ドアをノックしようとして、一瞬ためらう。
「 ——奈保ちゃん」
と、声をかけて、「入ってもいい?」
すぐにドアが開いた。
「希代子さん。待ってたの」
と、奈保がホッとしたような表情で言った。
それを見て、希代子は奈保が 何《ヽ》も《ヽ》気付いていないと分った。安心すると同時に、胸も痛んだが——。
「食欲ないんだって?」
と、中へ入って、「だめよ。奈保ちゃんの年ごろは、何があっても食欲はあるっていうのが普通」
「うん。 ——お腹《なか》はペコペコ」
「じゃ、どうして食べないの?」
「何となく。食べると、彼が逃げてっちゃいそうで」
理屈ではない。自分が苦しめば相手に通じるという、いわば「願かけ」の精神だ。そんな奈保の気持も分らないではない。
「水浜君がどうしたっていうの?」
と、希代子は奈保の勉強机の前の 椅《い》子《す》に座り、奈保はベッドに腰をかけた。
「ここんとこ……会ってくれない」
と、奈保はしょげている。
「忙しいんじゃないの?」
「うん……。そう言ってるけど。レポートが重なったり、定演が近いし、とかって」
「定演」とは「定期演奏会」の略だ。クラブのメンバーはそう呼ぶ。希代子もそうだった。
「じゃ、仕方ないわよ。何といっても、彼は学生なんだもの」
「うん……。分ってる。だけど ——」
「だけど?」
奈保は、少しためらっていたが、
「でも……。何となく分るの。私に会いたがってないってことが」
「それは ——」
「気のせいじゃないわ。電話して、私だと分っても、前みたいに楽しそうに話してくれないし、いつごろになったら会えるか、はっきり言ってくれない」
奈保は、じっとカーペットの模様を足の先で 辿《たど》りながら、「きっと……他に好きな子ができたんだわ」
「そんなこと……。分らないでしょ。忙しくて 苛《いら》々《いら》してるだけかも。コンサートマスターって仕事は、オケの中のゴタゴタをうまく解決して、まとめていかなきゃいけないのよ。そういう悩みは、奈保ちゃんに話してもしょうがないし、ついそんな風になっちゃうんじゃない?」
「 ——そうかなあ」
奈保も、何から何まで打ち明けられないもどかしさを感じている。希代子にもそれはよく分った。
奈保は、自分と水浜がもう寝てしまった間だということを、決して希代子に知られてはいけないと思っている。だから、自分の印象が「絶対に正しい」と言い切れないのだ。
「希代子さん」
と、奈保は言った。「 訊《き》いてみてくれない?」
「何を」
「 あの人に。——誰か好きな人ができたのかって」
希代子は、すぐには言葉が出て来なかった。
「 ——そんなこと、だめよ」
奈保がゆっくりと希代子を見る。
「どうして?」
「どうして、って……。私が訊いたって、本当のことを言ってくれるとは限らないもの。そうでしょ?」
「でも、私よりは言いやすいはずよ。あの人、希代子さんのこと、尊敬してるし」
「尊敬?」
「よく言ってるもの、『プロだなあ、あの人』って。これからは女の人もあんな風でなくちゃって。 ——だから、きっと希代子さんになら本当のことを言ってくれる」
「もし……訊いてみて、もしも、よ。水浜君が、他に好きな子がいる、って言ったら、どうするの?」
奈保は、唇をかんでじっとうつむいていた。 ——残酷な質問だった、と希代子は後悔した。奈保に、そんなときの心の準備をしておけと言っても、十七歳の少女には無理なことだ。
「分んないけど……」
と、ゆっくり言葉を捜しながら、「でも、はっきりしなくて不安でいるより、その方がいい」
そうだろうか? 奈保が期待しているのは、自分の不安を否定してくれることで、心配が事実と知らされるよりも、何も知らない方が良かった、ということにもなりかねない。
しかし、今の奈保は、そう言うしかなかったのだろう……。
「お願い希代子さん」
と、奈保がまた希代子を見つめる。
希代子は、「第三者」として、その視線を受け止めなければならなかったのである。
「お願い」
と、奈保はくり返した。
「待たせてごめんなさい」
と、希代子はマンションのロビーに足早に駆け込んだ。
「忙しいんでしょ」
と、水浜が立ち上る。「本、読んでたから、大丈夫ですよ」
「色々あって……。お弁当、すぐそこで買っちゃった。もう少し ましなもの、用意するつもりだったんだけど」
「いいですよ」
と、水浜は笑顔で言った。
一時間近くも水浜を待たせてしまった。
「 ——これが仕事の約束なら大変」
と、部屋のドアを開けて、「上って。少し暑いくらいだったわね、昼間」
「ええ。何か手伝いましょうか」
「座ってて。やってもらうほどのこともないわ」
と、希代子はそっと言った。
ファックスがカタカタと音をたて始めた。
「ファックスが入ってますよ」
「いいの。放っとく。まだ帰ってないことになってるんだから」
希代子は寝室へ入ると、手早く着がえた。
お茶をいれただけで、あとはお弁当を食べる。楽といえば楽だ。
「何があったんですか?」
と、水浜が言った。
「どうして?」
「何だか無口だから」
「いつも、そんなにおしゃべり?」
と、少しおどけて訊いてから、「そうね……。いつも私ばっかりしゃべってるかもしれないわね」
「そんなことないですよ」
「話し相手ができて、 嬉《うれ》しいのかな、たぶん」
「いくらでも聞きますよ」
と、水浜は言った。
「ありがとう」
希代子は 微笑《ほほえ》んで、「でも——今日は話すのは後にしましょう」
と言って、またお弁当を食べ始めた。
何の 後《ヽ》に《ヽ》?——もちろん、二人ともあえて言わなくても分っていたのだ。
もう、何度めになるだろう。
軽くキスしてから、希代子が先にシャワーを浴び、ベッドに入る。水浜がシャワーを浴びている間、何かCDをかけて二、三曲聞き、シャワーの音が止ると、音楽も止める。
そんな「手順」ができ上っていた。それは、まだ長くない恋人たちにとって、通り慣れた道を行くような安心感をもたらした。
今夜も、そのパターンは守られるだろう。希代子には分っていた。
肌がほてって、かすかに汗の 匂《にお》いが「男」を感じさせた。
「 ——奈保ちゃんの所に寄ってたの」
と、希代子は言った。
「そうですか。 ——何か言いました?」
こんな仲になっても、水浜は言葉づかいを変えない。そこがいかにも水浜らしくて、おかしかった。
奈保に頼まれたことを話すと、水浜は当惑した様子で、
「そんな風に思ってたのか」
と、呟くように言った。「普通に話してるつもりだったんですけど」
「でも、会わないようにしてるでしょ」
「それは……。どんな顔をして会えばいいんですか」
「ええ……。分ってるけど」
希代子は、毛布を胸まで引張り上げて、「ともかく、奈保ちゃんを放っておくわけにいかないでしょ」
「そうですね。だからって……」
「もちろん話せやしないわ、本当のことは。絶対に知られちゃいけない」
「分ってます」
希代子は水浜を抱き寄せた。 ——若い水浜が女に慣れているわけはない。白石との間は、何の楽しみもない、ただ辛《つら》いだけのものでしかなかったが、それからここで一人暮す間、ずっと男がいなかったわけではない。
けれども、結局、ただ楽しむために男と寝ることが自分にはできそうにないと気付いてから、もうずいぶん長いこと、男に触れたことがなかった。
水浜の、子供のようにすべすべした肌は、希代子の多少おずおずとしがちな反応に良く似合った……。
「 ——離れたくない」
と、水浜は希代子の胸に頭を埋めて、 囁《ささや》くように言った。
「私もよ」
希代子は、自分に向って言うように、小さな声で言った。水浜に聞こえてほしくないみたいだった。
「 ——泊って行ってもいいですか」
「大丈夫なの?」
「ええ。明日は十一時ごろまでに大学へ行けばいいから」
「じゃあ……朝のコーヒーをいれてあげる」
と言って、希代子は笑った。
こんなTVドラマのようなセリフを口にするのが、楽しかった。
夜、水浜は深く眠り込んでいる。
希代子は、そっとベッドから出ると、手早くパジャマを着て、寝室を出た。
それほど神経を使うこともないのだ。 一《いつ》旦《たん》寝入ってしまったら、水浜はそう簡単に目を覚ましたりしない。
ファックスに目を通し、何本か電話をかける。もちろん真夜中を過ぎているが、みんな遅くなら、何時でも起きているという人間ばかりだ。つくづく妙な世界にいるのだと思う。
急ぎの仕事が入っているわけでもなく、ホッとした。
台所へ行き、冷蔵庫からジュースを出して飲む。 ——普段なら、一番張り切って仕事をしている時間だ。目が冴《さ》えてしまうのは、水浜と愛し合ったところで、どうにもならなかった。
ワープロを運んで来て、ダイニングのテーブルにのせると、簡単なグラビアのキャプションを打ち始める。大体決ったパターンがあるので、楽な仕事だ。
倉田が編集長だったときには、いくつか打って持って行かないと文句を言われたものだが、久保田になってからは、何しろ希代子の方がベテランだ。そういう点、楽ではあるが、責任も感じてしまう。
電話が鳴って、留守の応答テープが回る。誰だろう?
耳を傾けていると、
「希代子ちゃん。津山だ。いたら出てくれないか」
津山隆一である。少し迷ったが、希代子は駆けて行って、受話器を上げた。
「 ——はい」
「やあ、いたのか」
と、ホッとしたような声。
「家で仕事してるんです」
と、希代子は言った。「何か?」
「ちょっとそっちへ行っていいか。話したいことがあるんだ」
声が近い。
「今、どこ?」
「君のマンションから五、六分の所だ」
「ここは……。編集部の人が泊ってるの、二人も」
と、とっさに言った。
お互い、忙しいときは泊り込むこともよくある。
「じゃ、出て来られないか。大して時間は取らせない」
と、津山は言った。
希代子はずっと白石のことを気にしていた。
編集部の太田を殴ったり、水浜のことにしても脅しに近いことをやっている。心配だった。
自分の身はともかく、水浜にもし何かあったら、と思うと、このまま放っておけない。あれ以来、白石からは連絡も途絶えているが、簡単に諦める男ではないことも分っていた。
「いいわ。マンションの下で待っていて」
と、希代子は言った。
寝室へ戻ると、水浜の寝息が聞こえていた。 ——若いころでなくては、こんな風に眠ることはできない。
希代子は、パジャマを脱いで、薄暗い中で服を引張り出した。