靴音が響かないように、用心しながら希代子は病院の廊下を歩いて行く。
ともかく、もう面会時間はとっくに過ぎているのだ。その辺は、「働く女性」同士の共感があって、
「仕事が忙しくて、急な約束が入ってしまって……」
と話せば、たいていは入れてくれる。
もちろん、それはでたらめではない。
希代子は、藤村のコラムのカットのことでどうしても出かける必要があったのである。意外に手間どって、倉田に頼まれていたように、「病院へ寄る」のが、こんな時間になってしまった。
もちろん、編集者にとっては遅い時間でもないのだが、世間一般の人にしてみれば、夜もやや更けた、という時刻であろう。
倉田の病室へ顔を 覗《のぞ》かせると、
「何だ、今来たのか」
と、倉田は相変らずベッドで本を読んでいる。
「目が悪くなりますよ」
と、希代子は忠告した。
「そんなことより……大変だろ、校了の合間も」
「いつものことです」
と、希代子は 椅《い》子《す》を持って来て座ると、「それで、幸子さんは?」
「うん、大丈夫だ」
と、心からホッとしている口調で、「今は鎮静剤で眠っている」
「何があったんですか?」
「うん……」
倉田はチラッとドアの方へ目をやって、息をつく。「 ——お前、見たのか、赤ん坊の写真」
「え? ——ええ、ほんのチラッとですけどね」
と、希代子は 肯《うなず》いた。「あれが何か?」
倉田はちょっと言い出しかねている様子だったが、同室の入院患者の耳に入れたくないということもあったのかもしれない。
「廊下へ出よう」
と、倉田はベッドから出てスリッパをはいた。
「いいんですか、起きて。 ——ま、ファックスなんか送ってんだものな」
希代子の言葉に、倉田はちょっと笑った。
——廊下の奥のソファに身を委《ゆだ》ねて、倉田は軽く息をついた。
ちょっとした休憩所のような場所だが、そばに公衆電話があって、ほとんど白髪になった 寝衣《ねまき》姿の女性が声を殺してしゃべっていた。「うん……」「それでね」といった言葉しか聞こえない。
「色々すまんな。忙しいのに」
と、倉田は言った。
「そう謝らないで下さい。子供じゃないんですから」
と、希代子は言った。
実際、倉田がやたら謝るようになったのが、ひどく老けたという印象を与えているのかもしれなかった。
人間、本当に忙しく、精一杯やっているときには、人を巻き込んでも、そう「すまない」とは思わないものだ。
「うん……。 子供か」
と、倉田は 呟《つぶや》いた。
「あの写真の赤ん坊は……幸子さんの子供なんですか」
と、希代子は 訊《き》いた。
「察しはついてたろ?」
「ええ、まあ……。編集長の、じゃないですよね」
「おい、いつそんなことをしたっていうんだ」
と、顔をしかめておいて、「ま、偉そうなことは言えないけどな」
「そうですよ」
「あの赤ん坊は ——幸子が二十歳《はたち》のころに産んだ子だ」
「そんな若いころに?」
「うん。 俺《おれ》も、女房の従妹《いとこ》といっても、幸子のことをよく知ってたわけじゃないから、詳しい事情は知らん。ともかく、子供ができて、堕《おろ》すこともできず、といってその相手と結婚もできなかった、というところだろうな」
「それで……」
「子供は生まれたが、結局、養子に出すことになった。幸子にとっては、そのことがずっと傷になって残ってるんだ」
「それはそうでしょうね」
「どこへもらわれて行ったのか、俺は知らんが、幸子は聞いていたらしい。幸子はその子に会いに行ったんだ」
と、倉田は言った。「いや、見に行った、と言うべきだろうな。向うは何も知らないんだから」
「二十歳のころの子、ってことは ——もう七つぐらいになってるんですね」
「うん。だから、下手に顔を出すわけにもいかないんだろう。 ——結局見られたのかどうか、聞かなかったが、一応納得して帰って来たらしい。疲れ切って、体力を回復させるのが第一だ」
「そうですね、じゃ ——あの、コラムを頼んだプロダクションの人が何か知ってたんですか」
「うん。その子供をもらってくれた家の 親《しん》戚《せき》なんだ」
と、倉田は肯いた。「藤村君には悪いことをした」
「大丈夫。私がうまくやりましたから」
「希代子、藤村君が好きなんだろう」
突然そんなことを言われて、希代子はどぎまぎした。
「何ですか、いきなり! ——妻子持ちなんて趣味じゃないです。今は大学生と付合ってるんですから」
「大学生?」
と、倉田が目を丸くしている。
「こっちの話です」
ピーッピーッと音がして、公衆電話からテレホンカードを抜くと、あの白髪の女性がゆっくりと引きずるような足どりで病室へ戻って行くところだった。
「 ——ここの電話が口をきけたら、さぞドラマチックだろうな」
と、倉田が言った。「年中家族が見舞に来てくれる患者は少ない。この電話だけが、外の世界へ通じてる窓口、って者が大勢いるんだ」
希代子はこの年齢まで入院の経験がない。 ——特に丈夫、というわけでもないが、そこは若さというものだろう。でも、いつか自分もガタの来るときはあるはずだ。
「幸子の所に、もしできたら顔を出してやってくれ」
と、倉田は話を戻して、「あれは君のことを頼りにしてる」
「人に頼られるばっかり。少しは頼ってみたいわ」
と、希代子は少し冗談めかして言った。
「できたら、明日でも寄ってみます」
「うん。頼む」
倉田はホッとした様子で、「次の号は順調に行ってるか?」
「編集長」
「何だ」
「 ——いえ、別に」
希代子は、倉田の髪が一段と白くなっていることに、改めて気付いた。しかし、もう冷やかしてやる気にもなれない。
「仕事の話になると、急に元気そうになりますね」
と、わざと言ってやって、倉田の笑みを見て 安《あん》堵《ど》する希代子だった……。
会社へ行って、一時間ほど仕事をしてから、希代子は帰ることにした。
編集者の仕事は、会社でなくてもできる部分も多い。その代り、仕事と私生活のけじめのつけにくいところはある。
この日も、帰ってから読もう、と書評欄で取り上げる本を 鞄《かばん》に入れて、会社を出た。
奈保の所へ寄って行こうと思い立ったのは、タクシーに乗ってから。昨日のテストのできも気になったし、今が少し息のつける期間でもある。
奈保の家庭教師は自分で、水浜じゃないのだ。水浜に負担をかけるようなことは避けたかった。
「 ——どうも」
タクシーを降りて、希代子は津山家のインタホンを押した。
二度、三度と鳴らしたが、なかなか出ない。 ——出かけたんだろうか?
じゃ、今日はマンションへ帰ろうかと思ったとき、
「はい」
と、奈保自身の声がした。
「あ、奈保ちゃん。希代子よ」
と言うと、
「希代子さん。あの ——少し待ってて」
と、奈保が言った。「すぐ……。二、三分待って」
「うん。いいわよ」
外で待っていて寒いという季節じゃない。お風呂にでも入ってたのかしら。
実際には五分ほどかかって、奈保が玄関から小走りに出てくるのが見えた。
「ごめんなさい!」
「いいのよ。突然来ちゃったから」
「お母さん、出かけてるの。今夜は遅くなるって」
「じゃ、一人?」
奈保は答えなかった。
玄関を上ろうとして、希代子は、見たことのある靴に気付いた。
「今晩は」
と、水浜が出て来て、言った。
「 ——今晩は」
と、希代子は言って、上ると、「来てたの」
「テストのこと、心配して来てくれてたの」
と、奈保が言った。「何か飲む?」
「そうね」
「じゃ、紅茶いれる。 ——邦法さん、飲むでしょ?」
「うん」
「リビングで待ってて」
奈保が軽やかにダイニングキッチンへと駆けて行く。
希代子は、ソファに身を沈めると、
「水浜君が来てたのなら、わざわざ来ることもなかったわね」
と言った。
「そんなこと ——。僕は苦手ですよ、理数系は」
と、水浜は少し照れたように、「でも、 凄《すご》いですね、篠原さん。もう学校出られて何年もたってるのに」
「もう限界よ。奈保ちゃんの家庭教師っていっても、こっちの頭がさびつかないようにやってるだけ。やらせてもらってる、って言った方が正確かな」
希代子は、息をついて、テーブルの上の夕刊に手を伸した。「 ——新聞なんて、何日分もため込んじゃう」
「忙しいんですね」
「そう……。忙しい、って言っちゃったら、何でも逃げられる。それを言っちゃいけないのよね」
と言って、希代子はゆっくりとページをめくる。
でも、記事の内容は少しも頭に入って来ない。新聞を手に取ったのは、たぶん ——自分でもよく分っていないが——水浜と目を合せないための口実だったのだろう。
希代子は大人で、そして奈保が水浜のことを好きだと知っている。母親も外出して、二人きりで家にいて……。
希代子がインタホンのボタンを押したとき、なぜ奈保が出るまでに手間どったのか。そして、それからなお五分もたって、やっと玄関から出て来たのはどうしてなのか。
考えてはいけないことを、つい考えてしまう。そして、希代子自身、自分の想像が、必ずしも見当外れのものでないことを、直感的に察していた。
「 ——お待たせ」
と、奈保が紅茶をいれて運んでくる。
「ありがとう」
「クッキー、食べる?」
「ううん、いいわ。それより、テストはどうだったの?」
奈保の態度も、自然なものとは言えなかった。もし、 何もなかったのなら、却《かえ》って、
「私たちの邪魔して!」
ぐらいは言うはずである。
それが、文句らしいものは口にせず、こうして紅茶をいれて来たりするのは……。
邪推、と言われればそうかもしれないが、希代子は自分の直感の方がたぶん正しいだろうと知っていた。
二人がすでにキスまでは行っていたことも承知している。いくら「そこまで」と言っておいても、この家の中で二人きりになって、大学生と高校生に「理性を持て」と言っても難しいことかもしれない。いい悪いではなく、現実の問題として、だ。
奈保がテストの問題について、あれこれ文句をつけるのを聞きながら、希代子の注意は 脇《わき》にいる水浜へと向いている。
水浜は一切口を挟もうとはせず、そして希代子の方を見ようともしなかった。
「 ——もう行くわ」
と、希代子が腕時計を見て言うと、
「じゃ、僕も」
と、水浜は先に立ち上った。
奈保も、それは分っていたらしく、すぐに立って、
「じゃ、そこまで行く」
「いいわよ。帰りが一人じゃ、却って心配。家にいて、ちゃんと戸締りしておきなさい」
希代子の言葉に、奈保は特に逆らわなかった……。