ここの館《やかた》に着いたときから、月はかなり高い。
今は四角い窓の中央で、部屋を煌《こうこう》々と照らしている。おれは動かない身体《からだ》と働かない|脳《のう》味噌《みそ》のまま、ぼんやりと日の丸を思い浮《う》かべていた。黒地に白のコントラストなのに。
古い鉄扉が錆《さ》びた音をたて、女性の|爪先《つまさき》が歩いてきた。気配がまったくしなかったのは、彼女が裸足《はだし》だからだ。
「クルーソー大佐《たいさ》」
媚《こ》びを|含《ふく》んだ甘い声。
丁寧《ていねい》に揃えられた足の爪が、桜色に艶《つや》めいている。フリンの美しさは何もかも完璧《かんぺき》だった。
「ごめんなさい」
おれが中央で大の字になっていたため、彼女はベッドの端《はし》に腰《こし》を下ろす。腰まで伸びたプラチナブロンドが、先の方だけ波打っていた。月の光と相まって、そこだけ水辺のようだった。
「こんなところに閉じこめて。でも、あなただって悪いのよ。食前に杯《さかずき》を交《か》わすのは、館の主《あるじ》と客との礼儀《れいぎ》だわ。なのにあなたったら、口をつけもしない。そのうちにあの無礼な男が」
マキシーンがグラスを払《はら》ったことになると、口調が独特の憎《にく》しみを帯びる。
「あいつには本当に腹が立つ……王の飼い犬でさえなかったら、館に入れたりしないのに。私の可愛《かわい》い給仕達に、あんな血まみれの手で触《さわ》るなんて……」
自分が答えさえすれば、あの少女はもっと早く助かったのだということは口にしない。そんなこと覚えてもいないのか。
「あなたが憎いわけじゃないのよ。どうしても手に入れなくてはならなかったの。ウィンコットの血を引く者が、私にはどうしても必要なのよ。あなたの血で、思うままに操《あやつ》ってもらいたいの。決して誰にも従わない、頑固《がんこ》で強靭《きょうじん》な箱の『|鍵《かぎ》』を」
鍵を操る? 万年スタベンの控《ひか》え捕手《ほしゅ》が、手先の器用さなど持ち合わせているものか。知恵《ちえ》の輪さえ解けない短気さだし、自転車の鍵以外は開けられない。しかもこの女は勘違《かんちが》いしている。おれがジュリアさんを輩出《はいしゅつ》するような、モテモテ家系の一員だなんて。サングラスを外して顔さえ見ておけば、そんなデタラメ信じるはずがなかったのに。
ここぞという大事な局面で|過《あやま》ちに気付き、彼女が美しい顔を歪《ゆが》めて悔《くや》しがるかと思うと、落ち込んだ気分も少しは向上する。
ほんの|僅《わず》か、一ミリくらいだけど。
「さあ飲んで」
もう|喋《しゃべ》るのも|億劫《おっくう》なおれが、顔を動かしもせずに疑心の目だけを向けると、フリンはにっこりと|微笑《ほほえ》んだまま、首を振って否定した。
「|大丈夫《だいじょうぶ》、毒なんか入れてない。私達にはその血筋が必要なの。あなたの祖先の作った|特殊《とくしゅ》な薬物を使うためにね。最初から殺そうなんて思ってもいない。あなたは偉大《いだい》な兵器の大切な一部、鍵を操れるのはあなただけなんですもの」
上品な|装飾《そうしょく》のグラスを傾《かたむ》けて、おれの喉《のど》にアルコールを流し込もうとする。横になったままでは無理だと知ると、フリンは自分で赤ワインを含み、目を伏《ふ》せてそっと屈《かが》み込んだ。
女の柔《やわ》らかい唇《くちびる》が、触《ふ》れた。
「休んで。ぐっすり|眠《ねむ》るのよ。あなたの力が必要になるときまで」
頬《ほお》に触れる冷たい指が、少しだけ名残《なごり》を惜《む》しんでから、熱をつれて離《はな》れてゆく。
彼女は月明かりに背を向けて、静かに部屋から出ていった。施錠《せじょう》する金属音と見張りの会話が済み、館の主は立ち去った。
おれは必死で寝返《ねがえ》りを打ち、やっとのことでベッドから転がり落ちる。肘《ひじ》と|膝《ひざ》を使って窓辺まで這《は》い、そこで床《ゆか》に映る自分の影《かげ》を見た。
月は青く白く、明るかった。
明るいところに、いたかったんだ。
誰かから差し出された食べ物は、軽率に口にしてはいけない。おれが今日までそれを忘れていられたのは、注意してくれる人がいたからだ。おれがどこかの悪意ある存在に|騙《だま》されないように、気を配ってくれる人がいたからだ。
でも、もう毒味をしてくれる人はいない。
意を決して人差し指を喉に突《つ》っ込み、胃の中の物を|全《すべ》て吐《は》いた。苦さとつらさと悔しさで、生理的な涙《なみだ》が鼻まで伝う。
これでいいんだろ、ギュンター。これで大丈夫なんだろう?
そこまでで気力を使い果たしたのか、もう|瞼《まぶた》を持ち上げているのも苦しくなる。
それから、真っ暗な泥《どろ》に引きずり込まれるように、自分の|睡眠《すいみん》欲だけで眠りについた。
夜が明けて窓の向こうに陽が昇《のぼ》ったら、自分の意志で目を覚ませるように。
夢の中ではコンラッドも、ギュンターも元気で、おれだけが離れた場所に佇《たたず》んでいた。