「ちょっと待った」
銀の混じった栗色《くりいろ》の短い髪《かみ》、口髭《くちひげ》も似合いそうな上品|紳士《しんし》ファンファンことステファン・ファンバレンは、彼らしからぬ|驚《おどろ》きの声をあげた。
「サイズモアさんとは、あの、海《うみ》坊主《ぼうず》恐《おそ》るべしとまで呼ばれた海の猛者《もさ》ですか!?」
「些《いささ》かこそばゆーい気もするが、|眞魔《しんま》国の海軍でサイズモアといえば自分と弟だけですな」
海坊主というのは頭髪の形状も指しているのだが、この際それは内緒《ないしょ》である。大きな体に似合わぬ照れ屋なサイズモアは、掌で頭頂部を軽く擦《こす》った。悲しいことに、もちろん地肌《じはだ》の手触《てざわ》りだ。
男と男の友情は、意外なきっかけで生まれるものだ。
|全《すべ》ての海を股《また》にかける国際的商人とはいえ、|所詮《しょせん》は旧敵国に|籍《せき》を置く人間、迂闊《うかつ》に信用してはならない……といった先程までの|緊張感《きんちょうかん》が嘘のようだ。
「ではあなたは我々一族の恩人ということになる。先の大戦で輸送船団が公海を通過したときに、シマロン軍艦《ぐんかん》に誤って|撃沈《げきちん》されたのです。民間人に多くの|犠牲者《ぎせいしゃ》をだした事故だが、私の祖母はあなたの艦に助けられたのですよ。当のシマロン艦は救助の義務を果たさず遁走《とんそう》してしまったのですが……まったくひどい話です。それ以降、祖母の名は『不沈《ふちん》のファンファン』として広まり、我々ファンバレン一族は厳しい海運鏡争を勝ち抜《ぬ》けたのです。祖母はファンシル・ファンバレンといいます。ジェファーソン・ファンバレンの妻でした」
どこの国にもそういう伝説はあるものだ。そして、ファンバレン家はどこまで遡《さかのぼ》ってもファンファンなのだろう。
サイズモアは、遠い記憶を探るような目をした。
「おお、あのときのご婦人が。これは|奇遇《きぐう》だ、世の中というのは|狭《せま》いものですなあ」
「任務を終えられたら是非《ぜひ》とも我《わ》が館《やかた》にお立ち寄りください。きっと祖母も喜ぶでしょう」
「ファンシル殿《どの》もご健勝で? それは何よりだ」
「すっかり|干涸《ひから》びた老女になってしまったと日々|嘆《なげ》いておりますが。何度も聞かされた話からすると、サイズモアさんはまったくお変わりないご様子だ。髪型まで当時と同じにされているのですね。海の男のこだわりでしょうか」
「む……」
男と男の友情は、意外なきっかけで崩壊《ほうかい》するものである。
四年に一度|開催《かいさい》されるシマロン領の祭典、知・速・技・総合競技、勝ち抜き! 天下一武闘会(略してテンカブ)の決勝戦の最中に、|闘技《とうぎ》場に|隣接《りんせつ》された大シマロンの|神殿《しんでん》から、こっそり「箱」を盗《ぬす》み出してしまおう! という大胆《だいたん》不敵《ふてき》、ある意味|無謀《むぼう》な作戦は、世代を超《こ》えた世間話を交えつつ続いていた。
眞魔国の先の女王陛下で、現在は愛の凄腕《すごうで》狩人《かりうど》であるフォンシュピッツヴェーグ|卿《きょう》ツェツィーリエ様と、カロリアの委任統治者、故ノーマン・ギルビットの妻フリンは|貴賓《きひん》席に残してきた。従って今はサイズモア、ファンファン、ダカスコス、無口なシュバリエを新たに加え男四人の気楽な道中だ。日頃《ひごろ》より積もりに積もった|女房《にょうぼう》子供への|愚痴《ぐち》、ひいては世の女性達に対する鬱憤《うっぷん》など、男同士で言いたい放題だ。
言いたい放題なのに……。
「ああ、ツェツィーリエ。あの方は素晴《すば》らしいですね、愛の女神《めがみ》のようだ」
なのに何故《なぜ》、ファンファンはツェリ様を賛美しているのだろう。
しかも相手は、女神様どころか、魔族である。
肉体的に比較的《ひかくてき》若いシュバリエとダカスコスは、飲物保冷箱を装《よそお》って緑色の布で覆《おお》った物を運んでいる。これを例の「箱」とすり替《か》えようというのだ。一方は最凶《さいきょう》最悪の最終兵器「風の終わり」で、一方は船旅の途中、|素人《しろうと》の手で作られた日曜大工作品である。
考えれば考えるほど恐《おそ》ろしい作戦だ。
小心者のダカスコスは|緊張《きんちょう》で頭皮が乾燥《かんそう》してきたが、他《ほか》の三人は平気な顔をしている。特に人間のファンファンは、危険に慣れた軍人でさえなく、何不自由なく生きてきた豪商《ごうしょう》であるはずなのに、緊張の欠片《かけら》も見られない。口を開けば麗《うるわ》しの恋人《こいびと》のことばかりだ。
賞賛すべきはこの役に立つ男を虜《とりこ》にしている、愛の狩人ツェツィーリエの凄腕ぶりだろう。
「これまでの人生には、あのように美しく|純粋《じゅんすい》で、英知と慈愛《じあい》に満ちあふれた方は存在しなかった。生まれて初めて真実の愛を知った想《おも》いです。巡《めぐ》り会うのが少々|遅《おく》れはしましたが、私は運のいい男ですね」
ツェリ様はもう、運命の相手が四人目だ。
「魔族のご婦人方はそれは美しい方が多いと聞きましたが、私は彼女は|誰《だれ》よりも美しいと思うのです。しかし、そう申し上げているにもかかわらず、あの方はご自分の他にも美しい方がいると|仰《おっしゃ》る……あの|薔薇《ばら》の蕾《つぱみ》のような唇《くちびる》から、謙遜《けんそん》の言葉など聞かされると、|我慢《がまん》ならず塞《ふさ》いでしまいます。なんという心根の清らかなひとだろう。どこまでも|謙虚《けんきょ》で驕《おご》りを知らぬ永遠の乙女《おとめ》です」
ファンファン節が大|炸裂《さくれつ》だ。サイズモアの右半身に、音を立てて蕁麻疹《じんましん》が広がった。よくよく聞くととても謙虚とは思えないところが、さすがに自由|恋愛《れんあい》党党首である。
「お国であの方と並び称《しょう》されるご婦人方のお名前もお聞きしましたよ。なんでもお一人は畏怖《いふ》と尊敬をこめて、栄誉《えいよ》ある称号で呼ばれてらっしゃるとか。赤い悪魔や、眞魔国三大悪夢……毒女アニシナとは、それだけ魅了《みりょう》される男達が多いのでしょうな」
ダカスコスは溢《あふ》れる|涙《なみだ》を堪《こら》えきれなくなった。
違《ちが》う違う。毒女、読んで字の如しだ。
「文学的才能も自立心も素晴らしいそうですね。そういうご婦人と結ばれ、娶《めと》る男は本当に果報者だ」
フォンカーベルニコフ卿アニシナ嬢《じょう》と結ばれ……というよりむしろ縛《しば》られている状態のグウェンダル閣下が、どことなく幸《さち》薄《うす》そうに見えるのは気のせいだろうか。赤い悪魔の悪行を知らぬサイズモアは、そうですかな、などとボケている。
「もうお一方は……残念ながら早くに亡《な》くなられたそうですが……。ギュンターという方が繰《く》り上がりで三大美形になられたと聞きましたよ。どんな女性ですか? まあたとえどのような美女であろうとも、私の春風、黄金の|妖精《ようせい》とは較《くら》べるべくもありませんが。全身の毛を剃《そ》る寺院に修行に向かったり、覆面《ふくめん》で外出したりと奇行《きこう》も多い方のようですねえ」
鳴呼《ああ》ギュンター閣下、海外でまでネタにされています。ダカスコスは溢れる涙を止めることができなかった。神殿内の埃《ほこり》にやられたのか、今度は鼻水まで流れてきた。
「その亡くなられた方は、ツェツィーリエのお子さんと懇意《こんい》だったようですね」
子持ちだという事実まで正直に打ち明けているのかと、魔族二人は密《ひそ》かに感心した。それでもこうしてシマロン有数の豪商を虜にしているのだから、やはり超《ちょう》凄腕狩人だ。
前王の|息子《むすこ》と眞魔国三大美女の関係など、ダカスコスは耳にしたこともない話だったので、口を挟《はさ》まないことに決めた。だが年長で軍人としての地位もそこそこのサイズモアは、元王子|殿下《でんか》達とも多少は面識がある。その内の一人、|金髪《きんぱつ》の三男|坊《ぼう》とは、ほんの数日前まで行動を共にしていたのだ。三人の内の誰かがフォンウィンコット卿スザナ・ジュリアと親しかったとは終《つい》ぞ聞いたことがなかった。
「いや、スザナ・ジュリア殿はフォングランツ家のアーダルベルト閣下と婚約《こんやく》されていたと|記憶《きおく》しておるのだが……一体誰と、そのような|噂《うわさ》が」
「噂というか、こちらが事実かもしれませんね。次男のコンラート殿とスザナ・ジュリアさんは、あのまま戦《いくさ》が明ければいずれは結ばれていたろうと、母親であるツェリ様が言うのですから」
「なに!? ウェラー卿コンラート閣下とスザナ・ジュリア殿が!?」
戦前戦中の武人としての自信に溢れたウェラー卿と、ここ数年の|穏《おだ》やかで人好きのする彼。両方並べて想像してみる。どちらも|嫉妬《しっと》するほどもてそうだったが、他人の恋人を|奪《うば》いそうな|雰囲気《ふんいき》ではない。
「……あのコンラート閣下とスザナ・ジュリア殿が……うーむ、人は見かけによらぬものですなあ」
「国内では広く知られていなかったのですか? 私などそれを聞いて少々興奮したものですよ。久々に大物|婚姻《こんいん》の予感とでもいいますか」
「はあ」
はて、何故そんな異国の醜聞《しゅうぶん》に夢中になれるのか。サイズモアにはさっぱり理解できなかった。他人の恋愛模様を想像して興奮しているのだとしたら、非常に破廉恥《はれんち》でけしからん話ではある。
「名前を聞いてすぐにぴんときましたよ。ご存知でしょう、コンラート殿の父親の名前を。あのダンヒーリー・ウェラーです」
「はあ、ルッテンベルクの初代本領主ですなあ」
「ああお国での地位はそうなのでしょうが……我々、土地の者からしますと、ダンヒーリー・ウェラーは伝説の男なのです」
「はあ、さぞやご婦人方に慕《した》われたのでしょうなあ」
大きな蕪《かぶ》でも引っこ抜いたのだろうか。愛といえば師弟《してい》愛、男女の恋より男の友情、世界の海は俺の海的な人生を送ってきたサイズモアにとって、色っぽい伝説など正直どうでもよかった。ファンバレンは若者でも諭《さと》すような目を、はるかに|年嵩《としかさ》の魔族に向けた。
「今度は色恋の話ではありません。グレン・ゴードン・ウェラーの息子ダンヒーリー・ウェラーは、大陸の歴史で名高い三人の王の|末裔《まつえい》として最後に名を残した人物です。彼が腕《うで》に二本の|刺青《いれずみ》を彫《ほ》られ、シマロンを追放された後、公《おおやけ》にはその血は途絶《とだ》えたとされているのですよ。もちろん海の向こうで子を成したという風の報《しら》せや、出自を隠《かく》して一度は大陸に戻《もど》ったなどという、不確かな噂は流れていましたがね。いずれにせよ、土地の者には確かめようもないことです。ダンヒーリー・ウェラーを恐れるシマロン王室は彼の動向を把握《はあく》していたでしょうけれどもね」
「ウェラー卿のお父上が王の血族ですと!? 果たしてツェリ様はそのような方とご存知だったのであろうか」
「いえ、王といっても些《いささ》か|特殊《とくしゅ》な立場なのですが……ダンヒーリー・ウェラーがこの呼び名しか名乗らなかった場合、お気づきにはならなかったやもしれません。彼等は名を変え、囚《とら》われ人として生きることを強《し》いられてきた。ウェラーは元の姓《せい》の一部でしかない。しかしその伝説の人物が魔族との間に息子をもうけ、更《さら》に彼《か》の人がスザナ・ジュリア殿《どの》、つまりウィンコットの末裔と結ばれるとなれば……」
「……なれば?」
サイズモアは生唾《なまつば》を飲み込んだ。きっと恐ろしいことが起こるに違いない。海が赤く染まるとか、みるみるうちに海水が|沸騰《ふっとう》するとか。あくまでも海のことしか考えられない男だ。
「国が揺《ゆ》らぎます」
「え、海は?」
死にますか。
ステファン・ファンバレンは取引相手に効果絶大の、不沈《ふちん》のファンファン|笑顔《えがお》でこともなげに答えてくれた。
「海はいつも揺れているじゃないですか」
その時、階下と闘技《とうぎ》場から凄《すさ》まじい|歓声《かんせい》が轟《とどろ》いてきて、彼等の会話を遮《さえぎ》った。まさか当の本人であるウェラー|卿《きょう》コンラートが、三人目の戦士として登場しているとは知る由《よし》もない。更に彼が忠誠を|誓《ちか》った新しい主《あるじ》と対峙《たいじ》し、その上、ちょっと待ったまでかけられているとはつゆ知らなかった。
「ウィンコット家は古《いにしえ》の昔に大陸|南端《なんたん》を治めていました。創主達との闘《たたか》いが表面化するまでは、民《たみ》にもよく好かれ尊ばれた治世者だったと、どの書物を見ても記載《きさい》されています。そのウィンコットの末裔と、三人の王の血を最後に伝える者ですよ。二人の間にお子が生まれれば、地下で燻《くすぶ》り続ける反シマロン勢力にとっては、これ以上は望むべくもないような、絶好の|反撃《はんげき》の旗頭《はたがしら》となる。ですから……私ももしやと想像を巡らせて、少しばかり興奮してしまったのですよ。どうです、すごい大物でしょう」
ウェラー卿コンラート閣下とフォンウィンコット卿スザナ・ジュリア殿が|結婚《けっこん》して、生まれた子供が反シマロン勢力の旗頭となるだと?
考えることといえば本日は時化《しけ》か凪《なぎ》かばかりの海の男は、|途中《とちゅう》でついていけなくなってしまった。沈黙《ちんもく》を同意と判断したのか、ファンファンは上機嫌《じょうきげん》で話を続ける。
「しかも大陸|随一《ずいいち》の伊達男《だておとこ》と謳《うた》われたグレン・ゴードン・ウェラーの孫《まご》と、|眞魔《しんま》国三大美女のお一人というご夫婦であれば、さぞや見目も麗《うるわ》しく、あらゆる面で秀《ひい》でたお子を授《さず》かったことでしょうに」
「あのー……」
箱の後ろ部分を持っていたダカスコスが、|遠慮《えんりょ》がちに口を開いた。
「それは眞魔国三大美女、ではなくて、眞魔国三大魔女の|間違《まちが》いではないでしょうか」
愛の虜《とりこ》は聞いちゃいない。話題はもう、次の美人へとうつっている。
「しかし、新しい陛下が就任されて、皆《みな》の美的観念が根底から覆《くつがえ》されたとか。そうまで聞くと一目お会いしたいものです」
「はあ、|恐《おそ》らく今まさに下の闘技場で闘ってらっしゃる最中かと」
「何ですって? それはまた勇ましき女王でいらっしゃる。まあ私の恋《こい》した鈴《すず》の声持つ黄金の小鳥には、とても及《およ》ぶべくも……」
サイズモアは右半身を血が出るほど掻《か》きむしりたくなり、ダカスコスはいつか|女房《にょうぼう》をおだてるのに使おうと、心の中の美辞《びじ》麗句《れいく》集に書き留めた。「お前って鈴虫《すずむし》で黄金虫《こがねむし》だな」……繁殖《はんしょく》期には要注意だ。
|狭《せま》い階段を二度登り、関係者以外立ち入り禁止の最上階へと辿《たど》り着いた。ここまで来るまでに三人の見張りに酒を渡《わた》し、四人の兵士に金を|握《にぎ》らせた。男気と忠義を見せた残りの二人には、申し訳ないが痛い目に遭《あ》ってもらった。
「段々と倉庫のようになってきましたが、こんな場所に本当にあの箱が?」
「まさか。今までの警備が厳重だったといえますか。手荒《てあら》なことをお願いするのは、ここから先の区画ですよ」
サイズモアはカビくさい空気に鼻をひくつかせた。
「しかしもうこの上の階はないような気が……」
「もちろんです。だから、ほら」
ファンファンは角で足を止め、突《つ》き当たりの小さな|扉《とびら》を俗《ぞく》っぽく親指で差した。民家の玄関《げんかん》のようなありきたりな通用口に、五人もの男が張りついている。
あからさまだ。
「あそこから下るのですよ。宝物庫は地下です。実に様々な珍品《ちんぴん》が拝めますよ、それはもう、この世のありとあらゆる珍品が」
最上階から地下まで階段で行くのか、という恨《うら》みがましい溜《た》め息はなしだ。
金盥《かなダライ》の落ちてくる音がした。
「渋谷!」
「ユーリ!」
「陛下!」
フルネームでのご指名ありがとう。
ぎょっとして自軍のベンチを顧《かえり》みると、|天井《てんじょう》から下りてきた鉄格子《てつごうし》がグラウンドとダグアウトを完全に隔《ヘだ》てていた。味方の三人が太い格子にしがみついて|叫《さけ》んでいる。
「なんでうちのチームだけ檻《おり》に閉じこめられてんだよ!?」
|素敵《すてき》な髪型《かみがた》の|審判《しんぱん》は、|両腕《りょううで》を腰《こし》に当てて|威厳《いげん》を保とうとしている。
「乱入されては困るからな」
「不公平だろ、だったらあっちも……」
敵側から突っ走ってくる者はいなかった。考えてみれば大シマロン側のベンチには、まさかの敗北に茫然《ぼうぜん》自失《じしつ》のシマロン兵が一人いるだけだ。逆に自陣の仲間達はというと、頑丈《がんじょう》な格子を揺さぶって、声の限りに叫んでいる。
「陛下、バカなこと考えずに戻ってきてください」
「そうだぞユーリ、ばかなことは考えるな1」
「渋谷、|馬鹿《ばか》な考え休むに似たりっていうじゃないか」
「……みんな失礼だぞ、まるでおれが本当のバカみたいじゃ……うわはぁっ、うわっ」
いきなり足の下の地面が揺れて、極々《ごくごく》狭い円形の部分がせり上がり始めた。ちょうど相撲《すもう》の土俵くらいの広さだろうか。すぐ隣《となり》にいたコンラッドが外れているのに、数メートルは離《はな》れていたアーダルベルトは同じ|舞台《ぶたい》の上だ。二人組のうち髭《ひげ》の剃《そ》り跡《あと》の濃《こ》いほうの審判が、おれたちと|一緒《いっしょ》に乗っている。
恐らく彼が決勝戦を裁く立行司《たてぎょうじ》なのだろう。
|僅《わず》か一歩で乗り損ねたコンラッドが、飛び移ろうと舞台に手を伸《の》ばす。指が届くというところで、地上に残った審判が彼の制服を引っ張った。
「離せ!」
「そうはいかんよ。あの戦士の主張は理に適《かな》っている。大シマロンの二人目と力ロリアの三人目で雌雄《しゆう》を決するのが正しいだろう。規則に則《のっと》って決勝を進行させてこそ、我々、国際特急審判の評価も高まる」
「だが、あいつと陛下をやらせたら、傷付くどころか……」
無表情な公式審判員を振《ふ》り払《はら》い、コンラッドは早くも頭上を越《こ》える高さのおれを見上げた。
「……殺されてしまう……ユーリ、手を」
「どちらかが|戦闘《せんとう》不能になるまで闘うのが、この決勝戦の規則だ。結果として戦士のいずれかが命を落とそうとも、実行委員会及び審判部としては何ら問題にはしない」
非常に寝覚《ねざ》めの悪そうな発言だ。
確かにアメフトマッチョは強敵だ。だが一つだけ、コンラッドと対戦するより気楽な点がある。何の遠慮もなく必殺|技《わざ》が繰《く》り出せるのだ。
「よーしこい! この黄金の左脚《ひだりあし》にすべてを賭《か》ける」
「勇ましいな、勝つ気でいるのか」
「勝てるかどうかは別にしても、一矢《いっし》報《むく》いるくらいはできるはずだ。|金髪《きんぱつ》マッチョのあんたにだって、全男性共通の弱点があるもんな!」
「ああ、そういやぁ」
アーダルベルトは股間《こかん》に手をやって、男らしく|拳《こぶし》で叩《たた》いてみせた。
いい音がした。
「戦闘時は防護具を装着する主義だ」
「ナニー!?」
話が違う。
檻の向こうで村田が叫んでいる。これまでの彼みたいに冷静でものどかでもなく、おれの不安はいっそう掻き立てられた。
「渋谷ーっ! もういい、いいから早く|棄権《きけん》しろっ、あまりにリスクが高すぎるっ」
賢《かしこ》い友人のもっともなアドバイスの間にも、舞台は止まらず|上昇《じょうしょう》してゆく。
格ゲーでは女の子キャラ使い、剣道《けんどう》経験は体育の授業で数時間のおれが、目の前の戦闘筋肉と|互角《ごかく》に戦えるわけがない。ビッグ・ショー対《VS》フナキみたいに、リングに叩きつけられて終わりだろう。それどころか一歩でも足を踏《ふ》み外せば、たちまち転落してしまう。横目で高さを確《かく》認《にん》すると、三階くらいはゆうにある。
アーダルベルトの凶刃《きょうじん》に|倒《たお》れるのが先か、落下してゲームオーバーになるのが先か。
「主審《しゅしん》、ちょーっとお話が」
「何か」
「ひ……」
非常事態なので棄権させていただきたい。この一言が、舌のすぐ近くまで上がってきている。アーダルベルトがおいおいという顔をした。
「どうしたよカロリア代表。つまらねぇ結果で終わらすつもりじゃねーだろうな、ええ? こっちはお前さんを男と見込んで、正々堂々と勝負しようって提案してるんだぜ。女みたいに簡単に怖《お》じ気《け》づいて、大人をがっかりさせるもんじゃないよ」
少しだけ頭に血が上り、危《あや》うく言い返しそうになる。待て待て、のせられるな。おれに冷静さを失わせて、ボコボコにしようって作戦だ。寧《むし》ろああいう発言をする奴《やつ》こそ、いつかアニシナさんに叩きのめされるべきなのだ。
確かにおれはカロリア代表だが、もうノーマン・ギルビットとしての義務は果たしたろう。民衆の皆《みな》さんも|納得《なっとく》して温かく迎《むか》えてくれるに違いない。港で見送ってくれたカロリアの子供達にも、頑張《がんば》りましたと報告できる。惜《お》しくも決勝戦で破れはしたが、全力を尽《つ》くしたと胸を張って………本当に言えるんだろうか?
「心配するなユーリ、この件に関してはお前をへなちょこと呼ばないことにする!」
「渋谷、彼氏もこう言ってるぞー。|誰《だれ》もきみを責めないと約束するし、帰ってきたらカツ丼《どん》とってやる。だから早く棄権してくれ。きみはもう|充分《じゅうぶん》に闘《たたか》った!」
そう、おれはもう充分に……。
充分に、闘ったかな?
湧《わ》き上がってきた疑問には、自分で答えてやるしかない。充分どころかまったく戦っていない。このままでは明らかに不戦敗だ。苦手な漢文調に並べ替《か》えると「戦わずして破れる」だ。
「主審、ひ……」
ミスター剃り跡青々ジャッジは、続く言葉を待っている。簡単だ、こう言えばいい。非常事態なので、棄権させて、いただき、たい。だが口から出てきたのは、どこかで聞いたようなモーニングチェックだった。
「……ヒゲ剃り、何を使ってます?」
「は? |普通《ふつう》の、軍支給の物だが」
おれは土俵についていた|膝《ひざ》を|徐々《じょじょ》に離し、高所にゆっくりと立ち上がった。頬《ほお》に当たる雪混じりの風が、さっきより数度は冷たかった。
アーダルベルトが唇《くちびる》を皮肉っぽく歪《ゆが》める。
「気が変わったか」
「気が変わったわけじゃない。単に|覚悟《かくご》が決まっただけだ」
ここで全力を尽くさなかったら、胸を張って子供達の元へ帰れないだろう。
「男には負けると判《わか》っていても、闘わなければならないときがあるんだ! あーえーともちろん、女子にもあります」
フォンカーベルニコフ|卿《きょう》の|恐怖《きょうふ》教育の成果は、こんなところでも発揮されている。
「それにまだ負けると決まったわけじゃないしなッ。土俵の上では何が起こっても不思議じゃない。柔《じゅう》よく剛《ごう》を制すっていうだろう!」
「渋谷それは相撲じゃなくて柔道だよーっ」
しまった、早くも襤褸《ぼろ》が出まくっている。
カロリア側とコンラッドの気持ちをよそに、会場中は更《さら》なる熱気に包まれた。落ちてくる雪が観客に届く前に、空中で溶《と》けて消えるほどだ。
フォングランツ・アーダルベルトは、肩《かた》に担《かつ》いでいた重量級の剣《けん》を下ろした。四方八方で燃え盛る|松明《たいまつ》が、太く長い鋼《はがね》を|凶悪《きょうあく》に光らせる。おれは|利《き》き腕《うで》に持った金属バットを、景気づけにぶんぶん回してみた。バントくらいはできそうな気がしてきた。何をしているのか声を弾《はず》ませながら、コンラッドが地上で|叫《さけ》んでいる。
「陛下ッ、どうか無謀《むぼう》なことはおやめください。剣では奴に太刀打《たちう》ちできない」
「あんたの口からだけは聞きたくなかったよ! ほんとに洗脳されてるんじゃないの」
観衆が同時に息を呑《の》んだ。|一瞬《いっしゅん》、場内が静まり返る。アーダルベルトが目にも留まらぬ速さで踏み込んで、巨大《きょだい》な剣の切っ先をおれに突きつけたのだ。咄嗟《とっさ》に身体《からだ》を左に倒す。右頬に鋭《するど》い風が当たり、刃《やいば》がそこを過ぎたのだと知った。
バランスを崩《くず》して片膝をつく。反転させ斜《なな》めに斬《き》り上げようとする剣の動きを、両手で握《にぎ》った|棍棒《こんぼう》で止めた。
|奇跡《きせき》だ。
たちまち十本の指が痺《しび》れる。|衝撃《しょうげき》は手首から肘《ひじ》に伝わり、それだけで肩の関節がずれそうだった。耳障《みみざわ》りな金属音と共に、微《かす》かな焦《こ》げ臭《くさ》さが鼻をつく。
「生き延びたな」
「お陰《かげ》さんでね」
すぐ近く、ほんの三十センチくらいの場所に、アーダルベルトの青い|瞳《ひとみ》があった。眼《め》だけは笑っていないナイジェル・ワイズ・マキシーンと違《ちが》って、彼は|瞳孔《どうこう》の奥まで笑っている。新巻鮭《あらまきざけ》でおれを叩きのめすのを、心の底から楽しんでいるのだ。
「このままお前さんが帰らなかったら、国の連中はどんな顔をすると思う? 人間の地で若き王を殺されちゃあ、魔族としても面目がたたないよなあ?」
背筋を冷たい|汗《あせ》が流れた。求められていることを痛感した。多分フォングランツが求めてるのは、おれの死だ。おれの死による眞魔《しんま》国の混乱だ。そのためになら旧敵国シマロンにも荷担《かたん》する。人間の支配者にも従う。
「……そんな望みは叶《かな》えてやれないね!」
渾身《こんしん》の力をこめて剣先を跳《は》ね返した。ワンアクションで二歩半後退し、踵《かかと》の後ろに地面がないのに気付く。危ないところだった、空中|舞台《ぶたい》だというのを忘れてはならない。
「おっと、自滅《じめつ》してくれるなよ。お|互《たが》い、つまらん結果にゃしたかねぇだろ」
「そんなこと言って、実は落ちてくれるの待ちなんじゃないのか? 誰だって自分の手を汚《よご》すのは嫌《いや》だもんな!」
味方の誰かがキれた声をあげている。敵を挑発《ちょうはつ》してどうするんだと聞こえた。
放っといてくれ、実行できる数少ない作戦の一つなんだ。打者の気に障ることを話しかけてみたり、夕食の献立《こんだて》を羅列《られつ》して集中力を|途切《とぎ》れさせてみたり。ただし、草野球選手以外に通用するかどうかは、試《ため》していないから不明だが。
「ところで、昨日の夕食何だった?」
「……肉か」
質問と同時に突っ込んだ。積極的に|攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けてみたのだ。当然のごとく棍棒の一撃は跳《は》ね返され、そのままラリーに突入《とつにゅう》する。
「ちくしょっ、おれたちよりっ、いいもん食って、やがんなっ」
「暫定《ざんてい》とはいえ王のくせに、こんな土地まで|遠征《えんせい》してきやがるからだろッ。お城の暖かい部屋にいれば、美味《うま》い肉も上等な酒も食い放題だろうにッ」
村田が焦《じ》れて叫んでいる。語尾《ごび》が上擦《うわず》って|掠《かす》れていた。
「あーっ渋谷、右、右。そうじゃない左ーっ!」
悪いけどその指示は実行不可能。だったらいっそお前が操縦しろ。
視界の端《はし》に行司の姿が入った。危険な高所にもかかわらず、男は何度も跳《と》びすさって選手から逃《のが》れている。さすがに国際特急|審判員《しんぱんいん》、髭剃《ひげそ》り跡《あと》同様に見事なものだ。だが、一瞬でも余分なものを目で追ってしまったために、敵の薙《な》ぎ払《はら》う剣先を見失う。
ちょうど胸の高さを一文字に、銀に|輝《かがや》く|巨大《きょだい》な刃が通過した。
すぐ|傍《そば》に居るわけでもないのに、四人の小さな悲鳴が聞こえた気がした。
「……うお、っとォ」
斬れてなーい。
新しく始まった|振動《しんどう》のお陰で、両足のバランスを崩していたのだ。尻餅《しりもち》をついたおれの鼻先を、銀の|軌道《きどう》が過ぎていった。脹《ふく》ら脛《はざ》に力を入れワンステップで立ち上がるが、今度の揺《ゆ》れはすぐには止《や》まなかった。
おれを取り囲む|環境《かんきょう》は四面どころか七十二面|楚歌《そか》くらいで、どの方向も拳振《こぶしふ》り上げ野次る客の茶色の脳天ばかりだった。だから最初は気付かなかったのだが、振動の続く中で見回すと、周囲がゆっくりと移動していた。
「動いてる……客が回ってる?」
回転しているのはスタンドの観客ではなく、こちらだった。
おれたちを乗せた空中舞台は、秒針の速さで動いていた。なんということでしょう、高いばかりで危なかった土俵は、回り舞台へと姿を変えていたのです! 空間の匠《たくみ》の仕業《しわざ》だろうか。
「おいおいおいおい、回ってる、回ってるよ! |中坊《ちゅうぼう》の頃《ころ》にこういうベッドを夢みてたけど、野郎二人で乗ることになるとは思わなかったよ……」
いくら最終戦だからって、随分《ずいぶん》悪趣味《あくしゅみ》な演出だ。あらゆる角度から見られて客は楽しいだろうが、乗ってるほうは高くて|狭《せま》くて目が回る。幸いなことにアーダルベルトも膝をつき、|眉《まゆ》を顰《ひそ》めて|黙《だま》り込んでいる。視線が合うと小さく舌打ちをして、武器を杖《つえ》がわりに立ち上がった。
どうやら足元がふらつくようだ。
「どうした、顔色が悪いぞ」
「……そっちもだろうが」
ところがどっこい、おれは回転に強い。中学野球部員時代初めの二年間は、毎日のようにデコパットを強《し》いられていたのだ。立てたバットのグリッブエンドを額に当てて、屈《かが》んだまま周りを十周する。直後には前方に歩こうとしても、思うようには動けない。今でも、あれのどこがどのように訓練だったのかは判らない。もしかして|先輩《せんぱい》連中に遊ばれていたのか?
「デコバット後にフリースロー決められたのは、後にも先にもおれだけだったんだぜ」
この場の|誰《だれ》にも理解できない|自慢《じまん》だ。
おれは金属バットで足を払い、本日初めて自分の手で敵を転ばせた。|金髪《きんぱつ》美形筋肉戦士が尻餅をつき、起きあがろうと両手を地面につく。そこに踏《ふ》み込んで武器を振り下ろせば、勝負は一瞬でつくはずだ。
ただ二歩半軽くスキップして、敵の脳天目がけて棍棒を振るえばいい。それで終わりだ。それでおれの勝ちだ! |脳《のう》味噌《みそ》の少しくらい飛ぴ散るかもしれないが、そんなのは服を着替えればOKだ。棍棒ってのはそういう武器だ。あまり融通《ゆうづう》の利く道具ではない。
ヴォルフラムの忠告に従って、剣を選んでおくべきだった。刃を突きつけるだけでギブアップの言葉を引き出せたのに。
瞬間的にそこまで考えたが、バットを振りかぶった姿勢で敵の正面に立つ。これを下ろせば全《すべ》てが終わる。いや、脳天かち割らなくとも、寸前で止めるだけで勝利と呼ばれるだろう。寸止めで……。
「……いっ」
迷いを読まれたのかつけ込まれたのか、アーダルベルトは自由な足でおれの|爪先《つまさき》を思い切り蹴《け》った。声にならない悲鳴で前に倒《たお》れ込む。そのまま首をホールドされ、喉元《のどもと》に冷たい金属が当たる。
「積極的でありがたいね。フラフラしてるオレのために、そっちから飛び込んできてくれるなんて」
「い、てェ」
「だろうな。血が出てるからな」
全身の筋肉が|緊張《きんちょう》した。刃があるのはちょうど顎《あご》の下だ。人間はここを斬られたらどうなるのか。頸動脈《けいどうみゃく》と気管とではどちらが早く楽に死に至る?
自分の武器を放りだした指で、アーダルベルトを引き離《はな》そうとした。だが、首にがっちり食い込んだ腕には、握力《あくりょく》五十台では通用しなかった。
背中には男の胸と腹の体温があるが、前には吹《ふ》きつける雪風しかない。こんな|逼迫《ひっぱく》した事態だというのに、両側の温度差に風邪《かぜ》でもひきそうだった。おれは舞台の端、ぎりぎりの崖《がけ》っぶちまで運ばれていたので、足の下には何もない。
「落とすこともできるんだぜ」
最初は両足をばたつかせていたが、その言葉ですぐにやめた。ただもう、息が苦しくて喉元が熱い。タップしようにも手がうまく動かないし、喉が乾燥《かんそう》して声も出ない。
舞台がゆっくりと回転し、自軍のベンチが視界に入ってきた。ヴォルフも村田もヨザックも、折らんばかりに鉄格子《てつごうし》を掴《つか》んで|叫《さけ》んでいる。歯医者のマシンみたいな耳鳴りがして、言っていることが聞き取れない。
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そう、耳鳴りだ。この不快な金属音に覚えがある。すぐ後にトランスが待ち受けているのではなかったか。もっと意識が白濁《はくだく》すれば、あの、世にも美しい女性の声が聞けて、人伝《ひとづて》に聞く無敵モードスイッチが入るはずだ。もう少し、もう少し|辛抱《しんぼう》すれば……。
「陛下!」
コンラッドだ。彼らしくない|切羽《せっぱ》詰《つ》まった声。
「お願いだ、早くギブアップしてください! アーダルベルトは本当にやりかねない、あなたの命を|奪《うば》いかねないんだ」
言葉が出れば、あるいは|魔力《まりょく》が|皆無《かいむ》だったら、おれだってとっくにそうしている。だが、今までも窮地《きゅうち》に陥《おちい》ればあのひとが|囁《ささや》きかけてくれて、おれの中の得体の知れない存在を引き出してくれた。まだ、どうにかなるかもしれない。まだ、逆転、できるかも、しれない。
だが、いつまでたっても、その|瞬間《しゅんかん》は、|訪《おとず》れない。
「これでは続行不能だろうな」
最早《もはや》おれの耳には届かないと思ったのか、アーダルベルトが掠れるほど低く|呟《つぶや》いた。
ここで堕《む》ちたら、これまでの苦労はどうなるんだ、すべて水の泡《あわ》なのか。カロリア代表としての要望も聞き届けられず、諸悪の根元である「箱」も取り戻《もど》せない。これで終わりだ。ここで終わり。
おれは天の中央を見詰めて声を振り絞《しぼ》った。掠れて音にも言葉にもなりやしない。それでも雪か星か判《わか》らない|結晶《けっしょう》に、無数に降る白い光に向かって叫んだ。
お願いだ、今すぐあの力が使いたい! 今だ、今だ、今、ここで、この勝負に勝ちたい!
それでもやはり、あの女性の噺きは聞こえない。だが、苦しさに紛《まぎ》れてふと地上に落とした視線の先には、自分と同じ二つの|瞳《ひとみ》があった。
気付いた村田が「|駄目《だめ》だ」と短く呟き、慌《あわ》てておれから顔を背《そむ》ける。
「駄目だ渋谷、危険すぎ……」
危険なのはどっちだ? おれか、それとも|闘技《とうぎ》場中の人間か。
すっと吸い込まれるように黒が大きくなり、周囲は闇《やみ》に包まれた。顔と胸と腿《もも》を、切るような風が撫《な》でる。肉体が耐《た》えられないようなスピードで、真っ暗なトンネルに一直線に突《つ》っ込んでいくみたいだった。
白く気怠《けだる》く矯《もや》のかかった闇とは違《ちが》う。リズムのいい音楽も聞こえない。