忙しくないときほど忙しい。
謎《なぞ》々《なぞ》みたいだが、編集者の暮しの中では現実のことなのである。
「これから打ち合せなの。何か連絡とか伝言は? ファックスは入ってない?」
自分でも、いやだなと思うのだが、ついまくし立てるようなしゃべり方をしているのは、別に電話代を節約しているのではない。ともかく一分でも時間が惜しいからで、一つ約束をこなした後、次の打ち合せの場所へ行く前に編集部へ連絡を入れているのである。
「次の打ち合せはFホテル。 ——そう。何かあったら、ラウンジにいるから呼び出して。二十分で行けると思うわ。約束は四時。——え?——何とかなるわよ」
二十分で行くと言って、四時の約束。今はもう三時五十分。これで何とか間に合ったりするのが面白いところだ。
パッと電話を切ると、テレホンカードの戻る間さえ、待ち遠しい。急ぎ足でタクシー乗り場へ。
希代子は、タクシーに乗り込んで、
「Fホテル」
とひと言言うと、息をついた。
わずかに、移動のタクシーの中でだけ息がつけるというのも、決してオーバーではない。
編集の作業そのものも、もちろんないわけではないが、校了間近の時ほど追われてはいない。そういう期間に、先の記事の打ち合せや対談、インタビューなどをこなしておかなくてはならないので、印刷所相手の攻防に神経をすり減らすのとは全く別の意味で忙しい日々なのである。
特に、この時期では、「相手の都合」というものがあって、自分で時間を調整することは難しい。
白石が編集部へやって来て太田を殴るという事件があってから、もう一週間たっていたが、土曜日曜も休みなしに駆け回っていた希代子は、太田にゆっくり 詫《わ》びる暇もなかった。もちろん、太田の方では彼女に何も言ってほしいわけではないだろうが。
その後、白石からは留守電一つ入って来ていなかった。気にはなっていても、インタビューや打ち合せから戻って原稿を書いたりしているともう夜中。
叔父の津山隆一に会って、白石のことを話そうという気持はあっても、とても時間がなかった。
一日一日が、それこそめまぐるしいコマ落しの画面のようなスピードで過ぎ去って行く。
タクシーの窓から、少し傾いた 日《ひ》射《ざ》しがまともに射し込んで、希代子はまぶしさに目を細めた。これで、次の打ち合せがすめば、もう夜になるだろう。
食事までは付合ずにすませたいが、成り行き次第ではそうなるかもしれない。食事だけですめばともかく、その後、どこかで飲もうということになると、何時間もむだにしてしまう。
希代子は次の打ち合せの資料を取り出して、目を通し始めた……。
そうこうする内にFホテルにタクシーが着く。腕時計に目をやると、四時三分。車の流れが順調だったらしい。
これなら、遅れた言いわけを考えなくてもすみそうだ。
希代子が急いでホテルの正面玄関から入ろうとすると、中から出て来た男とぶつかりそうになった。
「失礼しました」
と一言、そのまま行こうとすると、
「希代子ちゃん」
と呼ばれて振り向く。
「あ ——」
叔父の津山である。
こんな所で! しかし、今はとても話している時間がない。
「忙しそうだな」
と、津山が笑って、「風でも巻き起しそうな勢いだよ」
「人と待ち合せてて」
と、希代子は言った。「叔父さん。あの ——」
「分ってる。白石のことだろ」
と、津山は肯いて、「立ち話ってわけにもいかない。今は時間が?」
「今は無理。叔父さん、今夜は?」
「パーティに出ている。来るかね。T会館で七時から」
「七時……。何時までいるの?」
「さあ。君が来るなら、待ってるよ」
少しためらったが、これを逃したら、いつ機会を作れるか分らない。
「行くわ。八時までには」
「分った。待ってるよ」
津山はそう言って、タクシーが待っている方へと歩いて行った。
希代子は気を取り直して、ラウンジへと急いだが、行ってみると、相手から伝言が入っていて、三十分遅れるという。
「何だ」
と呟いて、しかし、人を相手にしている以上、こんなこともある。
オレンジジュースを頼んで、大きな鞄からノートを出し、打ち合せの要点をメモしたページを開けて眺めていると、パサッと目の前に封筒が置かれた。
びっくりして顔を上げると、津山が立っている。
「叔父さん……」
「思い出してね。それ、白石から預かったんだ。君へ渡してやってくれと」
「白石から?」
「うん」
津山は向いの椅子にかけると、「僕もすぐ行かなきゃならん。 ——ああ、何もいらないよ」
と、ウェイトレスに断る。
「叔父さん、白石は ——」
「うん、僕も困ってたんだ。酔うとまともじゃなくなる。一応こっちの仕事にとってメリットがある間はね、それでも何とか付合ってられたが」
「今、白石は?」
「さあ……。故郷へ帰るようなことを言ってたがね。ともかく、プツッと消えちまったんだ」
「消えた?」
「これを置いてね」
と、封筒を見て「中に何が入っているのかは知らない。ともかく君に渡してくれと言われただけさ。じゃ、これで行くよ。詳しいことは、もし今夜来られたら」
と、腰を浮かす。
「叔父さん。白石はいついなくなったの?」
「つい二、三日前さ。たぶん東京にいるだろう、まだ」
「どこに泊ってるとか ——」
「ホテルは引き払ってる。それ以上は僕にも分らない。じゃあ、もう行くよ」
「ええ……」
津山が行ってしまうのを見送って、希代子は首をかしげた。
叔父が何かを隠しているという印象を受けたのである。 ——大体、あの白石が叔父の仕事に何の役に立ったのか。
やはり、津山とはじっくり話す必要がある、と希代子は思った。
そして、封筒を取り上げ、少しためらってから、封を切った。手紙だけというわけではないようだ。
いずれにしても、白石がよこしたものなのだから、希代子にとっては気の重くなるようなものだろう。
手紙が一枚出て来て、広げると、走り書きで、
〈希代子。この写真を見たら、お前も考えが変るかもしれない。
俺は、お前のために苦労してこれをとった。お前は 騙《だま》されてるんだ。
それが分らないのは、まだお前が子供だってことさ。
分っただろう。お前には俺が必要なんだ。必ずお前を連れに行く。 白石〉
乱れた字だった。
ふと、希代子の胸が痛んだ。 ——昔の白石の字を、憶《おぼ》えていた。とっくに忘れてしまったと思っていたのに。
くせのある字ではあったが、どこか型破りなエネルギーを感じさせる字だった。しかし、今は……。
これはただ「乱れている」に過ぎない。ペンを持つ手を、制御できないのだ。
どこか哀れで、希代子は胸がふさいだ。
封筒から三枚の写真が落ちた。
拾い上げて、希代子は悪い夢でも見るように、その写真を見た。
どれも、少しぶれたりぼやけたりしていたが、はっきりと顔は分る。 ——水浜と、奈保。
奈保は学校の帰りだろう。制服で、鞄をさげている。
こんなことが……。まさか!
一枚は、二人がホテルへ入って行くところ。あとの二枚は、二人が同じホテルを出てくるところと、その 類《たぐい》のホテルが立ち並ぶ細い道を肩を並べて歩いて行く後ろ姿だった。
「 ——やあ、待たせて」
打ち合せの相手が目の前に座っても、希代子はしばらく言葉が出て来なかった……。
「カズちゃん、悪いけど ——」
と、希代子は言った。
太田が、仕事から顔を上げて、
「 ——何です?」
希代子は、少し充血した目で頑張っている太田を見ると、何とも言えなくなってしまった。
「ううん、何でもないの。ごめん、手を止めさせて」
「ちっとも」
と、太田は言って、「大丈夫ですか?」
「え? 何が?」
「何だか少しボーッとしてますよ」
「そう?」
と、笑って、「もともとじゃないかな、ボーッとしてるのは」
電話が鳴って、太田が、出ると、
「 ——少しお待ち下さい」
と、送話口を押えて、「電話ですよ、水浜って人」
希代子は、一瞬言葉が出なかった。
「どうします? いない、って言いますか?」
「いいえ、出るわ」
まさか、逃げるわけにはいかない。希代子はちょっと呼吸を整える必要があった。
「もしもし」
「あ、水浜です」
「どうも」
「忙しいんでしょ。すみません」
「構わないわ。何か?」
「実は、ちょっと ——。お話ししたいんですけど。夜遅くてもいいんです。もしお時間が取れたら」
「そうね……。ちょっとこのところ忙しくって。何時に帰れるか、見当つかないの」
「そうですか」
と、水浜が残念そうに、「いつごろでしたら、都合つきそうですか」
「うん……。来週くらい、かな。週末にならないと分らないけど」
「分りました。じゃ、週末にでもお電話しますよ」
「そうしてくれる? 私も連絡するけど」
「はい。またファックスを入れます」
水浜は楽しげに言った。
希代子が電話を切ると、太田はちょっと不思議そうに、
「今、そんなに忙しいんですか?」
「そうでもないけど……」
希代子は机の上のものを片付けながら、「外出先から直接帰るわ。電話入れる。カズちゃん、ずっといる?」
「十時ごろまでは、必ず」
「じゃ、よろしく」
希代子は、席を立つと、「ちょっと取材の下見で出てくる」
「はい、ご苦労さま」
太田の、その何でもないセリフが希代子の耳にはありがたく聞こえた。
希代子は社を出ると、タクシーを拾って、明日、取材しなくてはならない劇場へと向った。
タクシーの中で、一人になった安心感からだろうか、バッグから、あの写真を取り出して、眺める。
そして、希代子は笑った。泣きたいような気分なのに、笑ったのである……。