十一時に目が覚めた。 ——午前の十一時である。
日曜日にしては早い方だ。特にゆうべは夜もレイアウトのことでデザイナーと打ち合せ。ついでに(?)アルコールも加わって、午前二時くらいまで飲んでいた。
帰って来てシャワーを浴び、一息ついてベッドへ潜り込んだのが午前三時半。この一週間は忙しかったので、くたびれた。
十一時に起きたといっても、パジャマ姿のままでファーと 大《おお》欠伸《あくび》をしつつソファで朝刊を開くという、誰か訪ねて来たらあわてなくてはいけない格好。
冷蔵庫から出したグレープフルーツのジュースのすっぱさが、希代子の目を覚ましてくれる。
新聞を開きながら、目はつい記事より雑誌広告の方へ向く。扱っているテーマ、切り口、執筆者の顔ぶれ。 ——一つ一つを、自分のところの雑誌と比べる。時にはギョッとするほどよく似た企画に出くわすことがあって、そんなときは、
「みんな似たようなことを考えるのね」
と思って、ややがっかりする。
やはりそこは契約社員という「フリー」に近い立場だ。「安全確実」よりは「ユニーク」を 狙《ねら》う方が性に合っている。
しかし、ともかく今日のところは類似の記事にはお目にかからなかった。とりあえずホッとする。
新聞をテーブルに投げ出し、空になったグラスを手にして台所へ行きかけ、ファックスが来ているのに目を止める。 ——字を見るとすぐに分る。水浜からだ。
〈希代子さん、おはよう! もう昼ですか?〉
「よくご存じで」
と、希代子は 呟《つぶや》いた。
〈今日はオケのリハーサルで、一日中先日と同じホールにいます。午後三時には終りますが、その後どこかで会えませんか?
一応、ホールのロビーを捜してみます。無理はしないで下さい〉
無理はしないで、か……。でも、好きな相手なら、「無理を言ってほしい」と思うものだ。無理をすることが楽しい。
そして、希代子は喜んで無理するつもりだった。
現金なもので、急に頭もスッキリして目が覚める。天気を見るとまずまずの「晴れときどき曇」。
何か軽くお 腹《なか》に入れて、あのホールへ少し早めに着こうとすれば、それほどのんびりしてはいられない。希代子は、洗面所へ行って顔を洗った。
タオルで顔を 拭《ふ》いていると、電話の鳴るのが聞こえた。 ——水浜かな?
急いで駆けつけると、
「 ——はい」
「あ、希代子さん、いたの」
奈保である。
「あ……。今日は。どうしたの?」
「うん……」
と言いにくそうにしている。
無理を頼んでいる、と自分でも分っているのだ。
「ごめんね、忙しくて今週、まだ水浜君と話してないの」
「うん、いいの。それは別に」
と、早口に言う。
もちろん、それが 訊《き》きたかったのに決っている。だが、怖《おそ》れていた返事を聞くより、「まだ話してない」と言われた方が気楽なのだ。
少しでも希望を持てるからである。
「あのね、今日、映画見に行くんだ」
と、奈保は言った。
「へえ、いいわね。一人で?」
「二枚、チケットあるんだけど、希代子さん行かないかな、と思って。今日も仕事なの?」
「うん。ごめんね、付合えなくて、インタビュー抱えてて。お友だちでも誘ったら?」
「そう。じゃ、そうするかな」
たぶん、奈保は水浜の所へ電話している。そして、留守電になっているのを知って、「電話して」と吹き込み、待っていたのだろう。
でも、結局、水浜からはかかって来なかった。だからこうして希代子の所へかけて来たのだ……。
「何を見るの?」
と、希代子は訊いた。
奈保が言ったのは、あまり恋人同士には向かないと思えるコメディだった。でも、二人にとって切実な問題でもあることを、スクリーンで見たくなかったのかもしれない。
「 ——ごめんね、邪魔して」
と、奈保は言った。
「ううん。ちっとも構わない。連絡するわね、できるだけ早く」
「うん。お願いします」
「じゃあ」
「今度、木曜日は来られる?」
「たぶんね。電話するわ、そのことも」
と、希代子は言った。
少なくとも、木曜日には奈保に水浜の「返事」を伝えないわけにはいくまい。何を、どう言えばいいのか、希代子には何の考えもなかった……。
ともかく今は出かける仕度だ。希代子はことさらに急いで外出の用意をした。
電話かファックスで「急用!」と呼び出されない内に、という気持ももちろん希代子をせかしたのだが、早く電話から離れたくもあったのである。奈保がすぐそこにいて、じっと電話を通して、こっちを見ているような気がして……。
重い扉を、力をこめて開けると、大きな音の塊がぶつかって来た。
ちょうど曲の終りの部分だったらしい。シンバルが派手に打ち鳴らされ、金管楽器が高らかに鳴って、弦楽の音はほとんどかき消されてしまいそうだった。
希代子は、空っぽの客席の隅の方に立って、指揮者が「OK」と言うように 肯《うなず》いて見せるのを眺めていた。
「 ——じゃ、ここで三十分休み」
と、指揮者が言った。「後は第三楽章を重点的にやろう」
ザワザワとして、みんなが立ち上る。
コンサートマスターの席にいた水浜は、目ざとく希代子を見付けていたらしい。ヴァイオリンを 椅《い》子《す》の上に置くと、ステージからポンと飛び下りてこっちへやって来た。
「 ——早いですね」
「少し練習が見たくて。迷惑じゃない?」
「ちっとも」
と、水浜は首を振った。「ロビーへ出ましょう」
二人は、人のいない明るいロビーに出て、ソファに腰をおろした。
「何時ごろまでかかりそう?」
「少しのびて……。でも、後は大して手間どらないと思います」
と、水浜は言った。「仕事、大丈夫なんですか」
「大丈夫だから来たの」
「そうか。 ——大丈夫じゃないけど、来たって言ってくれたら、もっと 嬉《うれ》しいな」
希代子は笑って、
「根が正直なの。仕方ないでしょ」
と言ってやった。「夕ご飯、食べましょうか」
「ええ」
水浜は、ちょっとためらってから、「奈保ちゃんと ——話しましたか」
「出て来るとき、電話があったけど、まだあなたと話してない、って言ったわ。 ——胸は痛むけど、しょうがないでしょ」
こんなことを言っている自分が信じられなかった。
自分は大人で、水浜よりずっと年上で、奈保を守ってやる立場にあるのに、こうして傷つけている。平気で、とは言わないにしろ、水浜と会う楽しみが、奈保への後ろめたさを圧倒していた。
ソファの上で、希代子の手が水浜の手に触れた。柔らかく握りしめてくるその手の感触と暖かさは、 真《まつ》直《す》ぐに希代子の心臓を射抜く矢のようだった。
「不思議ね」
と、希代子は言った。「こうしてると落ちつくの。自分の部屋にいるよりずっと」
水浜は何も言わずに 微笑《ほほえ》んでいるだけだった。
「今日は ——少し遅くなっても、大丈夫?」
と、希代子は訊いた。
「ええ。来週は忙しいんでしょ」
「そう……。校了に入るからね。連日朝帰り、ってことになるわね。今月は入稿遅れてるのが多いし」
「じゃあ……今日、少しゆっくりしましょう」
正直、仕事に追われてくたびれ果てて帰っても、水浜に会いたくてたまらないときがある。けれども、朝の五時や六時に水浜を 叩《たた》き起こして会うわけにはいかないし、たとえ六時に寝ても昼前には起きて出勤だ。とてもそんな余裕はなかった。
「本番はいつ?」
と、希代子はホールの方へ目をやって訊いた。
「次の日曜日です」
「今度の日曜かあ……。仕事、残ってるだろうな」
「無理しないで下さい。希代子さん、体でも壊したら大変だ」
「ええ……。でも、できたら聞きたいわ」
希代子は水浜のツルツルと光った額や 頬(ほお)を眺めた。肌の若々しさ、それはやはり二十代初めの若者のものだった。
足音がして、二人はパッと手を離した。
「水浜さん」
と、下級生らしい男の子がやってくる。
「何だ? 時間あるだろ、まだ」
と、水浜が振り向く。
「ええ。楽屋口にお客さんです」
「客?」
「あの女の子ですよ、前に来てた」
水浜と希代子は素早く目を見交わしていた。
「 ——どうしますか?」
「うん。すぐ行く。待ってて、と言ってくれ」
「はい」
と、その男の子が戻って行く。
希代子は腰を浮かして、
「こっちへ来たら ——」
「大丈夫でしょう。でもどうして……」
「ここのこと、どこかで聞いたんだわ、きっと。ね、行って。ここへ来たら困るわ」
「でも、希代子さんがいたって ——」
「だめ。今日は仕事って言っちゃってある」
「分りました」
水浜は、心残りな様子だったが、足早にホールの扉の方へ戻って行く。
前にもここへ来て、奈保も中の様子を知っている。案内される前にここへやって来たら?
希代子は足早にロビーの奥の方へと駆けて行った。
「 ——やあ」
と、水浜が言う声。
「何してるの?」
奈保が、自分で扉を開けて出て来たところだった。
「一息いれてたのさ」
「まだ時間ある?」
「うん。 ——中へ入ろう」
水浜が重い扉を押えて、奈保は中へ戻って行った。水浜がそれについて中へ入り、扉を閉めようとしてロビーの方を向く。
希代子は、胸に手を当てて、何度も息をついた。 ——奈保は気付かなかっただろうか?
水浜の体に隠れて、ロビーを見渡すことはできなかっただろうが……。しかし、一瞬その気になれば希代子の姿を見られただろう。
希代子は、ロビーの壁に並んだ自動販売機のかげに身を隠したのだった。
扉が閉じて、ロビーへもう二人の声は 洩(も)れて来なかった。
希代子は、そのまま化粧室へ行くと、息をついた。まるで何百メートルも走った後のようで、ぐったりと疲れた。
もちろん、奈保は単に気が変ったというだけのことだろう。どこかで今日ここでリハーサルがあるのを知って ——もしかしたら、水浜自身が前に話していたのかもしれない ——やって来てみたのかもしれない。
それにしても……。もしここで顔を合せていたらどうなったか。
そうなればなったで、隠していなくてもいい、とも思い、奈保の受けるショックを考えれば、とんでもないことだとも思った。
——少し落ちついてから、希代子は化粧室を出た。
ロビーで足を止め、どうしたものか迷ったが、わきの階段から二階席へと上って行った。
扉の一つを開けて、足音をたてないように中へ入ると、またメンバーたちが戻って来て、めいめい楽器を鳴らしている。
色々な旋律や和音や音階が入り混って、不思議な音楽のように立ち上ってくる。
一階席をそっと見下ろすと、水浜と奈保が座席に並んで座ってしゃべっている。
そして、水浜は立ち上るとステージへ戻った。奈保は前の座席の背に両腕をのせ、身をのり出すようにして眺めていた。
水浜がヴァイオリンを手にして弦を弾く。周りの何人かがからかったらしい。水浜は苦笑いした。
希代子は、そっと扉の方へ戻り、外へ出た。
下のロビーから楽屋を抜けると、裏手に出る。ふと足を止め、 一《いつ》旦《たん》また中へ戻った。
楽屋口の電話の番号を書き止めて、外へ出ると、希代子は数分歩いて電話ボックスへ入った。
かけながら振り向くと、ホールの建物が見えている。
「 ——あ、もしもし。恐れ入りますが、今リハーサル中のオーケストラのコンサートマスターをしている水浜さんを呼んでいただけませんか」
と頼むと、三、四分待たされた。
待っている間に腕時計を見る。 ——向うが出た。
「はい、水浜です」
「私よ」
「今 ——どこですか?」
「外にいるの。もう大分歩いちゃった」
と、希代子は言った。「奈保ちゃん、何か言ってた?」
「いえ……。いつも通りですよ」
「わざと明るくしてるのよ。何か言って、あなたを怒らせないように」
「でも ——」
「聞いて」
と、希代子は遮った。「今日は、ともかく奈保ちゃんを安心させてあげて。ずっと一緒にいなくても、ともかく心配することはないんだと思わせるように。 ——いいでしょ?」
「だけど、僕は……」
と、水浜はためらった。
「気持は分るわ。奈保ちゃんを 騙《だま》すことになるし、それがいいことかどうか分らないけど ……。今はともかくそうするしかない。ね、分るでしょ」
「 ——分りました」
「お願いね。また……会えるわ」
「今日は ——」
「もう帰るわ。寄る所があるし」
と、希代子は急いで言った。「夜でも、電話するから……」
不意に言葉に詰って、希代子は電話を切ってしまった。
そして、電話ボックスを出て歩き出すまでに、数分の時間が必要だったのである……。