赤い部屋はヘイゼルの言葉どおり、ある種の集合場所として使用されていた。
「言ったろう、聖砂国の|民《たみ》は地下には神の力が|及《およ》ばないと固く信じている。今はそれを逆手にとって、談合場所として使っているのさ。兵士達も|滅多《めった》なことがなければ|踏《ふ》み込もうとしない。|不吉《ふきつ》だからね。|皇帝《こうてい》に|刃向《はむ》かう者達にとっては、絶好の|隠《かく》れ|家《が》というわけだ」
おれたちが彼女の七十年間を聞いている間にも、|幾人《いくにん》かの神族が入ってきてはそこ|此処《ここ》に居場所を見つけて残っていった。いずれも服装は質素を過ぎて|見窄《みすぼ》らしく、この寒い土地にありながら|裸足《はだし》に近いサンダル|履《ば》きであったり、|薄《うす》い上着だけで|震《ふる》えていたりした。幸い地上に比べて地下は暖かく、この部屋には|灯《あか》り代わりの火もある。夜の中を走るよりは快適だろう。
ごく稀に簡易な食料《しょくりょう》らしき袋《ふくろ》を抱《かか》えた者や、質の悪そうな紙筒《かみづつ》を手にした者もいた。地図か見取り図だろうか。
石戸の|脇《わき》に腕組みをしたヨザックが|陣取《じんど》っていたので、|訪《おとず》れる人達は|皆《みな》ぎょっとして数歩後退《あとずさ》る。それでも|襲《おそ》い|掛《か》かってきたりしないあたり、聖砂国の|奴隷《どれい》階級の人々は、みな大人しい印象を受けた。船旅中にも思ったことだが、彼等には基本的に|闘争心《とうそうしん》というものが欠けているのかもしれない。
それが長所なのか短所なのかは、|一概《いちがい》には言えないけれど。
中には|噂《うわさ》に聞く|黒髪《くろかみ》の一行が|何故《なぜ》ここに居るのかと|詰《つ》め寄る者もあったが、それもヘイゼルに短く|一喝《いっかつ》されると、食い下がることもなく|頷《うなず》いた。
どうやらヘイゼル・グレイブスは年長者というだけではなく、この集団のリーダー的存在でもあるらしい。
しかし室内の人数が五人増えたところで、おれは自分から彼女に提案した。|流石《さすが》に居づらくなってきたのだ。
「あのー、もしかしておれたち自己|紹介《しょうかい》とかしたほうがいい?」
視線が痛い。もっともだ、自分達のリーダーが見知らぬ異国人を連れ込んでいたら、誰《だれ》だって|不審《ふしん》に思う。それも相手は服装こそバラバラだが、皇帝イェルシーと会談予定だった|魔族《まぞく》の使節団だ。まあそこまで事情通の人物がいるかどうかは判らないが、少なくとも未知の言語で話し込んでいるだけでも、人々の不安は|募《つの》るだろう。
「だってこの人達から見たら、おれたち|充分《じゅうぶん》怪《あや》しいだろ。髪も|眼《め》もあり得ないコントラストだし、未知の言語で|喋《しゃべ》ってるわけだし」
「陛下はあたしの客人だ。怪しむ者などいないはずだよ。全員が|揃《そろ》ったら紹介しようと思っていたが……けれど正直なところ、どう説明したものかあたし自身も迷っているんだ」
|加齢《かれい》のせいで|眉間《みけん》に寄った|皺《しわ》をいっそう深くして、ヘイゼルは|口籠《くちご》もった。
「敵ではないと|判《わか》っていても、味方と言い切るだけの条件も揃っていない。何しろあたしには、まだあんたたちの目的が見えてきていないんだからね」
「目的……」
金色の視線とヘイゼルの|赤褐色《せっかつしょく》の|瞳《ひとみ》に|曝《さら》されて、おれは言葉に詰まった。
この旅の目的は幾つもあり、それが複雑に|絡《から》み合い過ぎて簡潔には説明できない。それにサラレギー・イェルシー兄弟との会談の模様をどこまで明らかにしたものかの判断も難しい。それ以前に彼等が兄弟だったことさえ、ヘイゼルはともかく国民の皆さんには知られていないのではなかろうか。
「我々の|渡航《とこう》目的は、聖砂国と小シマロンの国交回復の|行方《ゆくえ》を見届けることだ。|但《ただ》しあくまでも第三者的立場として立ち会う予定で、両者の|折衝《せっしょう》に口を|挟《はさ》む意図はなかった」
ウェラー|卿《きょう》の言い方は、眞魔国側に立っても、逆に大シマロンの使者として|捉《とら》えても問題がなかった。
「だが会談中に想定外のアクシデントがあり、小シマロン国主サラレギーを残して退席を|余儀《よぎ》なくされた」
「|成程《なるほど》、アクシデントね」
ヘイゼルは|皹《ひび》割れた|爪《つめ》で|顎《あご》を|撫《な》でた。
「しかしかなり|際《きわ》どい状態での退席だったようだ。あまり平和的なオブザーバーではなかったのかな。まあいい、別に身分を疑っているわけじゃないんだ。ただあたしはあんたたちも小シマロン王も、国交回復なんていう|可愛《かわい》いものではなく、もっと|質《たち》の悪い目的があったんじゃないかと|危《あや》ぶんでいるんだよ。例えば……」
石戸が引かれて、彼女はちらりとそちらに目をやった。旧知の相手だったらしく、片手を挙げるだけで済ます。
「兵器として利用価値の高そうな品の|探索《たんさく》とかね」
おれは|拳《こぶし》をぎゅっと|握《にぎ》り|締《し》めた。|掌《てのひら》に|温《ねる》い|汗《あせ》をかいている。
「……箱のことを言ってるんだな」
「だって陛下は魔族の王で、あの|厄介《やっかい》な箱は魔族が作った物だと言ったろう? だったらそれを取り|戻《もど》しに来てもおかしくはない。うっかり異世界に飛ばされてしまう|素人《しろうと》よりずっと、使い方も心得ているはずだ」
だったらいいんだけどね。
胸の内だけで|溜息《ためいき》をつき、おれは意識して|硬《かた》い声をつくった。サラレギー、イェルシーとの|巨頭《きょとう》対談をキャンセルしたと思ったら、今度はご当地の|影《かげ》の実力者、ベネラことヘイゼル・グレイブスとの|真剣《しんけん》対決だ。こう腹の|探《さぐ》り合いや|駆《か》け引きの連続では、気の休まる|暇《ひま》がない。
おれが身に着けた駆け引きなんて、無意味な|呟《つぶや》きで打者を|惑《まど》わすことくらいだというのに。
「信じてもらえるかどうか判らないけど、正直に言おう。おれたちは……少なくともおれは、箱を奪いに来たわけじゃない。そもそもあれがこの大陸にあるなんて、我々は予想もしていなかったんだ。それに」
コンラッドを見上げると、|抑揚《よくよう》のない調子で『|凍土《とうど》の|劫火《ごうか》』でしょう、と教えてくれた。そう、箱の名前は『風の終わり』『地の果て』そして今日、|在処《ありか》を知ったばかりの『凍土の劫火』を兵器として利用しようなんて、考えたこともない」
「その言葉を鵜呑《うの》みにしていいものかどうか」
「会ったばかりの人物を急に信用できっこないのは判ってる。でも我々魔族は、強大な力を|封《ふう》じ|込《こ》めるためにあれを作ったんだ。決して|他《ほか》の国や他の民族に行使するためじゃない。いま箱の在処を知っても、本音を言えばそのままそっとしておきたいくらいさ。誰にも悪用されない確約があるならね。大シマロンとか、小シマロンの……」
|喉《のど》が鳴った。少年王の|犯《おか》した|行為《こうい》を思い出したからだ。
「サラレギーの手に|渡《わた》って、悪用されないって保証があるなら、これ以上|詳《くわ》しい場所なんか聞きたくない」
彼は実験の名目で|囚人《しゅうじん》を集め、カロリアを|破壊《はかい》した。人々の役に立とうとするアニシナさんとは、理想の高さが|随分《ずいぶん》違《ちが》うじゃないか。
「本当に?」
名前のとおり|榛色《はしばみいろ》の瞳で、おれの顔をじっと|見詰《みつ》めた。相手のほうが背が低いので、自然と見上げる角度になる。|酷《ひど》く居心地の悪い理由は、彼女の眼だ。物の本質を|見極《みきわ》め、|鑑定《かんてい》する眼を持つている。
「あたしのように間違えたりしなければ、|凄《すさ》まじい|威力《いりょく》を持つ貴重な箱だよ。|遺《のこ》された記録によると、ドイツの研究している新型|爆弾《ばくだん》にも|匹敵《ひってき》するかもしれない。|融合《ゆうごう》と分裂の特性を利用した|恐《おそ》ろしい物だそうだよ。都市ごと|吹《ふ》っ飛ぶ。そんな強大な力を手にしても、あんたたちはそれを使わずにいられると?」
「使わない。使わせないために、もっと深く、絶対に見つからない場所に隠したい」
ヘイゼルはきっかり五秒間、|黙《だま》っておれの顔を|眺《なが》めた。その間ずっと心の奥底を|覗《のぞ》かれている気がした。やがて彼女は|頬《ほお》を|緩《ゆる》め、善良そうな老婦人の表情に戻る。
「悪かったね、どうも|坊《ぼう》や……失礼、陛下が、地球でいう日本人に見えてしまって。あんな国に|凶悪《きょうあく》な兵器を持たせたら、世界がどうなるか判ったものではないからね」
「……あんな国……」
仕方がない、ヘイゼル・グレイブスの中の地球史は、一九三六年で止まっているのだ。日本は|徹底《てってい》した軍国主義で、アメリカは|未《ま》だ参戦していなかった。それどころか大戦さえ始まっていなかったのだ。彼女は二十世紀がどう終わったかを知らない。
「難しいなー、国際政治って」
「そうですね」
もう少し後の世界を知るコンラッドが、|肩《かた》を落とすおれを|宥《なだ》めるように言った。お前は良くやっている、誰かにそう|慰《なぐさ》めてもらいたい気分だ。
落胆《らくたん》の理由には思い至らないまま、ヘイゼルは笑顔《えがお》で詫《わ》びた。
「申し訳ない、外見で判断するような|愚《おろ》かな|真似《まね》をしてしまった。黒い目や黒髪の人物に久し|振《ぶ》りに会ったものだからね。でも陛下はとても誠実そうだし、それにキュートだ。女性票の|獲得《かくとく》も容易だろうね。あたしの友達のアジア人とは大違いだよ」
その先は真顔に|戻《もど》り、|優《やさ》しい老婦人はたちまち姿を消す。これが「ベネラ」としての顔なのだろう。
「そして何より、あなたは魔族の王、|唯一《ゆいいつ》シマロンに|対抗《たいこう》できる存在だ。|信頼《しんらい》に足る人物だと思いたい。でなければあたしたちがこれまでしてきたことは、永遠に|報《むく》われなくなってしまう。この国の現状が明るみにでるように、海の向こうに広まるようにと、あたしたちは船を出し続けてきたんだから。仲間がどんなボロ船で海を|越《こ》えようとしたか知ってるかい?」
「知ってる、|接触《せっしょく》したよ。|無謀《むぼう》もいいところだ」
「そう、死にに行くようなものだよ」
あんな|荒《あ》れ|狂《くる》う海域に、漁船に毛の生えた程度の乗り物で旅をさせるなんて。しかも大半は小シマロンに流れ着き、子供だけ|奪《うば》われて送り返される。おれは服の上から胸を押さえ、かさつく|感触《かんしょく》をぎゅっと|掴《つか》んだ。そこには親しくなった|双子《ふたご》からの手紙が入っている。ジェイソンとフレディの。|託《たく》されたゼタとズーシャの|想《おも》いも|詰《つ》まっている。
恐らくその|薄《うす》っぺらい紙切れの向こう側には、もっともっと多くの、数え切れない|程《ほど》の人の願いがあるのだろう。
「それでも船は出さなければならない。|誰《だれ》かが行かなくては。あたしたちはもう三十年以上同じことを続けているが、シマロン領は|駄目《だめ》だった。シマロンに流れ着いた|同胞《どうほう》がどういう運命を|辿《たど》るかはもうご存知だろうね。シマロン領以外に関しては判らない、|皆目《かいもく》見当が付かない。握り|潰《つぶ》されているか、そのまま|体《てい》のいい労働力として|搾取《さくしゅ》されているのかもしれないし」
ふと見るとヨザックが、女性から何か黄色い|塊《かたまり》を|貰《もら》っていた。自分の口を示し、食べていいものかどうか|訊《き》く。神族の女性は細い指でそれを千切り、|微笑《ほほえ》みながら彼の口元に差しだした。言葉も通じないのに親しくなるのが早い。ヘイゼルも同じ光景を見ていたらしく、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「そうしている間に戦争が激化し、シマロンが二つに分かれたと聞いた。出島を|訪《おとず》れる貿易商から|漏《も》れ伝わってね。同時に、シマロンに対抗する勢力があることも知った。|驚《おどろ》いたよ、ここ百年のシマロンの|侵攻《しんこう》速度といったら、ローマや大英帝国どころじゃなかったのに。この閉ざされた土地で、限られた情報しか入ってこない|環境《かんきょう》にいたせいか、もう全世界がシマロンの物になってしまっているように感じていたからね。世界の|覇権《はけん》はシマロンにあり、それを大小二人の王が分け合っているのだと、あたしも仲間も絶望していた」
お庭番は呑気《のんき》にも、貰った食べ物を咀嚼《そしゃく》している。英語が理解できず退屈しているにしても、ちょっと|意地《いじ》汚《きたな》いぞヨザック。|逃避《とうひ》しかける神経を、無理やりベネラの話に戻す。
「ところがシマロンは、戦いに勝ったわけではないというじゃないか」
|如何《いか》にも痛快そうに、ヘイゼルは肩を|揺《ゆ》すった。他国の事情なのに。
「あの強大な国家に|屈《くっ》することなく対等に戦い、頭を下げさせた国があると。それを聞いてあたしがどう感じたか|判《わか》るかい? 世界は広いんだと思ったね。そしてもしかしたら両シマロンではなく、もっと他の、|虐《しいた》げられた者達から搾取しない土地もあるのではないかと思うようになった。我々の|窮状《きゅうじょう》を知って、調停役を名乗り出てくれるのではないかと夢見た。希望を持ち始めたんだ……希望というのは厄介な|代物《しろもの》でね」
ヘイゼルは両手を天に向けて肩を|辣《すく》めた。映画でよく見る外人ポーズだ。
「……止められなくなってしまったんだよ」
「何、を」
「船を出すことを」
「そんな」
おれは|困惑《こんわく》して何度も手を握ったり開いたりした。掌にかいた汗を|腿《もも》に|擦《こす》りつける。
「じゃあ神族の皆があんなボロ船で、無謀と知りつつも|脱出《だっしゅつ》を|図《はか》るのは……おれたちが……眞魔国がシマロンと戦争したせいだっていうのか。魔族が他の国と同じようにあっさり|降伏《こうふく》していたら、あんたたちも早くに|諦《あきら》めてて、|無駄《むだ》な|犠牲《ぎせい》を出さなくて済んだっていうのか?」
「そんなことは言っていないよ陛下」
ヘイゼルの|椰楡《やゆ》するような調子に、おれは黙って|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。
「ただあたしは、シマロンに打ち勝った国の存在が、我々に希望を|与《あた》えたと言いたかったのさ」
希望。
その短い単語を聞いて、おれはこの地に立った理由の一つを思い出した。
ベネラ、希望、助ける。
そうだ、、おれたちは……少なくともおれは、箱を探しに来たわけでも、聖砂国と小シマロンの国交回復を|妨《さまた》げに来たわけでもない。手紙をくれたジェイソンとフレディの願いを|叶《かな》え、少女達を救出しに来たのだ。二人の人生に責任を持つと言った。約束したのだから。
「希望といえばあなただろ、ベネラ」
故意に彼女の本名ではなく、人々に|讃《たた》えられる名前を口にする。
「あなたは|奴隷《どれい》として虐げられ、|抵抗《ていこう》する気力もなくなった人々を奮い立たせた。もっと違う人生があるんだと教えて、今の環境から|抜《ぬ》け出すための手段を教えた。教えるだけじゃなく、指揮して実行にまで導いたんだろう? この国の人々の希望はシマロンと和平を結んだ眞魔国なんかじゃない。ヘイゼル・グレイブス、あなたなんだよ」
約束どおり会いにきたよ、ジェイソン、フレディ。君達はおれに何を望んでいるんだろう、ベネラという|象徴《しょうちょう》的な存在を、何から救えばいいんだろう。
「おれが仲間と|離《はな》れてまでこの土地に来たのは、友達になった双子との約束を果たすためだ。その子達はベネラを助けてくれと言ってきた。ジェイソンとフレディっていう十二かそこらの女の子だ。二人の所在を知ってるかな」
「ジェイソンとフレディ……どこかで聞いたような……その子等があたしを助けろと陛下に言ったのかい?」
心当たりがないのは双子の居場所なのか、それとも自分自身の危機に関することなのか、ヘイゼルは数分間本気で|悩《なや》み、まるで|占《うらな》い|師《し》みたいな一言を漏らした。
「神族らしくない名前だ。奴隷階級じゃないのでは」
「生まれてすぐに連れ出されたらしいんだ。国外での養成施設で育てられたから、名前もそこでつけられたのかも。とても|魔術《まじゅつ》が……|違《ちが》った、法力が強い。持って生まれたものらしい。待てよ、サラの説明では……」
サラレギーによると、どんなに高貴な身分の生まれでも、法力のない子供は奴隷として|扱《あつか》われるということだった。|極端《きょくたん》な話、女王の産んだ双子の片割れでも。逆にジェイソンとフレディは高レベルの法力を持っている。|他《ほか》の法術師達が|頼《たの》みにしている法石の力も借りずに、|凄《すさ》まじい|破壊《はかい》力を見せつけてくれた。おれなんか足元にも|及《およ》ばぬ程だ。
あれだけの|攻撃《こうげき》力を持ち合わせていれば、奴隷階級には属さないのかもしれない。ではおれは今ここにいる人々ではなく、もっと|恵《めぐ》まれた、|裕福《ゆうふく》な環境にいる子供を助けに来たのか? それをこの場で言ってしまっていいものかどうか悩む。
ヨザックが顔の横で指を動かし、「食い物をくれるそうですよ」と小声で告げてきた。
「この辺で一息入れましょうや、|坊《ぼっ》ちゃんだって腹ぁ減ってるでしょ」
|隣《となり》では先程の女性が、親切そうな笑顔で包みの中を|掻《か》き回している。ただでさえ少ない|食糧《しょくりょう》だろうに、見ず知らずの異国人にまで分けてくれようというのだ。
きみたちに力を貸しに来たのではないなんて、どんな顔をして言えばいいのか。
おれの|逡巡《しゅんじゅん》をよそに、ヘイゼルが|叫《さけ》んだ。
「|外海《がいかい》帰りか!」
「え?」
「外海帰りだね、その二人は。海の向こうの他の土地から|戻《もど》ってきた連中をそう呼ぶんだ。|外界《がいかい》を知らない多くの奴隷達と区別するためにね。だったら数度会っているかもしれない。あたしがいつもの姿で|巡回《じゅんかい》していた時だ」
そこまで一息に言って、ヘイゼルは|自虐《じぎゃく》的に唇を|歪《ゆが》めた。
「あたしの本職は肥車|牽《ひ》きの|婆《ばあ》さんだから」
高校生で野球|小僧《こぞう》の魔王がいるのだから、有機農法の肥料を運んでいる指導者がいたって|可笑《おか》しくはない。
「でも、もしその子達が外海帰りだとしたら……|可哀想《かわいそう》に、とんでもない場所に|繋《つな》がれていることになる」
「繋がれてる!? だって犯罪者や|謀反人《むほんにん》でもなく、下手したら奴隷階級でさえない子供達だぜ!? この国の価値観で判断すれば、法力の強い子供はエリートなんだろ?」
|物騒《ぶっそう》な|響《ひび》きにたちまち不安になる。おれの|捜《さが》す少女は、|鎖《くさり》の必要なペットや|家畜《かちく》ではない。
「国から一歩も外へ出ず、終生良き市民でいさえすればね。でも、外海帰りはそう簡単にはいかない。何も知らなければ今の体制に疑問も抱《いだ》かず、神と支配者に忠誠を誓っていられるだろう。だが、一度外の世界を知ってしまえば、ここの異常さに気付かずにはいられない。そうなると単なる奴隷より|面倒《めんどう》だ」
「面倒って!」
「知識と情報を持っているからね」
ヘイゼルは|乾《かわ》いた指で|髪《かみ》を掻き上げ、絶望だとばかりに頭を|振《ふ》った。
「外海帰りは専用の施設に|隔離《かくり》され、|勾留《こうりゅう》される。周囲の者達を|啓蒙《けいもう》し、良からぬ|影響《えいきょう》を与えないように。施設とは名ばかり、実際は|荒野《こうや》の|直中《ただなか》の収容所だ。|囚人《しゅうじん》だよ、|刑務《けいむ》所《しょ》暮らしも同然さ」
「そんな」
「国内に何箇所か点在していて、その内の一つはイェルシウラドからそう遠くない。二十日に一度は物資が送られる。あたしでなく、牛が荷車を牽いてね。|蓋《ふた》は開けないから中身は判らないが、|匂《にお》いからして囚人の食糧じゃあなさそうだ。|僻地《へきち》勤めの役人の|嗜好品《しこうひん》か何かだろう」
ヘイゼルの口調には明らかに同情が込められていた。友人になった少女達は、この場の|誰《だれ》よりも|苛酷《かこく》な|境遇《きょうぐう》に置かれているのだ。
「運良く協力者が荷運びの任に|就《つ》いた時は、あたしもできる限り|訪《おとず》れるようにしている。航海にしくじって送り返された者も多く収容されているから。彼等に関してはあたしに責任がある」
同情と苦痛の入り混じった声だ。冷静さを保つために歯を食い|縛《しば》らなければならないような。けれどおれにはもう、彼女の話など聞こえていなかった。足元の地面が砂に変わり、|身体《からだ》ごと|崩《くず》れ落ちて行く気がして、立っているのがやっとだったのだ。
「……おれだよ」
両手の指を開いたままで、|頬《ほお》の|震《ふる》えそうな顔を|覆《おお》った。小指に|填《はま》った|薄紅《うすべに》色の石が、冷たいままで|目尻《めじり》に当たる。|無性《むしょう》に腹が立ち、誰かを心の底から|憎《にく》みたくなった。でもそう簡単には|逃《に》げられない。
責任は、おれにある。
「おれがあのこたちを、そんな|酷《ひど》い|処《ところ》に……」
「|違《ちが》います陛下」
コンラッドに|両肩《りょうかた》を|掴《つか》まれて、やっと落下の感覚はなくなった。しかし|後悔《こうかい》の言葉は次から次へと|浮《う》かんでくる。
「あのとき止めれば良かったんだ。止めるか、せめてもう少し聖砂国の政情や神族の思想について調査してから二人を送り届ければ……それまで待てって説得してれば、こんなことには」
「あなたのせいではありません」
彼の|腕《うで》を振り|解《ほど》いて向き直り、背中から勢いよく|壁《かべ》に|倒《たお》れ込んだ。ヘイゼルの顔色が変わる。おれは何かしただろうか、と一瞬迷う。ヘイゼルの視線はおれと、背後の石壁に|注《そそ》がれていた。
「いや、|寧《むし》ろおれが直接ついて行くべきだったんだ。最後まで責任持つなんて軽々しく言っておきながら、|肝腎《かんじん》なところで他人に任せた。自分で送って行けばよかった。この|眼《め》で、あの二人が幸せになるのをちゃんと見届けるべきだったんだ! そうだ、|一緒《いっしょ》だった小さい連中はどうしたんだろう。まさかあのチビちゃんたちまで酷い目に……」
「あなたのせいじゃない!」
「坊ちゃん?」
異変に気付いたヨザックが|駆《か》け寄ってきた。ちらりとコンラッドの様子を|窺《うかが》いながらも、|剣《けん》に指が|掛《か》かっている。疑いはまだ晴れていないのだろうか。おれにしてみればそれも|辛《つら》い。
「だから言ったでしょう、坊ちゃん。一息入れて飯でも食いましょうって。空腹のまま深刻な話なんぞしても、立ち|眩《くら》みでぶっ倒れるのがオチなんだから」
「腹が減ってるせいじゃないよ」
「いーえ腹が減ってるせいなんです」
彼はきっぱりと断定した。
「満たされていない時に考え事をすると、ろくなことにならない。そいつは太古の昔から先祖代々言い伝えられてきた至言ですよ。|眞王《しんおう》様だってそう|仰《おっしゃ》ってるわ」
「逆に満腹だと血液が胃に集中して……むぐ」
「口答えしない。いいですか陛下、こういうのは本当に|飢《う》えたことのある|奴《やつ》にしか|判《わか》らないんです」
|割烹着《かっぽうぎ》を着たおばちゃんそのものの仕種で、グリ江ちゃんはおれの口に黄色い|塊《かたまり》を|突《つ》っ込んだ。チーズとヨーグルトの中間の味がする。それからウェラー|卿《きょう》に向かって、|牽制《けんせい》するみたいに言った。
「毒味済み」
「……知ってる」
先祖代々の至言だと|豪語《ごうご》するだけあって、グリ江ちゃんの言葉は半分は本当だった。乳製品らしき食べ物を|噛《か》む内に、自己|嫌悪《けんお》は多少治まり、先のことを検討する気力も|僅《わず》かながら|湧《わ》いてきた。多少は、だ。まだまだ罪悪感のほうが|幅《はば》を|利《き》かせているのだが。
おれはしくじった。ひとの一生を左右する重大な局面で、大きな|過《あやま》ちを犯した。その|愚《おろ》かさと深刻さを|想《おも》うと、寄り掛かる壁の表面から、|猛獣共《もうじゅうども》に|嘲笑《あざわら》われるような気がした。
だがまだ終わっちゃいない。
ジェイソンとフレディの人生は未だ九回裏じゃないし、|償《つぐな》えることもあるはずだ。
「……教えてくれ」
「何をだい?」
|黙《だま》って見守っていたヘイゼルが、|両腕《りょううで》を組んで聞き返してきた。
「外海帰りの人々が隔離されてる場所だよ。それを知ってる限り教えてくれ。まずは首都に近いところからだ。おーい!」
部屋の|隅《すみ》に立っていた神族の若者を手招く。|抱《かか》えた紙筒が地図であるように願いながら。
「必ず助けだす……必ず」
ヘイゼルは可笑しげに|顎《あご》を反らし、|荒《あら》くれ者みたいに指をボキボキ鳴らした。
「いいだろう、いい根性だ」
もはや|優《やさ》しげな老婦人の|面影《おもかげ》などどこにも無い。
「|坊《ぼう》やを見てると|孫娘《まごむすめ》を思い出すよ。|頑固《がんこ》だがとにかく|諦《あきら》めない子でね。別れた時にはちょうどあんたくらいの|歳《とし》だった。出来る限りの協力はしよう。元々その女の子達は、あたしの身を案じて陛下にお願いをしてくれたんだろう?」
「そのはず、なんだけど」
「自分等が繋がれているのに、他人の心配をするなんて。まったく良くできた子供達だ。そういう子を救わないわけにはいかないじゃないか……ああ、まず|此処《ここ》」
そう言うと地面に紙を広げ、自分の|膝《ひざ》で|右端《みぎはし》を押さえた。聖砂国全土を表す地図は、周囲を波のマークで囲まれた、|巨大《きょだい》な|帆立《ほたて》の|貝殻《かいがら》に見えた。本国作成のオリジナルマップにも|拘《かかわ》らず、やっぱり山地や平原の区別が|暖昧《あいまい》だ。|幾《いく》つかの山脈が記されているとはいえ、全体的に|起伏《きふく》の少ない地形のようだ。
ヘイゼルの指先を目で追っていくと、中央、西、南東と動いた。
「あたしが知っているのはこの四つだ。イェルシウラドの北西、西の|崖《がけ》っ|縁《ぷち》、出島のちょうど反対側……それと……」
四番目の場所へと向かう指のスピードが落ちた。まるでそれまでの三ヵ所よりも|勿体《もったい》をつけているようだ。不思議に思って視線を上げると、ヘイゼルの口元が皮肉っぽく|歪《ゆが》んでいた。こちらを|焦《じ》らしているわけではなさそうだ。
「そして此処、大陸の|最北端《さいほくたん》にもう一箇所。この辺りには王家の|墳墓《ふんぼ》があって、幾つかの|騎馬《きば》民族が実権を|握《にぎ》っている。王の墓を守るという名目の|下《もと》に」
「実権を握ってるって?」
聖砂国は|皇帝《こうてい》の単独政権で、権力は|全《すべ》てイェルシーに集結しているのではなかったのか。そう|訊《き》き返そうとしたおれの疑問は、ヘイゼルの次の言葉ですっかり消えてしまった。彼女はこう言ったのだ。
「あたしが飛ばされて来た場所だ。『箱』と一緒にね」
「何だって!? じゃ、じゃああれは今も、そこに」
「ああ|恐《おそ》らく。誰にも気付かれてなけりゃあ|古墳《こふん》の底に|眠《ねむ》ってるよ。歴代皇帝の財宝と共にね。あたしが命|辛々《からがら》逃《に》げだしてから、誰も|盗掘《とうくつ》に入ってなきゃいいけど」
顔を見合わせるおれたちを|後目《しりめ》に、ヘイゼルはふてぶてしさを|装《よそお》って続けた。
「それにしても古墳の中だなんて、トレジャーハンターが閉じ込められるには絶好の場所じゃないか。あの箱に意思があるとしたら、かなりのユーモアの持ち主に|違《ちが》いない」
笑えない|冗談《じょうだん》だ。カロリアの|惨状《さんじょう》を|目《ま》の当たりにした人間にとっては、特に。
|抗議《こうぎ》するのは|止《や》めておいた。箱の秘密を知る者を|敢《あ》えて増やすことはない。というよりも機を|逸《いっ》したというほうが正しい。|突然《とつぜん》響《ひび》いた|鈍《にぶ》い音に、全員の注意が集まってしまったのだ。
それは外から石を打ち鳴らす音だった。酷く|慌《あわ》てている。一番近かった青年が|急《せ》かされるように石戸を引いた。
「ベネラ!」
男は入って来るなりヘイゼルの名を|叫《さけ》び、駆け寄って早ロで|捲《まく》し立てた。握っていた|紙片《しへん》を|渡《わた》して自由になった両手は、野菜でも切るように縦に動いている。彼なりの|身振《みぶ》り手振りなのだろう。|如何《いか》に|焦《あせ》っているかは目を見れば判る。|眼鏡《めがね》の分厚いレンズ|越《こ》しに、巨大な金色の眼球が左右に動いていた。|馬鹿《ばか》にしてない、ユタは馬鹿にしてないから。
|頬《ほお》と顎を|覆《おお》う|柔《やわ》らかそうな|髭《ひげ》の白カビ具合といい、どうも|何処《どこ》かで見た顔だ……。
「あっ!」
|一頻《ひとしき》り説明を終えた男は、おれの声に|驚《おどろ》いて初めてこちらに視線を向けた。ぎょっとして数歩|後退《あとずさ》る。
「アチラさん!?」
「コ、コチラサン!?」
この男は巨頭会談に立ち会っていた通訳だ。相変わらず動転すると顎の白|黴《かび》が逆立つようだ。胸に|着《つ》けられた名札の間違いが|鮮明《せんめい》に|甦《よみがえ》る。通詞・アチラ、三文字目が左右逆表記だったっけ。
「ああそうか、顔見知りのはずだね」
「どうして|翻訳《ほんやく》コンニャ……法術の持ち主が|抵抗者《ていこうしゃ》のアジトに!?」
相手も全く同じ事を|訊《き》きたいだろう。どうしてバルコニーから落ちた|間抜《まぬ》けな客人が、地下迷宮の入り口に!?
「アチラは市民だが、あたしたちの心強い協力者だ。祖父母の代が|奴隷《どれい》でね、あたしがちょっとしたアドバイスをしたんだ。そんなことよりも彼の持ってきた情報だ。陛下も興味があると思う」
「はなしを?」
|一瞬戸惑《いっしゅんとまど》ってから、説明を聞きたいかという意思|確認《かくにん》だと理解した。彼の共通語は|徹底《てってい》的な省略話法だ。相変わらずの|超《ちょう》訳ぶり。やっぱり|特殊《とくしゅ》な法術の持ち主というよりも、単なる語学が|堪能《たんのう》な人にしか思えない。
おれは勢い込んで答えた。動詞だけで。
「聞く聞く!」
「あす、昼、しょけいが」
「……というと?」
「|処刑《しょけい》デス、陛下」
苦々しい口調のコンラッドに、わざわざ英語で教えられる。ヘイゼルも|頷《うなず》いていた。
「ちょ、ちょっと待ってくれコンラッド、まさかこんなことで|駄酒落《だじゃれ》言うような人じゃないよな? そんな|不謹慎《ふきんしん》な人じゃないもんな」
「処刑は処刑だよ、陛下。我々への見せしめだ。|摘発《てきはつ》された反抗者や、さっき言った外海帰りの中から、運の悪いのが引っ張り出される」
「こ、殺されんの?」
横でおれたちのやりとりを聞いていたヘイゼルは、|今更《いまさら》何をと|怪訝《けげん》そうな顔をした。
「魔族は|吊《つる》さないのかい? それにしても急だね、しかもどうした風の|吹《ふ》き回しだろう、ここ何年かは公開処刑は行われていなかったんだが。特にイェルシーが|即位《そくい》してからは、我々への|締《し》め付けも以前よりは|緩《ゆる》くなって喜んでいたのに。ついにあの子も母親と同じ路線に|宗旨《しゅうし》替《が》えってことか」
|忌々《いまいま》しげに|吐《は》き捨てるリーダーに、おれは|胸《むな》ぐらを|掴《つか》みそうな勢いで|食《く》って|掛《か》かっていた。
「助けるんだろ、助けるんだよな!?」
「そうしたいのは山々だが……それで新たにでる|犠牲《ぎせい》と|被害《ひがい》を考えると、そう簡単には決断できない」
「そんな、見殺しにすんのかよ!?」
ヘイゼルは厳しい表情のままで、|曾孫《ひまご》くらいの|年齢《ねんれい》のおれに|肩《かた》を|揺《ゆ》さぶられている。見かねたコンラッドに引き|離《はな》された。
「|判《わか》ってるさ!」
異国の、|他《ほか》の組織の問題だ。|干渉《かんしょう》しすぎるのは良くない。感情的になり、|恫喝《どうかつ》するなんて|以《もっ》ての|外《ほか》だ。
「判ってる! けれどおれにはどうしてもこれが……これがサラレギーの|影響《えいきょう》に思えて仕方がないんだ」
「だからどうだと|仰《おっしゃ》るんですか。|喩《たと》え処刑がサラレギーの|入《いれ》知恵《ぢえ》だとしても、ここは聖砂国で決断するのはベネラたちです。こちらが救出を強要するべきではないでしょう」
ウェラー|卿《きょう》は|尤《もっと》もらしいことを、|憎《にく》たらしいほど冷静な口調で告げた。もちろんおれだって頭では理解しているのだ。けれど未熟な感情面はどうにもならない。数百年前からある土を|蹴《け》り飛ばし、|埃《ほこり》を上げる。
|弾《はず》みで口にしてはならない言葉までが|溢《あふ》れだす。
「あんたは今っ、どっちの立場で物を言ってるんだー!?」
ぶつけてはならない疑問まで。
「おれの仲間なのか、それとも……大シマロンの使者か」
長過ぎる間を置いてから、ウェラー卿は|掠《かす》れた声で|応《こた》えた。
「……どちらをお望みなんですか」
同じ|台詞《せりふ》を|違《たが》わずに、今度はきちんと魔族の言語で|繰《く》り返した。
「陛下はどちらをお望みなんですか」
何も言えなかった。
「お取り込み中悪いんだが」
情報提供者のアチラに渡された紙片を|睨《にら》んでいたヘイゼルが、顔も上げずに割って入った。自分から当たっておきながら、おれは|密《ひそ》かに胸を|撫《な》で下ろす。答えをださずに済んでほっとしていた。
だがほんの|僅《わず》かな|安堵《あんど》は、告げられた内容のせいで|跡形《あとかた》もなく消し飛んでしまった。あの独特の、羽ばたく鳥の連続写真みたいな文字を読みながら、ヘイゼルはぎゅっと|拳《こぶし》を握り締めた。
「いいニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」
「い……」
「ではまず、いいニュースから。今回引き出された運の悪い連中は五人だけだ。通常よりずっと少ない」
それがいいニュースなのか。
「しかしその五人の中に、神族らしからぬ|響《ひび》きの名前がある。それも大人ではなく、少女二人」
ヘイゼルは|呪《のろ》いの言葉でも吐きそうな声で、短いコメントを足した。
「最悪だ」