「日曜日で、看護婦の数も足りなかったんですけどね」
と、中年の医師が言った。「まあ、しかし相手は大人ですから。こちらとしては二十四時間見張っちゃいられませんし……」
「分ってます。よく承知しています」
と、希代子は言った。
何も言ってはいない。病院を責めたりしているわけではないのだ。
医師が、「病院の責任を問われても困る」と言いたげにくり返すのを聞いて 苛《いら》立《だ》っていたのである。
どんな苦情を言ってみたところで、死んだ幸子が戻って来るわけではない。
病院に着いたのは希代子の方が先だった。追っつけ倉田も来るだろう。自殺というので、警官もやって来ている。
希代子は、ここへ来てやっと幸子の死が本当なのだと知った。昼間、見舞ったときには笑い声まで上げていたのに……。
「 ——家族の方ですか」
と、警官に 訊《き》かれて、
「いえ……。知り合いです。今 ——親類の者がこっちへ来ると思います」
倉田の妻が細川幸子の 従姉《いとこ》だから、倉田を「遠い親類」と呼んでも、間違いでもないだろう。
いずれにしても、誰か「身内の人」がいてくれないことには、警察の方でも困るのだろうと希代子は思った。
専務の西山は知っているのだろうか? こんな夜中に、知らせたとしてもここへ駆けつけるわけにはいくまい。
だが ——。希代子は薄暗く、寒々とした病院の廊下を眺めて、思った。人の死ぐらい、予感できないものはない。
大人が、「死のう」と本気で決心したら、それを止めることは誰にもできない。
あの幸子の明るさは、すでに「心を決めて」しまったための明るさだったのか……。
警官が当直の医師と話を始めて、希代子はごく自然に幸子のいた病室へと足を向けていた。 ——入ってもいいものだろうか?
見ていると、看護婦が一人、足早に廊下をやって来て、よその病室へ入って行った。
「どうしました?」
と、患者に訊く声が聞こえてくる。
希代子は、病室の名札に、〈細川幸子〉の名を見て、胸が痛んだ。そっとドアを開ける。 ——眠っている他の患者を起こしてはいけない。
暗い中、そっと足を進めると、毛布をめくった幸子のベッドが目に入って来た。たった今、ベッドを抜け出て行ったような……。
そのベッドのわきに立って、そっと手をシーツへ当ててみると、錯覚だったろうが、少し暖かいような気がした。
「ねえ」
と、急に声をかけられ、びっくりして声を上げそうになる。
「すみません、起こしちゃいましたか」
と、希代子は小声で言った。
「いえ、起きてたのよ」
昼間、幸子を見舞ったとき、話を交わした中年の女性である。
「あなた ——昼間、来てた人でしょ」
と、低い声で訊く。
「ええ」
「幸子さん、亡くなったのね」
希代子は言葉が出なかった。その女性は続けて、
「聞いたわけじゃないのよ。自殺なんて、みんな、決して口にしないわ。でも、なんとなく分るもんなのよ」
「そうですか」
と、希代子は、少しためらって、「あの ——」
「何だかおかしいな、とは思ってたの」
と、その女性は天井を見上げて、「ずっと落ち込んで、元気なかったのが、少し明るくなってたでしょ?」
「ええ……」
「何かあったな、って思ってね」
「何かお心当りでも?」
「いいえ。少なくとも、あんたのせいじゃないわね。あのときには、もう死ぬつもりでいたのよ」
「だとしても……最後の見舞客だなんて、 辛(つら)いですね」
と、希代子は幸子のベッドを見た。
「昨日来た人が……」
「昨日?」
「そう。正確に言うと、おととい? ——何だかあの人が決心させたのかもしれないわね」
希代子は、ちょっとためらって、
「それって ——男の人ですか」
「そうみたい。というか、直接は見ていないの。看護婦さんが呼びに来て、廊下の休憩所で会ってたみたいだから」
誰だろう? ——倉田ではあるまい。いや、確かめたわけではないが、倉田ならそう言うだろうし。では専務の西山か?
他の男が幸子を訪ねて来ることもないとは言えないにしても……。
「その人と幸子さん、長く話してたんですか?」
「いいえ。そんなじゃなかったわよ。せいぜい五分かな。戻って来たとき、あの人、真青だった」
「何か言ってませんでしたか」
「何も。 ——訊かれたって、何も答えなかったでしょうけど」
「そうですね」
と、希代子は言った。「もし ——」
病室のドアが細く開いた。ちょっと 覗(のぞ)き込むシルエットで、倉田だと分る。
希代子は急いで廊下へ出た。
「すまん。遅くなって」
と、倉田は言った。
「警察の人が ——」
「うん、分ってる。今話した」
と、倉田は 肯《うなず》いた。「君にも悪いことをしたな」
「そんなこと、いいの」
と、首を振って、「何か、それらしい徴候、あった?」
「分らん」
と、倉田は首を振った。「何があったのか……。しかし、彼女は結局、何も変っていなかったからな」
「変る、って?」
「状況が、さ。俺は別の仕事も見付けて、少なくとも自分を忙しくさせてる。しかしあの子は……」
「いけないわ」
と、希代子は倉田の肩に手をかけた。「結局、本当の理由は、当人にしか分らないんだから。想像して自分を責めちゃいけないわ」
「うん……」
と、倉田はため息をついた。「分った。 ——君の言う通りだろう」
「専務はこのことを?」
倉田はちょっとためらって、
「知ってる。 ——それで来るのが遅くなったんだ」
と言った。
「どういうこと?」
「自宅の電話へかけた。専務の専用の番号があるんだ。しかし誰も出なくて、奥さんにことづけるわけにもいかないし、困ったんだが……。それで、もしやと思って他の番号へかけてみた」
「他の番号?」
「うん……」
倉田が目を伏せた。希代子にもピンと来た。
「女の所?」
「ああ。もう前に切れた女を知ってたから、万に一つ、専務がどこにいるか知ってるかもしれないと……」
「かけてみたら、 そこにいたってわけね」
「よく分るな」
「分るわよ」
と、希代子は腕組みをした。「ぶん殴ってやりたい」
「むだだよ」
「そうね」
と、希代子は肩をすくめた。「そういう人だと思うしかないのね」
希代子は、倉田を見て、
「で、何て言ってた?」
「専務か? 『すぐには行けない』と言っただけだ。連絡してくれと頼まれたけど」
「そう……」
「そんなものさ」
もし、幸子が死んだのが、西山のせいだったとしたら……。
幸子の死を「むだ」だと言うのは、彼女にとって、もっと不幸を重ねることになるのだろうか。
希代子は、空しさばかりを抱いて病院を後にした。
「 ——遅れてごめん」
と、希代子は編集部へ入って言った。
「あ、チーフ。メモがそこに」
と、太田和也が言った。
「ありがとう」
出社したのは、もう午後の二時。メモには、電話しなくてはならない用件が七つも並んでいた。きちんと時間も書き込まれていて、後からどんどん書き足しているのが分る。
その点、太田は全く理想的な部下である。
希代子は、せっせと電話をかけまくった。 ——七件の用事、全部をすませるのに、三十分もかかった。
「四時に打ち合せだ」
と、時計を見て、「大変!」
「おい、篠原君」
と、久保田が呼んだ。「手は空いたか」
「は? ちっとも。 ——でも、耳だけなら、何とか」
「専務が呼んでた。今いるかどうか分らんが、連絡してみてくれ」
希代子はチラッと久保田を見て、
「分りました」
と言うと、電話へ手をのばし、全く別の所へかけた。
十分ほどして切ると、編集部を出る。
西山の部屋へ行ってみると、秘書の女の子が、いぶかしげに、
「どなたですか?」
と、希代子を見上げる。
「そっちから言って来たのよ、用があるって。 ——篠原希代子」
「ああ、篠原さんですか。専務、さっきまで待っておられたんですけど、お出かけになってしまわれました」
「そう。じゃ、いいわ」
と戻りかけて、
「今、出社ですか?」
と訊かれた。
「そうよ。何しろ吸血鬼の血を引いてるんで、朝は弱いの」
と言って、さっさと編集部へ戻る。
「あ、ちょうど ——。電話です」
と、太田が言った。
「ありがとう。 ——はい、篠原です。 ——もしもし?」
白石か、と身構えた。
「僕です」
水浜の声に、希代子は一瞬で気分が変った。
「 ——昨日はごめんなさい」
と、小声になって言う。
「いえ……。夜、電話したかったんですけど、何だか、かけ辛くて」
「良かったのよ。夜中、急用で出てしまってたから」
「何かあったんですか」
「会って話すわ。 ——あれからどうした?」
「久しぶりで、ホットドッグなんか食べて、奈保ちゃん、ずいぶんご機嫌が直ったみたいでした。よく笑ったし」
よく笑った。 ——そう聞いて、反射的に幸子のことを思い出す。
笑っていたからといって、本当に楽しんでいたとは言えないのである。
「でも、用心して」
会社の電話だ。希代子は、
「また今夜かけて」
と言って電話を切ったが、心は重苦しかった。
「チーフ、大丈夫ですか、時間?」
と太田に言われ、
「大変だ! 行ってくる!」
希代子は編集部を飛び出したのだった。