負け惜《お》しみを言うと、逃《に》げようと思えばできないことはなかった。
性別が男である以上、マッスルシートベルトにだって弱点はあるし、彼等が必要以上に用心深く、ファールカップを装備しているとも思えない。ここはひとつグーで連中の股間《こかん》を|潰《つぶ》し、隙《すき》をついて両腕《りょううで》を自由にする。そして時速約五十キロで疾走《しっそう》中の馬車から、タイミングを見計らって路肩《ろかた》にジャンプ! 八回転してすっくと立ち上がり、満場|一致《いっち》の10・0!
痛そう。考えるだけで痛そう。
|巴投《ともえな》げ連続五十回くらいのダメージを受ければ、おれ一人は|脱出《だっしゅつ》可能かもしれない。命のあるなしは別として。だが問題は村田健だ。
すぐ後方を突《つ》っ走っている四頭立て馬車から、どうやって彼を救出するか。
ていうか、道路に転げだしたら、おれはすぐに後続の乗り物に轢かれるよな。いやその前に馬に蹴《け》られてアウトだよな。他人どころか自分の恋路《こいじ》さえ邪魔《じゃま》してないのに。
もっともらしい理由をつけて車を止めてから、|扉《とびら》を蹴破って猛《もう》ダッシュというのはどうだろうか。そのためには先頭と|最後尾《さいこうび》の二台は別として、少なくとも渋谷号と村田号は止めなければならない。あっちとこっちで同時にトイレ休憩《きゅうけい》をとらせるために、二人の心を一つに合わせるんだ! おれは離れた場所にいる友に向かって、品のないテレパシーを試みた。
「立ち小便ナリー、ムラケンー、連れションナリー、ムラケンー」
|両隣《りょうどなり》のマッスルがもじもじし始めた。あんたらじゃないって。
フリンがいきなりカーテンを閉める。
窓の外は|収穫《しゅうかく》を終えた農地を過ぎて、果てない草原が広がっていた。とはいえ、植物は地を這《は》うようにしか生えていない。冬をひかえているからだ。
「速度を上げて」
やや緊張した面もちで|御者《ぎょしゃ》に命じると、彼女は胸の前で腕を組んだ。|眉間《みけん》に微《かす》かな皺《しわ》を寄せ、何事か考え込んでいる。
魔族実は似ている三兄弟の長男、グウェンダルがよくする表情だ。申し訳ないことだと思いつつも、国政は殆《ほとん》ど任せっぎりだから、憂《うれ》えることも多いのだろう。
フリン・ギルビットも亡《な》き夫に成り代わって、必死で国を護《まも》っているに違《ちが》いない。|膝《ひざ》の上に載《の》せられた覆面のくたびれ具合が、それを雄弁に物語っている。
マッスルの一人が耳をそばだてた。さっきまでとは蹄《ひづめ》のリズムが変わっている。調和を乱す何かが加わったようだ。
「馬です!」
たちまち全員の顔色が変わった。
「平原組《へいげんぐみ》だわ! もっと速く、速度を上げてちょうだい!」
「これ以上は、無理、でずっ[#「でずっ」に「ママ」の注記]」
部下は必死のモンキー乗りだが、馬車の御者席でそれは無意味だ。舌を噛《か》みそうになっている。
「どうにか逃げ切って! 東に向かうのを知られたら……」
「知られたら、どう、なるんだっ?」
激しくなった揺れに翻弄《ほんろう》されて、おれたちもシートで小刻みに弾《はず》んだ。
「私達カロリアも平原組も、名目上は小シマロン領よ。自治区とはいえ勝手に大シマロンを訪問すれば、宗主国として|黙《だま》ってはいない」
暴力団風の名前を口にするときに、フリンは|忌々《いまいま》しげに|眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。どうやら平原組と呼ばれる団体は、彼女の中ではマキシーンと同じカテゴリーに属するようだ。
刈《か》り上げポニーテールことナイジェル・ワイズ・マキシーンとは、先日|決裂《けつれつ》したばかりだ。
アーダルベルトは「絶対に死なない」なんて嘯《うそぶ》いていたが、落ちてくときの|尾《お》を引く悲鳴が忘れられない。あれで本当に無事だったのだろうか。
「追いつかれそう」
黄色いカーテンを少しだけ持ち上げて、フリンが背後を窺《うかが》った。
おれもシートベルトごと身を捩《ねじ》って、窓の外を覗《のぞ》き見た。最後尾の護衛は既《すで》に追い抜《ぬ》かれ、四、五騎の乗り手が村田号に並んでいた。いくら四馬力とはいっても、こっちは馬車で向こうは単独だ。身軽なほうが是も速いに決まっている。
囲まれるのは時間の問題だろう。
「平原組ってどんなことするんだ? オトシマエとかユビツメとかハラキリとかする?」
「彼等は小シマロンの人形だわ。誇《ほこ》りも意地も忘れ果てて、権力にへつらう愚《おろ》かな者達。私達の向かう先と目的を知ったら、嬉々として小シマロンに突き出すでしょうね。偉大なる見開きの君、サラレギー様からお褒《ほ》めの言葉を賜《たまわ》るために!」
フリンの語調は|刺々《とげとげ》しい。
サラレギーだかアレルギーだかニラレバーだか、その名前は刈りポニの口からも聞かされている。小さい方のシマロンの王様だろう。|憎々《にくにく》しげに呟《つぶや》かれた「見開きの君」というのは、ミドルネームか肩書《かたが》きか。
渋谷号が急にスピードを落とした。フリンがヒステリックに|叫《さけ》ぶ。もはや|旦那《だんな》の身代わりだとか、マスク・ド・貴婦人とかいってる余裕はない。
「どうして止まるの!? 走って! 逃げ切るのよ」
「ですがギルビット様、正面に羊が」
全員が、羊? と聞き返し、小窓に殺到《さっとう》して前を見た。
羊、羊、羊。一面の羊。
数え切れない羊の群れが、高速馬車道路を完全に塞《ふさ》いでいる。
「飛び越《こ》して!」
それは無理。マッスルズとおれで無言のツッコミ。
車輪の軋《きし》む音に、フリン・ギルビットはいよいよ取り乱し始めた。そっちのクッションをこっちに移動させてみたりと、意味のない行動を繰《く》り返している。この心理状態はよく判《わか》るぞ。負けてる試合の九回裏に、いきなり代打に指名された心境だろう。打たなきゃおれのせいで敗戦決定だし、心の準備はできてないし。
「どうしよう、どう逃《のが》れようかしら……くそっ、あの|厄介《やっかい》な因習さえなかったら……」
パニック寸前で、|淑女《しゅくじょ》らしからぬ言葉も飛びだす。そうこうしている間にも、馬車はどんどん速度を緩《ゆる》め、ついには群れの真ん中に突っ込む形で|緊急《きんきゅう》停車した。
周り中をモコつく|家畜《かちく》に囲まれている。頭の中を無数のウールマークが飛び交《か》った。洗濯機《せんたくき》では洗わないでください。
オフホワイトの羊毛の波を掻《か》き分けて、平原組のうちの二人が近づいてくる。
「わたし一人だと知れたらまずいわ」
「何言ってんだよ、こんな団体ツアーじゃん」
「ああっそうね。ひとりじゃないって素敵《すてき》なことね……違うわもっとまずいわッ、小シマロンでは女の一人歩き以上に、夫以外の男性との旅は重く禁じられているのよっ」
|不倫《ふりん》だから。
「落ち着けフリンさん! 名は体を表すとはこのことかもしんないけどっ、とにかく落ち着け。羊でも数えてみよう」
一、二、三、ぐう。
「うわっ危ねえ! 寝ちゃうとこだった。おれはのび太かよ!?」
ところが、そんないい加減な助言でも効果があったのか、フリンは|幾分《いくぶん》冷静さを取り戻《もど》し、胸に手を当てて呼吸を整えた。
「……ありがとうクルーソー|大佐《たいさ》。少し楽になったわ。どうにかしてここを切り抜《ぬ》けないと。あなたとロビンソンさんを大シマロン本国に送り届けないことには、私の仕事は終わらないものね」
こういうとき、|捕虜《ほりょ》としてはどうするのがベストなのか。
機に乗じて逃走《とうそう》を試みても、平原組にとっ捕《つか》まるのが関の山だろう。組関係者はおれたちを客分として扱《あつか》ってくれるのか、はたまた敵対勢力の鉄砲玉《てっぽうだま》として、東京|湾《わん》に沈《しず》められるのか。
「話をつけてくるわ」
「いってらっしぇい、姐《あね》さん!」
とりあえず様子を窺っておこう。フリンが馬車からゆっくりと降りて、馬上の追っ手に歩み寄った。カーテンの隙間から覗き見るに、先方はガタイのいい男二人だ。マキシーンによく似た刈り込み髭《ひげ》と、薄《うす》いブルーの騎兵《きへい》服。愛馬と同じ茶色の髪型《かみがた》は……。
「アフロだー」
絵に描《か》いたようなアフロだった。写真に残したいほど見事なアフロだった。国産ではないほんまもんのアフロだった。
何事か抗議《こうぎ》していたフリン・ギルビットが、感情的に声を荒《あら》げた。
「お父様っ!」
お父様?
「……親子!? フリンとアフロが?」
おれの|驚《おどろ》きに、マッスル一号が目を合わさずに答える。
「ソウデース」
てことはおれと村田健は、家畜まで動員した大規模な親子|喧嘩《げんか》に巻き込まれているわけか。
「ですからっ、私一人で大シマロンに向かおうとしたわけではなく、ノーマン様もご一緒《いっしょ》だと申し上げているではありませんか! 最近とみに旦那様のご病状がすぐれねので、本国にいる腕《うで》の良い医師を訪ねて……」
「医者なら我等平原組にも、サラレギー陛下のお膝元にもおるでアフロ」
|一瞬《いっしゅん》、|嘘《うそ》だろと思いかけた。語尾《ごび》がアフロなんて出来過ぎだ。
「それに婿殿《むこどの》は三年も前から、ご病気を口実に本国参りさえ欠かしておられるであろー」
良かった、接尾語に関しては、おれの聞き|間違《まちが》いだったようだ。ほっと胸を撫《な》で下ろす。
「本当にノーマン殿がご存命なのか、疑われても仕方がないであろーが」
サラレギー様とやらの飼い犬(フリン談)マキシーンに掴《つか》まれた、なりきりノーマン・ギルビット作戦の真相は、まだ方々に広まってはいないようだ。敵を欺《あざむ》くにはまず味方からとはいうけれど、婿さんの不幸を報されない舅というのはどういうものだろう。義理の息子と一杯やろうかと思っても、婿が娘《むすめ》で娘が婿になっているのだ。二人同時に現れることは絶対にないという、コントの定番シチュエーションだ。
刈りポニによるとフリン・ギルビットは、夫に成り代わっていただけでなく、ウィンコットの毒とやらを切り札にして、宗主国以外と取り引きしたらしい。大昔にカロリアの地を治めていた、後の|魔族《まぞく》のウィンコット家の未裔《まつえい》だけが、毒に感染した|被害者《ひがいしゃ》を思うままに操《あやつ》ることができるのだとか。
その末裔とやらにされているのが、おれ。クルーソー大佐だ。おれみたいに百戦|錬磨《れんま》でもない弱者には、曲者《くせもの》たちのリーダーは務まらんってば。と、嘆《なげ》いてみても始まらない。
「ではお父様は、ノーマン様を疑ってらっしゃるのっ!?」
自らの置かれた境遇《きょうぐう》に泣けてきていたおれの耳に、激しい抗議が聞こえてきた。
「ノーマン様に統治能力がないと、民を率いるだけの資質がないとでも|仰《おっしゃ》るのですか!?」
「そうではない。ノーマン殿を疑っておるのではないであろーが。ただ、カロリアから預かった若者の中には|惰弱《だじゃく》な者も多く、一人前の兵士としては育たぬかもしれんと言っておるのだ。だが、民の姿は主によって定まるもの。ノーマン殿がご病気や性格のせいで、下々の生活を締《し》めることができぬのならば、身内でもある我等がいつでも手をお貸しすると以前より繰り返し申しておるであろー」
「せっかくのご提案ではありますけれど、カロリアにはカロリアのやり方がございます。病や事故が重なったとはいえ、ノーマン・ギルビット様には国を……シマロン領自治区を治めるだけの力は充分《じゅうぶん》残されています。余計なお心遣《こころづか》いは無用です!」
「では何故《なにゆえ》、婿殿は我等とお会いにならぬのであろーか!?」
「それは……」
あの、自信に溢《あふ》れた瞳《ひとみ》がふと揺《ゆ》らいで、フリン・ギルビットが言葉に詰《つ》まった。
それは、の後は|誰《だれ》より彼女が解《わか》っている。
ノーマン・ギルビットはもう、この世に存在しないのだ。
おれや村田みたいに本人に会ったことのない相手なら、夫に成り代わって急場を凌《しの》ぐことも可能だろう。信頼《しんらい》できる執事《しつじ》やメイドをうまく使えば、国王……今は領主扱いだが……主君としての務めも果たせる。
しかし、自分の父親を前にして、おや婿殿はどうしたあらトイレかしらまあおほほちょっと呼んで参りますわ(着替《きが》え)おお婿殿お待ちしておりましたぞところでうちの娘はどこだハァハァ娘さんなら部屋に忘れ物をしたとかでちょっと様子を見てきます(着替え)ゼーゼーお父様わたしじゃなかっただんなさまは少しご気分がすぐれないとかで……という入れ替わりコントを披露《ひろう》するわけにはいかないだろう。いっそ片側は婿、片側は嫁《よめ》のペインティングはどうだ。
想像するとかなり笑える。
「フリン、お前はカロリアの者であると同時に、平原組の娘でもあるであろー。お前が何のためにギルビットに嫁《とつ》いだのか、もう一度よく思いだせ。我等の力が必要なら……」
「渡《わた》しません!」
娘は再び顔を上げた。
「お父様とお兄様のお考えはお聞きしました。意味もよく……深く理解しております。カロリアはお渡しできません。この先ノーマン様の病状がおもわしくなくなっても、あなたがたの力はお借りしません!」
おれはぎょっとして小窓から離《はな》れ、元の場所に座ろうとした。マッスルニ号が肘《ひじ》を引っ張ってくれたので、彼のお膝に乗らずに済んだ。
使用|頻度《ひんど》の少ない|脳《のう》味噌《みそ》の中では、これまでの大河ドラマのタイトルから、よく似た人間関係を|検索《けんさく》中だ。なんだっけ、誰だっけ、蝮《まむし》と呼ばれた男・斎藤道三《さいとうどうさん》? あまりしっくりとはこないが、道三と娘の闘《たたか》いは続いている。
フリン・ギルビットの父親、平原組の首領らしきアフロは、小シマロン領カロリア自治区を手に入れるために、娘をギルビットに嫁がせたのだ。そして現在、ノーマンは統治者としての力を失いつつある。病と不運な事故で肉体的に弱っているからだ。機は熟した、今こそカロリアを我が平原組の勢力下に……しようと思ったら重大な計算違い発覚。
娘さんはもう、昔のままの可愛《かわい》い子供じゃなかったのです。
水戸黄門用語集では「『貴様、裏切ったな!』『ふふふ違うな、表返ったのさ』の法則」に該当《がいとう》する。
視線の先で何かがちらりと光った。
さっきまで彼女がいた向かいの席には、ご婦人用のクッションが並んでいる。膨らんだ布に挟《はき》まれて、銀の覆面《ふくめん》が冬の日射《ひざ》しに輝《かがや》いていた。
「ちょーっとだけシートベルトを外してくんねーかな、マッスル」
まるで呼ばれているみたいに、ギルビットの仮面に指が伸《の》びる。
待て待て待て、この場は様子を見るのが賢《かしこ》い選択《せんたく》だ。考えてもみろ、あの女はおれと村田を監禁《かんきん》して、魔族と敵対してるシマロンに連れて行こうとしてるんだぞ!? しかもあいつが通じているという大シマロンの兵士は、おれたちを|襲《おそ》った連中と同じ火器を装備していた。
コンラッドの声が耳に蘇《よみがえ》って、喉《のど》の奥で呼吸が止まる。
フリンはあの連中と組んでるんだ。いくらアフロの|謀略《ぼうりゃく》が卑怯《ひきょう》だからって、そんな女のために動く必要がどこにある? だいたい国や領土聞の争いなんだから、身内を道具として扱《あつか》うなんてザラだろう。アフロ一人が汚いわけでもない。こんな場面で腹を立てて、短気を起こすだけ無駄《むだ》だ。もっと冷静になれ。もっと冷静に……。
「畜生っ、おれが冷静だったことなんてあるか!?」
舌打ちしたいような気分で、おれは銀の覆面をひっ掴んだ。勢いよく頭を突《つ》っ込むと、窓|越《ご》しの日に照らされていたせいか、生地がほんのりと暖かい。それともこれがノーマン・ギルビットになる人間の心に求められる温度だろうか。
これが、フリンが三年間演じてきた顔だ。
ひとつだけ教えてくれ、フリン。
あんたは何のために表返ったんだ?
「話は聞かせてもらったぜ!」
|覚悟《かくご》を決めて馬車の|扉《とびら》を|蹴破《けやぶ》ると、ぎょっとしたアフロと娘が振《ふ》り返った。おれはマスクの下でニヤリと笑う。不敵なつもりが頼りない泣き笑いになってしまった。いいんだ、どうせ見えやしない、
「管理能力を疑われている様子ですが、わたくしことノーマン・ギルビットは、これこのとおり、すっかり元……うはっ」
元気良く一歩踏《ふ》み出したのだが、段差のことを忘れていた。左足は空を切り、つんのめる体勢で地面に落ちる。薄汚れた白の羊毛の海に、顔から突っ込んでしまった。
「ンモっ!?」「ンモっ?」「ンモっ!?」「ンモっ!?」
羊たちの大パニック。
「お、お見苦しいところを」
つるっとした後頭部を掻《か》きつつ立ち上がると、|家畜《かちく》の群れに腰《こし》まで埋《う》もれていた。この国の羊は地球よりもかなり大きい。
「クル……あなた」
|驚《おどろ》きと困惑《こんわく》の混ざった表情で、フリンが|身振《みぶ》りで|訴《うった》えていた。細い指を喉に持っていき、さかんに口をパクパクさせている。不慣れなおれが仮面の革紐《かわひも》をきつく縛《しば》りすぎて、呼吸が苦しくないか心配なようだ。
「任せろ。こう見えてもおれはキャッチャーだかんな。マスクは身体《からだ》の一部です」
米国版ウルトラマンを思わせる外見だったが、被《かぶ》ってみると意外と視界も広かった。口と鼻の部分にも|余裕《よゆう》があり、そう息苦しいこともない。
アフロは慌《あわ》てて馬を降り、娘の前へと進み出た。
「これは、ノーマン殿……久しくお会いできなかったために、ついご無礼なことを申しました。つまらぬ疑いがお耳に入られたとすれば、さぞやご気分を害されたことであろ……ございましようが。我が娘に向けたほんの戯《ざ》れ言《ごと》ゆえ、どうかご|容赦《ようしゃ》いただきたい」
「いやー、無理もないよ三年も会ってないんだもんね。というのもうちの奥さんが、あんまり実家に帰りたがらないからなんだけどさ」
急に畏《かしこ》まったさまからすると、平原組よりもカロリア領主の方がランクが上なのか。とはいえノーマン・ギルビットのキャラを知らないので、どう|喋《しゃべ》ったらいいのか見当もつかない。さすがに友人口調はまずかろうと、居丈高《いたけだか》な物言いに挑戦《ちょうせん》してみる。偉《えら》そうな人の一人称って何だろう。僕とかオレでは頼《たよ》りないような。かといって余とか妾《わらわ》も違うような。
「それにしても、国民が兵士に向いていないからって、おれ……うーん、まろ? そう、まろに統治能力がないとは失礼千万でおじゃる!」
父親の後ろでフリンが|呆《あき》れて首を振った。うまく演じられていないようだ。
「こう見えても吾輩《わがはい》……そうだ、吾輩かな! 病み上がりながら吾輩、全身|全霊《ぜんれい》をかけてカロリアを治め、民と国のために命を捧げておるぞよ、むはははは」
ちなみに猫《ねこ》ではないでおじゃる。
プラチナブロンドの美人妻は、おれの喉を指差して|溜息《ためいき》をついた。|綺麗《きれい》な女性のトホホな表情は、人生においてなかなか見られるものではない。しかしその不満げな様子からすると、やはりまだ舅《しゅうと》を騙《だま》せるレベルではないか。ああ、そうだ、話術ばかりでなく声にも問題があるのかもしれない。
想像しろ、渋谷ユーリ。お袋《ふくろ》がいまだに続刊を心待ちにしている、少女|漫画《まんが》の天才女優のごとく!
大病でご幼少のみぎりからのマスクマン生活、大人になって美人の嫁さんをもらったはいい渉、その女性は国を狙《ねら》う一族の娘。隣《とな》り合った大国には占領《せんりょう》されるし、今また戦争始まりそうだし。三年前には不運な事故に見舞われて、持って生まれた声まで失う始末…
あれ?
「しかしノーマン殿《どの》、いつのまに声を取り戻《もど》されたのであろーか?」
あれーっ!?
しまった。ノーマンがまともな声を失ったというパーソナルデータを、今の今まで忘れていた。まったくもう、亡《な》くなった人を生きてることになんかするから、こういうややこしい事態になるのだ。
「こーえーはー、えーと」
目の前の男はいよいよ怪《あわ》しみだした。
「もしや影《かげ》武者なのではあろーまいな。誠に婿《むこ》のノーマン殿か? 娘に愛を|誓《ちか》えるか?」
「そりゃもう亀《かめ》様に誓って、フリンさんが好きです!」
でもゾウさんはもっと好きです。
アフロ感激! の殺し文句のはずなのに、平原組の表情は|硬《かた》いままだ。想《おも》いのこもらない告白は、かえって疑いを強めただけだ。
それにしても、この場にヴォルフラムがいなくて助かった。今の発言を聞かれていたら、どんな言い訳も通用しなかったろう。
覆面内が急に蒸れてきて、首筋を嫌《いや》な|汗《あせ》が流れ始める。|ると|凶器《きょうき》で殴《なぐ》って逃《に》げたくなるのは、マスクマンとしての性《さが》だろうか。エモノはどこだ。
おれが場外乱闘用にパイプ|椅子《いす》を探して、周囲を見回した時だった。
「ノーマン・ギルビットざんの声を取り戻した|奇跡《きせき》の人は、この僕でーす!」
|騒《さわ》ぎに巻き込まれていなかった後続の馬車から、イメチェン済みの村田健が姿を現した。
明らかな人工|金髪《きんぱつ》と|中途《ちゅうと》|半端《はんぱ》に|脱色《だっしょく》された|眉《まゆ》、青すぎるカラーコソタクト。両手を|派手《はで》に広げたポーズのまま、軽やかにステップを降りてくる。BGMは口オーケストラで
「オリーブの首飾《くびかざ》り」だ。
「ちゃらららららーん……っとぁいてっ」
おれと同様、段差でこけた。羊の背中に謝った上で、地面に這いつくばって何か探している。
「眼鏡《めがね》メガネ……」
「いや、ムラケン、お前最初っからかけてねーし」
「こんな天然素材だったなんて。少し買い被っていたかしら」
フリンは幻滅《げんめつ》したように言った。彼女が期待を抱《いだ》くほど、村田はフェロモンを振りまいていただろうか。
「あれは|誰《だれ》ですかな、ノーマン殿」
アフロが尋《たず》ねるのも当然だろう。|両脇《りょうわき》にアマゾネスシートベルトを従えたムラケンは、どこから見ても充分《じゅうぶん》、怪しかった。
「わ、吾輩の新しい側近、ロビンソンくんです」
「ロビンでぇーす、よろしくぅー」
店名の入った名刺《めいし》でも差しだしそうな勢いで、上半身を折り曲げる。
村田……お前って本当は何者?
「お舅さんともなれば愛娘《まなむすめ》の嫁《とつ》いだ先の婿さんのことは寝《ね》てても気になることでしょう。ましてや三年も音信不通とくれば、サクラ、あんちゃんは悲しいよと思うのが人情。ある日いきなり会った婿さんの|雰囲気《ふんいき》が、ガラリと変わってたらこりゃあ大変だ。なになに? 出せなかったはずの声が元に戻っている? ご安心ください。それはこの僕、奇跡の治療師、東京マジックロビンソンが、アガリクスとプロポリスとスッポンエキスで前以上のゴージャスボイスに治して差し上げました! へい、レッドスネークカモーン!」
「イエスボース」
村田、やっぱりお前って本当は何歳!? いやそれよりも驚いたのは、アマゾネスシートベルトの二人組をいつの間にか手下にしていることだ。さすが東京マジックロビンソン! どのような秘技で? それともまさか男の武器で!?
<img height=600 src="img/051.jpg">
胸板も立派なボディービル美女が、村田に|小瓶《こびん》を捧げ渡《わた》す。どことなく栃木《とちぎ》方言だ。
「はいこれ。これ万能薬ね。風邪《かぜ》も治すし育毛もする。おまけに|袋小路《ふくろこうじ》に追い詰められたとき、もの凄い威力を発揮するのね。これこんな感じ」
ロビンソンが容器を地面に叩《たた》きつけると、|轟然《ごうぜん》とした|爆音《ばくおん》とともに、黄色い|煙《けむり》が|濛々《もうもう》と立ちのぼった。
イエロースモークカモーン!
「ぼやっとしてんなよ、逃げるぞクルーソー大佐!」
「えっ? 何どこよ村田っ?」
「ンモっ!」
小心者の羊の群れが、蹄《ひづめ》を鳴らして|一斉《いっせい》に駆《か》けだした。百%ウールの横波が、何頭も体当たりをかましてくる。
平原組の連中は盛《さか》んに咳《せ》き込んでいる。|最後尾《さいこうび》にいたフリンの戦力五、六人が、煙に|紛《まぎ》れて駆け寄ってきた。マッスル一号二号が敵方の馬を胸で受け止める。
「オクガタサマー、ニゲテー」
忠実な筋肉だ。
「早く、羊毛にしがみつくの!」
「はあ!? 羊に!?」
「なによ、羊くらい乗りこなせないで、どうやって軍人になったっていうのっ」
この世界では彼等は乗り物らしい。
遠くで誰かが叫《さけ》ぶ声がした。
「待てややーぁ羊|泥棒《どろぼう》ーぉ!」
申し訳ないが、待てなかった。