「ここで……。ありがと」
希代子は、料金を払って、タクシーを降りた。「おつり、いらないわ」
「どうも」
運転手は愛想が良かった。きっと大分余計に払ったのだろう。
希代子は、自分がいくら払ったのか、よく分っていなかった。
少し足下が頼りない。 ——少々酔っていたのである。
希代子は酔ってもそう無茶をしたり、したことを後で憶えていないということはない。楽しい酒であり、陽気になる。
ま、時には街路樹によじ上って、一緒に飲んだ仲間に引きずり下ろされる、といったこともあるが、ご 愛《あい》敬《きよう》というものだ。
しかし ——今夜はどうしても楽しい酒にはなりようがなかった。
マンションのロビーへ入って、足を止める。
「帰ったな」
小さなソファがロビーに置かれている。そこから白石が立ち上った。
希代子は、深く息をついた。
「 ——何してるの」
「酔ってるのか。やけ酒か」
と、白石は笑った。
「心理学者に転向したの? それとも名カメラマンか」
「津山さんに電話したら、今日お前に渡したと言ってたんでな。どうせこんな風になって帰るだろうと思ってた」
「それで?」
「部屋へ行こう。介抱してやる」
希代子は、声を上げて笑った。
「 ——私を介抱? やめてよ。いつも私が介抱してあげて来たわ」
「分ってる。だからあの二人の写真をとった」
「へえ。人の後を 尾《つ》け回して?」
「お前は、人が 好《よ》すぎるんだ。黙って見てられやしないよ。——な、入ろう」
希代子は、白石が寄って来て、肩を抱くのをはねのけようとはしなかった。そうしても良かったし、そう したかったのだが、しなかったのである。
「妙だな」
と、白石がニヤリと笑って、「いつもなら、俺が酔ってて、お前はそれを 軽《けい》蔑《べつ》するような目で見てる」
「一緒にしないで」
と、強い口調で遮った。「あんたとは違うわ」
「しかし、責任を感じてる。そうなんだろう? あのガキと女の子 ——津山さんとこの娘だって?」
希代子は、目をそむけて、
「やめて、用がなきゃ帰ってよ」
「用があるのは、そっちだろ」
白石が、肩を抱く手に力を入れた。「今夜は男がいるさ。 ——そうだろ」
希代子は何も言わなかった。
「さあ、中へ入れてくれ」
と、白石がくり返す。
「待って下さい」
突然、背後で声がした。
振り向いた希代子は、水浜が立っているのを見て、目を疑った。
「水浜君、どうして ——」
「電話の様子が、何となくおかしかったから……」
水浜はロビーへ入って来ると、「その人を離してください」
と、白石へ言った。
「子供は引っ込んでろ!」
白石は邪魔されて真赤になっている。
「やめて」
希代子は、白石の手を、力をこめて外すと、「帰って」
と、白石へ言った。
「お前は ——」
「この子に暴力を振るったら、警察を呼ぶわよ」
と、希代子はきっぱりと言った。「帰らないのなら、この間、編集部の太田君を殴ってるんだから、訴えたっていいのよ」
白石は、じっと希代子をにらんでいたが、やがて 歪《ゆが》んだ笑みを浮かべると、
「お前も甘くなったもんだ」
と言って、「これですんだわけじゃない。 ——そうだとも」
小さく肩をすくめてマンションから出て行く。
ロビーには、希代子と水浜の二人が残った。
「希代子さん ——」
「入って」
と、希代子は遮って言った。
——希代子の部屋へ入って、ソファに身を委ねるまで、二人とも何も言わなかった。
「写真って……」
と、ポツリと水浜が言う。
希代子は黙ってバッグを開け、あの三枚の写真を水浜の前に置いた。
水浜は手に取らず、そのまま見下ろして、息をついた。
希代子は、もう酔いなどどこかへ消えてしまっていた。
「水浜君 ——」
「すみません」
「どうしてなの……」
「僕のせいです。 ——奈保ちゃんを責めないで下さい」
「誰のせいとか訊いてるんじゃないわ。あなた、約束してくれたじゃないの」
「ええ……」
「たったこんな時間で……。奈保ちゃんと、いつからこうなったの?」
水浜は目を伏せたまま、
「この間……希代子さんが急にいらしたとき、そうなりかけたんです。でも、 一《いつ》旦《たん》は希代子さんの気持を考えると……。結局、あの日は何もなく過ぎました。『何も』ってことはないけど……」
水浜は少し照れたように頭をかいた。
「それで?」
「次の日に ——。あの晩、遅くに電話を入れて、奈保ちゃんの気持が変らないと確かめると、もうそのまま……」
「じゃ、それが初めて?」
「ええ。 ——この写真は二度めです、きっと」
希代子にとって、次に訊くことは明らかだった。
——あなた方は、何回寝たの?
しかし、言葉は出て来なかった。
「希代子さん ——」
と、水浜が口を開きかけるのを遮って、
「結局、私が間違ってたんだわ」
と、言った。「奈保ちゃんとあなたを近付けたのは、私だもの。そう……。あなたと奈保ちゃんを近付けて、 何もなしでいろ、と言う方が無理だったのかもしれない」
水浜は目を伏せた。
「 ——もう、これ以上はくり返さないで」
と、希代子は言った。「すんでしまったことは、取り戻せない。でも、母親にも、とても話せやしないわ。ショックでしょうからね」
「はい」
「会えばくり返すことになるわ。もう、奈保ちゃんと会わないで」
「はい」
「奈保ちゃんが大騒ぎするかもしれないけど、すべて私が引き受けて、できる限り、お母さんに気付かれないようにするわ」
「ええ」
「もう……二度と会わないで」
そう言いながら、希代子には奈保にこのことをどう説明したらいいのか、見当もつかなかった。
「 ——ご心配かけて、すみません」
と、水浜がくり返す。
しばらく、また二人が黙ってしまう。
「もう……帰ります」
と、水浜は立ち上った。
「そうね……。その方が ——」
「大丈夫ですか。あの白石って男……」
「私は平気。扱い慣れてるもの。 ——水浜君」
「はい」
「下まで送るわ」
二人は玄関へ出ようとして、自然に足を止めた。
「希代子さんを裏切ることになって ——」
「もういいの。 ——やめましょ、もう会うことないかもしれない。そうでしょう」
「ええ……」
「じゃあ、気を付けて」
と、ドアを開けて、「下までは送らないわよ」
と言った。
「はい」
水浜が靴をはいて、「 ——すみません」
と、もう一度言った。
希代子は、急に涙がこみ上げて来た。
「希代子さん」
「行って!」
「でも ——」
「行って!」
押し出すようにして、水浜を廊下へ出すと、希代子はドアを力をこめて閉め、ロックした。 ——急に体の力が抜けたようで、上り口にペタッと腰をおろしてしまう。
なぜ涙が? どうしてだろう。
水浜は私の恋人でも何でもないのに。
それでも、涙を抑え切れずに、 拳《こぶし》で拭《ぬぐ》った。
水浜の足音は聞こえなかった。ドアの前にじっと立っているのだろうか。
ゆっくり立ち上って、もう一度ドアを開けると、水浜はドアの方を向いて立っていた。
「 ——どうして、帰らないの」
と、希代子は言った。「ともかく……入って」
「希代子さん」
と、水浜は言った。「僕は……」
「いけないわ」
「分ってます。奈保ちゃんにとっては残酷です。でも、本当なんです」
「水浜君。私を……」
「希代子さんの恋人にはなれない。そうでしょう。それが分っていたから、僕は奈保ちゃんを ——」
「そんな言い方、ひどいじゃないの。私の代りにあの子を?」
「分ってます、 卑《ひき》怯《よう》なやり方だと。でも、あのときは、そうするしかなかったんです」
水浜が、希代子の腕をつかむ。
希代子は、何も考えず、ほとんど反射的に、水浜と唇を重ねていた。
堤防が一気に崩れるように、希代子は水浜の肩に頭をのせ、身を預けた。
「上って……」
とだけ、希代子は言った。
奈保のことを、二人とも考えてはいただろうが、しかし、口に出さないことで、今は互いのことだけに没頭することができた。
長い夜が ——二人にとって、長い夜が始まって、それはやがて空が白み始めるまで、終らなかったのである。