「タクシーを拾うわ」
と、希代子は歩きながら言った。「水浜君は?」
「僕は電車で」
と、水浜は言って、「学生ですよ」
と 微笑《ほほえ》んだ。
「それもそうか。じゃ、駅まで一緒に行きましょ」
歩くと十五分ほど。苦になるほどの距離ではなかった。
夜道を歩きながら、何となく二人とも黙りがちだった。
「 ——そうだ」
と、希代子は言った。「行方の分らなかった幸子さん、見付かったのよ。無事で ——といっても、また入院してるけど」
「そうですか。良かったですね」
「少し気が楽になった、ってところかな」
と、希代子は言って、「 ——水浜君」
「はい」
希代子は言いかけてためらった。
「大丈夫よね。 ——あなたのこと、信じていても」
水浜は、少しの間、何も答えなかった。そして、口を開くと、
「その幸子さんって、どうして姿を消してたんですか」
と訊いた。
「子供を見に行ってたんですって」
「子供?」
「二十歳のころ産んで……。里子に出した子がいたのね。一度死のうとして、どうしても子供の顔を見たくなったらしいわ」
「その子供も、もう……」
「七つぐらい。小学校へ入るかどうか、ってころじゃない?」
「で、会えたんですか?」
「それは知らないわ。本人は眠ってて。 ——いくら若いころのことで、育てることもできずに、そうして人手に渡したといっても、いつまでも忘れられはしないでしょうね」
「そうでしょうね……。二十歳か。今の僕より若かったんだ」
と、水浜は言った。「希代子さんは……」
「うん?」
「子供って、ほしいですか」
希代子は、少し当惑し、同時に照れて、
「誰の子でも、ってわけにはいかないな。誰かを好きになって、その人の子がほしい、と思うんじゃないかしら」
と言ってから、「 ——さっきは『篠原さん』って呼んだでしょ」
「あ、気が付いてました?」
と、いたずらっぽく笑う。「奈保ちゃんの前じゃ、呼びにくくて」
二人は、また少し沈黙し、駅への道を 辿《たど》って行く。——逆に駅の方から歩いてくる人の流れを、よけて通らなくてはならない。疲れて、重い足どりの人々がほとんどだった。
「 ——希代子さんって、プロですね」
「何よ、急に」
「いつも、疲れたところなんか全然感じさせないじゃありませんか。たぶん、こうやって帰る人の誰より忙しいと思うけど」
希代子は少し肩を揺すって、
「疲れるのは同じよ。ただ ——自分が好きで選んだ仕事でしょ。忙しいとか、面倒くさいとか文句を言ってても、どこか楽しんでるところがあるもの。それが救いね。疲れてても、どこか違う」
希代子は、やっと水浜の方をはっきり見ることができた。「だけど、私だって疲れて誰かそばにいてほしいと思うときがあるわ」
水浜は少しためらってから、
「でも……希代子さんは強い人ですよ」
「強い ——かなあ」
心外だわ、と思う。強いんじゃない。そう見えているだけ。
人に弱みを見せない、弱音を吐かない、という く《ヽ》せ《ヽ》がついているだけ。それが、一人でやって行くための、自分に課したルールのようになってしまった。
二人は駅まで来ていた。
「じゃあ ——」
と、水浜は言った。
「ご苦労様」
つい、「年上の女」を演じてしまう。一番気にしていることを、訊く度胸もないのだ。
水浜は電車の切符を買って、
「じゃあ、また……」
と会釈した。
「気を付けて」
これでいいんだろうか? でも、何と言えばいいだろう?
水浜と奈保の間を取り持ったのは、他ならぬ自分ではないか。
水浜は改札を通り抜けようとして、振り向いた。
「希代子さん」
と、少し離れて呼びかけるように、「奈保ちゃんとは何もありません。この前と同じです。それだけです」
と早口に言った。
そして、ちょっと手を振ると改札口を抜けて駆け出して行く。ちょうど電車の来る音が聞こえたのだ。
希代子は、笑ってしまった。急に気持が軽くなって、もう水浜の姿は見えないのに、
「おやすみ」
と声に出して言うと、駅前のタクシー乗り場へと足早に歩き出した。
そう。心配することなんかなかったのだ。奈保は何といっても、まだ子供だし、どんなに背伸びしたところで、希代子が心配するようなところまでは行くまい。
それに水浜とは、ちゃんと約束してある。希代子との約束を破ったりしないだろう。
心配していた自分が馬鹿みたいで、タクシーに乗った希代子は自分への照れ隠しに鼻歌を口ずさんで、運転手から、
「ご機嫌ですね」
と、言われてしまった……。
マンションの部屋へ入ったとき、もう電話は何度めかのコールをくり返していた。
明りをつけて、留守番電話のテープが回り出すのを聞く。
「 ——希代子。聞いてるか」
白石の声だ。希代子は動きを止め、まるで向うがこっちを覗いて見てでもいるかのように、息を殺した。
「お前には俺しかいないんだ。聞いてるんだろ? 素直になれ。俺はお前を 諦《あきら》めやしないぞ。いやでも俺の所へやって来ることになるんだ。——周りに『迷惑』がかかる前に、俺の所へやって来い。待ってるぞ」
白石はそう言って、短く笑うと、「聞いてるんだ、すぐそこで。そうだろ? 俺には分ってるんだ」
と言った。
プツッと電話が切れる。
希代子は、息を吐いた。 ——白石が、どうしてこうもしつこくつきまとうのか。
希代子は留守電のテープの再生ボタンを押してみた。
「十二件です」
と合成音声が言ってテープが巻き戻った。
十二件? 一体何がそんなにかかって来たのだろう。希代子はメモ用紙を手に取った。
しかし ——再生が始まると、希代子はメモを取ろうと構えていた手を下ろしてしまった。
次々に出てくるメッセージは、すべて白石のもので、しかも、どれもほとんど同じ内容なのだ。
重苦しい気分で、希代子はどんどんテープを早送りして行った。白石以外の録音はわずかに二件。太田和也と久保田からだった。
白石が、そう簡単には引き下がらないだろうと思うと、希代子の気持はまた重苦しく沈んだ。
編集部へ電話を入れてみる。
「あ、カズちゃん? 希代子よ。電話くれた?」
「大丈夫ですか?」
と、太田和也がいきなり訊く。
「大丈夫って……。何が?」
「例の白石って人です。編集部へやって来たんですよ」
「何ですって?」
希代子の顔から血の気がひいて行く。「何か ——騒ぎが?」
「いえ、別に、騒ぎってほどのことじゃなかったんですけどね。ともかく、希代子さんが何ともなけりゃいいんです」
太田の心づかいが、 嬉《うれ》しかった。
「ありがとう。でも……何とかしなきゃね、考えるわ」
「いや、放っといた方がいいんじゃないですか? そうやって希代子さんが出てくるのを向うは待ってるんだから。もし、白石に会うのなら、一人じゃだめですよ。僕も一緒に行きますから」
「カズちゃん、ありがとう」
と、心から言って、「こっちの留守電にも、十回も同じことを吹き込んでたわ」
「そんなことだと思いましたよ。何回かけても、お話し中だったから。心配で、見に行こうかと思ってたとこです。ちゃんと、 鍵《かぎ》をかけて、夜中にでも押しかけて来るようなことがあったら、一一〇番するんですよ」
そう言われて、希代子はハッとした。警察へ知らせることなど、考えたこともなかった。やはり、どこかで白石とのことは自分で何とかしなくてはならないと思っているせいだろう。
「そうするわ」
と、希代子は言った。「久保田さんは?」
「もう帰りました。何か用ですか?」
「いいえ。やっぱり留守電が入ってたから。それならいいの。何か言ってくるでしょ、用なら」
「じゃ、気を付けて下さい」
「うん。まだ仕事?」
「ええ。あと二、三時間はいるつもりです。何かあったら、電話して下さい」
まさか、仕事の邪魔をするわけにはいかない。でも、希代子は、
「ありがとう。そうするわ」
と言って、電話を切った。
ため息をつく。 ——白石のことを、放っておくわけにはいかない。
確かに、白石に会いに行ったりすれば、それこそ向うの思う 壺《つぼ》なのかもしれないが、それでも他人に迷惑をかけるのを放ってはおけない。
「戯れに、恋はすまじ、か」
と、呟く。
バスルームで、バスタブにお湯を入れていると、また電話がかかって来た。
「 ——久保田だけど、自宅に電話を」
という声に、急いで駆けて行って、
「もしもし」
と、受話器を取った。
「やあ、いたのか」
と、久保田がホッとしたように、「心配してたんだ」
「さっき、太田君と話しました。ご迷惑かけてすみません」
「じゃ、聞いたんだね。いや、迷惑をかけてるのは、あの白石って男で、君じゃない。君が謝ることはないよ」
久保田の言い方は、いかにも彼らしく、理屈で割り切ったという感じだった。
「そうもいきません。昔の恋人ですし」
「向うは妻子持ち?」
「奥さんがいて……。もう亡くなったそうですけど。でも、もうとっくに私の方は忘れてたんです」
「しかし、あっちは忘れちゃいないようだ。用心した方がいいよ。暴力を振るうってのは、困ったもんだ。酔ってるせいばかりでもないらしいし」
「暴力を?」
と、希代子は息をのんだ。「あの ——編集部で何かしたんですか」
「聞かなかったのか?」
と、久保田は当惑した口調で、「 ——そうか、君が気にすると思ったんだな、きっと」
「え?」
「太田君を殴ったんだ、その白石が」
「何ですって?」
「まあ、太田も口の端を切ったくらいで、何でもないというんで、一一〇番しなかったんだがね。本当なら、訴えてやってもいいところだよ」
「カズちゃん、そんなこと、何も……。そうでしたか」
「ま、ともかく君も用心して」
「はい……」
何とも言いようがない。
「そうそう。明日の夕方の対談は君、出てくれるか」
「はい、出ます。カメラマンの手配もすんでます」
「じゃ、頼む。僕も出ようと思ってたんだが、用事ができてね」
「私だけで大丈夫です。速記の人もよく知ってますし」
「うん、よろしく」
電話を切って、希代子は急いでもう一度編集部の太田へかけようとした。しかし ——太田はわざと黙っていたのだ。その太田の気持を、大切にしておいた方がいいかもしれない。
思い直して、受話器を置く。
「ありがとう」
と、希代子は呟いた。
別に恋人でも何でもない太田が、ここまで希代子に気をつかってくれる。
一人で生きてるんじゃないんだ。 ——いささか、教訓めいた感想を、希代子はしみじみと抱いたのだった。
「 ——あ、お風呂!」
思い出して駆けつけると、危うくお湯が 溢《あふ》れそうになっていた……。