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今日からマ王10-7

时间: 2018-04-30    进入日语论坛
核心提示:     7 リンダウ 島に入る道は二通りしかない。 水路に架《か》かる橋の一方は列車の鉄橋なので、輸送機を降りた彼等が
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      7 リンダウ
 
 島に入る道は二通りしかない。
 水路に架《か》かる橋の一方は列車の鉄橋なので、輸送機を降りた彼等がとるルートは、事実上一つしかなかった。
「そこで待ち伏《ぶ》せられていたら、かなり|厄介《やっかい》なことになるね」
 レジャンの言葉はいい方向に外れた。夕暮れを迎《むか》え穏やかな時を送る街には、検問所は設けられていなかったのだ。
 徒歩でも一時間程で一周できる小さな島は、湖の真珠《しんじゅ》と呼ばれている。リンダウはボーデン湖の南東に浮《う》かぶ三つの島を、一つに繋《つな》げて作られた街だ。湖の対岸にはスイス、オーストリアが並び、以前は船で容易に行き来ができた。
 |無粋《ぶすい》な軍服姿の連中さえも、この島ではどこか朗《ほが》らかだ。ベルリンの殺伐《さつばつ》とした|雰囲気《ふんいき》とは異なり、湖畔《こはん》の街の長閑《のどか》な空気を感じる。
「静かで落ち着いているわね。他の都市の喧噪《けんそう》が|嘘《うそ》みたい」
 トラックの荷台で干し草の山を見守りながら、エイプリルがつい本音を漏《も》らした。
「財産を|没収《ぼっしゅう》されるとはいえ、今はまだ、ユダヤ系住民が陸路、空路で出国できるからな。それが断たれて、自由に動けなくなれば、この湖が|脱出《だっしゅつ》ルートとして使われるようになるだろう。そうなったら厳しい監視《かんし》が立つ。美しい島のままではいられない」
「いずれそんな酷《ひど》いことになるの?」
 デューターは|瞳《ひとみ》に散った銀の光を翳《かげ》らせて、半ば自嘲《じちょう》気味に答えた。
「このまま、|誰《だれ》にも止められなければ、恐らくな」
「それにしても不思議だ」
 助手席から降りてきたフランス人医師が、エイプリルに手を貸しながら首を捻《ひね》る。
「追っ手は|何故《なぜ》、|間違《まちが》った予想を立てたんだろう。箱を持った集団の行き先くらい、容易に思いつくだろうに」
「簡単な話さ」
 箱の表面から干し草を払《はら》い除《の》ける。将校服姿のデューターは、袖《そで》に付いた藁屑《わらくず》を軽く叩いた。
「あのまま輸送機でフランスに抜《ぬ》けると思ったんだろう。それが一番楽だからな。連中は箱を利用することしか考えちゃいない。せっかく手に入れた物を湖に|沈《しず》めるなんて、とてもじゃないが想像できないんだ。ま、その欲の皮の突っ張《ば》った価値観のお陰《かげ》で、俺達は時間が稼《かせ》げたわけだがな」
「本当に沈めるのよね。沈めて、いいのよね?」
 不安げな彼女に、レジャンは頷いた。
「そうするために来たんだよ、エイプリル」
 エイプリルは露《あら》わになった箱の蓋《ふた》を撫《な》で、文字と記号の描《えが》かれた|装飾《そうしょく》部分に指を走らせた。
 だがこの文章を解読しないままで、永遠に|封印《ふういん》してしまっていいものだろうか。
 彼女達は「鏡の水底」をボーデン湖に沈める。そう結論をだしてリンダウに来たのだ。
 悪意を持った者の手に、二度と箱を渡してはならない。最悪の事態を防ぐためには、誰にも届かぬ湖底深くに沈めてしまうのが最良の方法だろう。
 レジャンとデューターの意見は概《おおむ》ね|一致《いっち》した。
 食い違った点は破壊《はかい》するかしないかだ。
 原形を留《とど》めないくらいに壊《こわ》してしまったほうがいいのではないかと、デューターは軍人らしい意見を持っていた。だがレジャンによると破壊もまた危険であるらしい。もしもその衝撃で箱の中の門が開いて、封印された力が発動したら……。
「本来の『|鍵《かぎ》』である『清らかなる水』を持つ者が、まだこの世界には生まれていない。つまり誰にもコントロールできないんだ。そんなことになったらあらゆる場所が水に呑《の》まれるのを、指をくわえて見守るしかないんだよ」
 その説得でデューターが折れ、結局そのまま沈めることになった。
 夕刻を迎えたリンダウの港は静かで、湖面にはオレンジ色の緩《ゆる》い波が立つだけだ。旧市街を抜け、旧港に着いた辺りで、レジャンが再び口を開いた。
「一度うまく撒《ま》いたからって、ずっと見つからずにいられるわけじゃない。もしかしたらもう、追っ手がそこまで来てるかもしれない」
「判《わか》ってる。できるだけ急ごうっていうんでしょ。どこかでモーターボートを手配して……ああリチャードに任せちゃ|駄目《だめ》。この人、悪徳|捜査官《そうさかん》みたいな|真似《まね》するから」
「何度も言うようだが、リチャードじゃない」
 口論にも聞こえる二人の軽口を遮《さえぎ》って、フランス人医師は眼鏡《めがね》を押し上げた。
「それだけじゃないよ。僕は二手に分かれようかと考えていたんだ」
「二手に? でも箱は一つしかないのよ」
 ああ、とデューターが背中を向け、手近にあった鉤士子の垂れ幕を二枚引き下ろした。人のいない市場から木箱を拝借して、くるむように赤地の布を掛《か》ける。同様に本物の箱も布でくるむと、まるで二つの棺桶《かんおけ》を並べたみたいになった。
「本物と偽物《にせもの》のできあがりだ。近くで見れば一目瞭然《りょうぜん》だが、遠くからならそうそう区別もつくまい。まあ、用心に越したことはないからな。だが、どちらが本物の箱を載《の》せる? どっちが危険か一概《いちがい》には言えないが……」
「どっちも危険だ。僕が本物を……」
「あたしが本物を運ぶわ」
 飛行機から降ろされて|不機嫌《ふきげん》なDTが、ちらりとエイプリルを窺《うかが》った。
「だってあたしが箱の所有者なのよ。おばあさまはあたしにそれを葬《ほうむ》るように言った。後継者《こうけいしゃ》にあたしを選んだんだもの」
「じゃ、オレがエイプリルと……」
「いや」
 即座《そくざ》にレジャンに断られて、お嬢様《じょうさま》の相棒は両眉を下げる。
「なんでだよー、エイプリルのパートナーはオレじゃん。ヘイゼルに宜《よろ》しく頼《たの》まれてるって話しただろー?」
「うん、でも今回ばかりはリチャードが組んだほうがいいと思う。DT、きみだって言っていただろう、ヘイゼルが孫娘《まごむすめ》をきみに任せたのは、エイプリルに足りない点があるからじゃないんだって。彼女にとって今必要なのは、脱出経路を確保してくれるヒコーキ野郎《やろう》ではなく、本物の鍵の持ち主だと僕は思う」
「何!? リチャードは本物の鍵の持ち主なのか?」
「あ、でも待ってDT、リチャードの鍵はこの箱の物じゃないのよ。リチャードんちに代々伝わってる左腕なんだけどね」
「……お前等……わざと間違えてるだろ……」
 結局、エイプリルとデューターが本物を積んだ船、DTとレジャンがただの木箱を積んだ船に乗り込むことになった。乱暴でもなく成金風にでもなく拝借したモーターボートに、それぞれ鉤十字の布で包んだ荷を載せる。
 子供の|葬儀《そうぎ》にでも行くような、鬱《うつうつ》々とした気分になった。
 旧港から舫《もや》い綱《づな》を外しながら、レジャンは何食わぬ顔でデューターに|尋《たず》ねる。
「僕はきみとどこかで会ってたかな?」
「……なんだ、新手の勧誘《かんゆう》か?」
「違う。真剣《しんけん》に|訊《き》いてるんだよ。その眼《め》、銀の光を散らした瞳に覚えがあるんだ。きみと会っていないなら親の世代かな。先の戦争ではどこの戦線にいた?」
「親父《おやじ》は軍人ではなかったよ」
 レジャンはわざとらしく首を傾《かし》げ、人並みに悩《なや》んでいる|素振《そぶ》りを見せた。それからもう一度デューターの瞳を覗《のぞ》き込み、今度はズバリと核心《かくしん》をついた。
「それともきみは、遠い遠い場所から来た男の子孫《しそん》かい?」
「それがずぶ濡《ぬ》れで天から降ってきた男のことなら、子孫と呼ばれても仕方のない家系図だ」
「そうか……つまりリチャード、きみがベラールの……」
「あまり愉快《ゆかい》な話でもないんで、なるべく話さないようにしてるんだがね」
 人に|見咎《みとが》められないよう、旧港から静かに船を出す頃《ころ》には、空も街もすっかり朱色《しゅいろ》に染まっていた。遥《はる》かに見えるアルプスが赤く染まり、湖面に映って夕陽《ゆうひ》色に揺《ゆ》れている。
 エイプリルは感嘆《かんたん》の溜《た》め|息《いき》をついた。この土地を愛し、国のために生命《いのち》を懸《か》けて闘《たたか》う人々の気持ちが、ほんの少しだが判るような気になった。オールを動かしていたデューターが、どこか淋《さび》しげな口調で|呟《つぶや》く。
「ここもいずれ、戦場になるんだろうな」
「こんなに|綺麗《きれい》なのに……」
「俺達はそうさせないために必死だが、とても闘いきれる数じゃない」
 彼は親衛隊将校の制服を着ながらも、心も|身体《からだ》もナチではない。少数派の闘いは報われる場合か少なく、早くも敗色|濃厚《のうこう》だった。
「結局はヒトラーの帝国《ていこく》が完成し、独裁国家として世界中から忌《い》み|嫌《きら》われていくんだろうさ」
「そんな|諦《あきら》めたような言い方しないでよ」
 エイプリルはオールを|奪《うば》い取り、力強い一漕《こ》ぎで一気に|距離《きょり》を稼いだ。
「あたしが漕ぐ。あなたさっき肩《かた》の関節戻《もど》したばかりだものね」
 彼女の滑《なめ》らかな手足の動きを、デューターはただ黙《だま》って見詰《みつ》めていた。ボートが防波堤《ぼうはてい》に差し掛かるまで、エイプリルをぼんやりと眺《なが》めていた。
「もうエンジンかけても聞かれないかしら」
「……あ、ああ」
 彼女はオールをボートに引き上げ、発動機の紐《ひも》を一度引っ張ってみた。咳《せき》みたいな音がしたきり動かない。上げた視線がふと止まった。
「……こんなところにもライオンが」
 視線の先に顔を向けると、東の突端《とったん》には石造りの獅子《しし》が、五、六メートルもある台座の上から見下ろしていた。
「バイエルンの獅子像だ」
 エイプリルは肩の荷が下りたような、言葉にしがたい安堵《あんど》を感じた。ではきっと、此処《ここ》でよかったのだ。この湖に沈めるのは|間違《まちが》いではないのだろう。
「此処なら寂《さぴ》しくないかもしれない」
「なんだ寂しいって。箱に感情なんかあるものか」
 軍人のこういうところがつまらないというのだ。
「箱の金属部分に刻まれていた絵ね、イシュタール門のライオンに似てるそうよ。だから獅子が二頭になれば、淋しくないんじゃないかと思ったのよ。でもよく考えてみればあたしはあの日、そのライオンを見に行ってたんだっけ」
「それは隣《となり》の新館の方だったろう」
「そうなの。でもその時、きちんと獅子を見に行けていたら、リチャードには会っていなかったの」
「リチャードじゃ……」
 デューターはエイプリルに見えないように下を向き、特に不愉快ではない苦笑いを堪《こら》えた。|慎重《しんちょう》に船上での位置を変え、発動機の紐を受け取る。
「俺がやる。このままじゃ何時間かかっても手漕ぎボートのままだ。あっちはもうモーター響《ひぴ》かせて驀進《ばくしん》中なのに」
 手慣れたものだ。エンジンは一発でかかったが、その元気のいいモーター音に紛《まぎ》れて、夕暮れの空からプロペラ音が聞こえる。
「まずい、連中、空から攻《せ》めるつもりだ」
 デューターの言葉が終わらないうちに、双発機《そうはつき》が二機、姿を現した。空はもう|紫色《むらさきいろ》になりかけていて、影《かげ》だけでは機種までは判らない。ただし、標的が自分達であることだけははっきりした。薄《うす》ぼんやりと見えるDTとレジャンの船に向けて、信管を抜《ぬ》いた爆弾《ばくだん》を投下したからだ。
「DT! レジャン!?」
 仲間の元で上がる派手な水|飛沫《しぶき》に、エイプリルは動揺《どうよう》した。
「ほんとに? 本当に空軍まで担ぎ出したの? 相手は箱なのよ、何の変哲《へんてつ》もない木箱なのよ。どんな|凄《すご》い|威力《いりょく》があるのかも判明していないのに、どうして空軍までが関《かか》わってくるの!?」
「落ち着けグレイブス! 信管が抜いてある。爆発して木《こ》っ端《ぱ》微塵《みじん》なんてことにはならんさ。連中だって箱が欲しいんだ。こっちが岸にたどり着く前に、|転覆《てんぷく》させて横からかっ攫《さら》おうって|魂胆《こんたん》だ……待てよ、ということはあいつら未だに、俺達がスイスに抜けると思い込んでいるのか? おい照明を消せ、いい標的になってる」
 引き返してきたもう一機が、エイプリルたちのボートも見つけた。案の定、どちらが|攻撃《こうげき》対象か迷ったようだが、分担制に満足したのかこちらに集中してくる。いくら爆発しないとはいえ、直撃《ちょくげき》を受けたらボートは粉砕《ふんさい》されてしまう。今のところまだ狙《ねら》いは|過《あやま》たず、運良く周囲に投下されている。この|隙《すき》にボートを湖の中程まで進め、早く箱を|沈《しず》めないと。
「もっと真ん中まで行けるかしら」
「行けるか、じゃなくて行くんだ。|中途《ちゅうと》半端《はんぱ》に防波堤近くになど落としてみろ、ダイバー百人|一斉《いっせい》捜索《そうさく》ですぐ引き上げられてしまう」
 先程まで影のあった方向に目を凝《こ》らす。夕闇《ゆうやみ》のせいかもう一|艘《そう》のボートが見えない。
「どうしよう、見えない! DTとレジャンは|大丈夫《だいじょうぶ》かしら!?」
「他人の心配をしている場合か!? 来るぞグレイブス!」
 降ってくる鉄の塊《かたまり》が|船縁《ふなべり》に当たり、船体が大きく傾《かたむ》いた。固定されていた箱は持ちこたえたが、エイプリルもデューターも振《ふ》り落とされる。降りかかった波が内部に入ったのか、ぶすんと|唸《うな》ってモーターが止まった。
 闇《やみ》が濃《こ》くなり始めていて、|互《たが》いの存在は声でしか|確認《かくにん》できない。
「無事か!?」
「平気。鼻に水入ったけど」
「ち、|呑気《のんき》なこと言ってるぜ。掴《つか》まれ、船に押し上げてやる」
「いい」
「意地を張ってる場合じゃないだろうが!」
「意地じゃない。あたしがボートに戻るより、箱の始末をつけるのが先よ。そうでしょう? 見て、もう一機来た。今度のは威力倍増の照明付きよ。あんなんで照らされたらあたしたちどうなると思う?」
 湖面を広範囲《こうはんい》に照らす強力なライト付きだ。三機目はまだDTとレジャンのいた辺りを往復している。友軍の明るさに惹《ひ》かれたのか、彼等を攻撃していた一機もそちらに向かった。視界のはっきりした区域から調べようと考えたのだろう。
「箱を切り離《はな》した位置や、沈んでいくところまで見られちゃうわ。そうなったらすぐに捜索されて引き上げられてしまう。それは|駄目《だめ》よ、それは避《さ》けなくちゃいけない。あのライトがこちらに来るまでに、早く仕事を済ませなくては」
 デューターは数秒間押し黙っていたが、やがて船縁に足をかけた。濡れた身体をボートに引きずり上げ、落ちた軍帽《ぐんぼう》を遠くに投げ捨てる。エイプリルに救命|胴衣《どうい》を投げ、自分は重くなった上着を脱《ぬ》ぎ捨てた。
 救命具を掴んだエイプリルは、波で霞《かす》む両目を|拳《こぶし》で|擦《こす》った。デューターの姿がよく見えない。
「いいかグレイブス、今から俺が箱のロープを切る。それを船から|蹴《け》り落とすから、巻き込まれないように注意しろ」
「判《わか》った」
「それからこのボートを全力で走らせて、あの明るい辺りで爆破《ばくは》する。そんなに見たいなら見せてやるさ。箱をくるんだハーケンクロイツの燃える様をな」
「爆破って、どうやって……中尉《ちゅうい》、ダイナマイトを捨てなかったの!?」
「こんな危険な物、そう簡単に捨てられるか。いいかグレイブス、箱のロープを切るぞ」
 繊維《せんい》の千切れる音が続いた後に、大きくて軽い物が水中に落とされる気配があった。最初のうちは揺れて浮《う》いていたが、やがてレジャンの言葉どおりに沈み始める。|隙間《すきま》から浸水《しんすい》したのだろうか。
「リチャード、沈んでくわ」
「よし。あとは爆破したと見せかけるだけだ。運が良ければ自棄《やけ》になった俺達が、箱と心中したと思い込んでくれる」
 ビニールの|擦《こす》れる音がして、デューターがダイナマイトを取り出すのが判った。マッチの火が|一瞬《いっしゅん》彼の顔を照らし、|瞳《ひとみ》の中の銀の光が星みたいにまたたく。長めの導火線に火をつけてから、エンジンを始動させようと何度も紐を引く。
 限界まで水を浴びてしまったのか、まったくかからない。
 船縁に掴まったままのエイプリルに、デューターが四角いケースを押し付けた。
「先に用事を済ませよう。グレイブス、これを頼《たの》みたい」
「……|左腕《ひだりうで》ね?」
「そうだ。どこか……悪意のある者の手の届かない場所に、|誰《だれ》か|相応《ふさわ》しい人物が取りにくるまで保管して欲しい」
「相応しい人物って誰?」
「さあ。それは聞いてない。俺かもしれないし、そうじゃないのかも」
 それからエイプリルの手に触《ふ》れて、不意に昔のことを口にした。
「足はどうだ? もう痛まないか?」
「何そんな昔のこと言ってんの。そんなのとっくに治ってるわよ」
「……一昨日のことだ、エイプリル」
「リチャード、ねえ早くエンジンかけないと。導火線が終わっちゃうからっ」
 そうだな、と低い声で答えて、デューターはもう一度|紐《ひも》を引いた。不安定な回転音だが、ボートはゆっくりと前進し始める。
「スイス側まで泳げるか? 岸まで抱《だ》いていってやれなくてすまんな」
「何言ってんの? 早く飛び込みなさいよ! 爆発しちゃったらどうするの!?」
「いや、まだ飛び込むわけにはいかない。この不安定なモーターじゃ、いつ止まるか判ったもんじゃないし。それに波がかかって火が消えたら、せっかくの作戦が台無しだろう」
「リチャード! あたしはそんな危険な作戦は立てない主義だもの」
「俺達はずっと、こうやってきたんだよ、グレイブス。|恐《おそ》らくこの先も、こうやって闘《たたか》っていくんだ」
「リチャード、中尉! もう任務は終わりでしょ!? ドイツがどんどん悪くなってくなら、アメリカに来ればいいじゃない、合衆国に来なさいよ、ねえリチャード、あたしと|一緒《いっしょ》にボストンに来てよ」
 ボートの速度に付いていけなくなる。
 デューターは階級章を投げ捨て、上着もネクタイも湖に捨てた。それから自分自身に言い聞かせるように、声高に、夜に向かって答えをだした。
「俺にはまだこの国で、できることがある」
 エイプリルは右手を差し出した。彼の左手が、|握《にぎ》り返してくれることを信じて。
 けれど調子を取り戻《もど》したモーターは、唸りを上げてスピードを増した。
「リチャード!」
 |身体《からだ》に染《し》みついた癖《くせ》で五つ数えた頃《ころ》に、敵機のライトの真下で大きな火花が上がった。
 それからしばらく余波に耐《た》えながら待ってみたが、エイプリルの冷え切った右手は握り返されることはなかった。
 エイプリル・グレイブスは岸に向かって泳ぎだした。
 最初のうちは進まないくらい|遅《おそ》かったが、慣れるにつれてペースは上がり、対岸まで泳ぎ切る自信も湧《わ》いてきた。
 |途中《とちゅう》、疲労《ひろう》のせいで何度か沈みかけたが、正確に装着された救命胴衣と彼女自身の強い意志、加えて革ケース自体に浮力《ふりょく》があったお陰《かげ》で、|溺《おぼ》れるところまではいかなかった。
 岸近くでようやく相棒に抱き締《し》められるまで、彼女は独りで泳ぎ続けた。
 ただし、寒さと低体温で、迂闊《うかつ》にも何度か|眠《ねむ》りかけることがあった。そのときには必ず同じ夢を見て、夢の途中で意識を取り戻す。
 誰かの左腕に縋《すが》って、青い水の底を漂《ただよ》う夢だ。
 
 
 その左腕は温かかった。
 冷たく白いものとは|違《ちが》う。
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