだけにとどまらない。ここ数十年の|戦闘《せんとう》で、大陸中の殆《ほとん》どの国家を制圧し、|驚異《きょうい》的な速さで領土拡大を進めてきた。今では周辺諸島にまで手を広げ、シマロン領は世界の四半を占《し》める。単純に物量中心で比較《ひかく》すれば、|眞魔《しんま》国はシマロンの三割にも及《むよ》ばないだろう。
しかも|先頃《さきごろ》入った情報によれば、決して触《ふ》れてはならない「箱」を手に入れたらしい。それを兵器として扱《あつか》うことで、シマロンの戦力は格段に上がる。標的は当然、魔族だ。彼等は異種族を叩《たた》くことに疑問を持たない。ただし「箱」を使うことで、その後の世界がどうなるかは保障できないが。
「よりによってシマロンだなんて」
「だが、何も判らないよりはまだましか」
フォンビーレフェルト卿は|踵《きびす》を返し、来たとき同様の靴音《くつおと》で道を戻《もど》った。ウルリーケを宥《なだ》めたギーゼラが、走って後を追ってくる。
「どうされるんです?」
「フォンヴォルテール卿に報告する」
「それから?」
「指示を|仰《あお》ぐ」
「指示を」
「そうだ。ユーリがいない今、指揮を執《と》るのは兄上ということになるからな。お前の養父も|脱皮《だっぴ》したばかりで心許《こころもと》ないし」
「脱皮は、してませんてば」
ギーゼラは話題をギュンターの病状へと移し、少しでも気分|転換《てんかん》になるようにと、目から発する光線や空中|浮遊《ふゆう》の話をした。だが三男は笑う気にもなれないのか、気のない返事をするばかりだ。
馬を繋《つな》いだ地点まで戻った頃《ころ》に、ようやく自分から口を開いた。
「ユーリを示した星は、気になるな」
「形が少々、細長かったですね」
「ああ。あの帚星《ほうきぼし》の尾……あまりにも他と違《ちが》いすぎる。光る範囲も大きいし」
「もしかしてお一人じゃないのでは。コンラート閣下がご一緒だとは考えられません?」
言ってしまってからギーゼラは口ごもる。
「その……ご遺体が見つからないと聞いたので。片腕をなくされても、同行されているのではないかしらと……責任感がお強いから」
「そうだったら安心なんだがな。別の意味では心配だけど。でも現実的に考えて、それはないだろう。ウェラー卿には|魔力《まりょく》が全くないから、ユーリや母上のようには居場所をつかめない。あそこに星を浮《う》かべていた数人は、いずれも強大な力を持つ者ばかりだから」
「……そうですか……閣下はどうされてしまったのでしょうね」
|吐息《といき》になりかけた|呟《つぶや》きを聞いて、ヴォルフラムはなるほどと|納得《なっとく》した。
彼女はウェラー卿にご執心《しゅうしん》なのだ。コンラートはやたらとご婦人に人気があるから、片想《かたおも》い中の女性が近くにいても不思議ではない。彼のことが心配で、眞王|廟《びょう》まで供物《くもつ》を抱《かか》えて来ていたのだろう。
美少年の恋愛《れんあい》洞察《どうさつ》力なんて、|所詮《しょせん》その程度のお|粗末《そまつ》さだ。