本来、私たちは形而上の思考をするよりも先に、まず感覚的な形而下の意識を持つことを、神様から許されてこの地上で暮らしてきたはずです。アルキメデスだって、体をきれいにしたほうがサッパリするな、と思って公衆浴場に行ったから、後世に残る大発見をしたのですし、ゲーテだって、「多くの女性にモテたい」と思い続けたから、あの数々の形而上の著作をモノにすることができたのかもしれません。
このように、感性という代物は、芸術のみならず、すべての学術を進歩させる原動力であるはずなのに、いまだに、世の中には、ひとつひとつの行動にもっともらしい理由がくっついていないと安心できない、カワイソーな人たちが大勢、棲息しています。
銀座の文壇バーへ編集者と一緒にお出かけしたところが、テーブルについた女のコのフェースがなかなかで、「ウッ、いい女だ。お店がはねた後、西麻布の焼き肉屋へ誘って、それからホテルへ行ってしまいたい」と、形而下では思ってしまっていても、何食わぬ顔して、青春文学におけるみずみずしさについて、形而上の語り合いをしてしまうセンセーたちは、その最たる例かもしれません。
こうした生理に反した行動をすることが、人間は考えるアシである、何よりの証明だと信じて疑わない人たちにとっては、どんなつき合いでもいいから、まず恋愛をしてみることです、と主張している本書は、実に目障りな本かもしれません。けれども多くの若い男のコや女のコたちは、生理として、異性とつき合いたいと、いつでも思っているのです。そうしたコたちに、旧来の恋愛論を説くことなぞ、一体、何の意味を持ち得ましょう。形而下の感覚も、形而上の思考も、すべての事象が等価値になった今の時代を、素直に捉えるべきだと思います。人間という動物の生理に素直に従って、人間主義的に行動することが、結果的には私たちの歴史を、より一層、進んだものにさせるのだということを、そろそろ、認めなくてはいけないのではないでしょうか。