夕方から雨になった。
打ち合せを終えた希代子は、夕食を誘われたが、
「編集部へ戻らないと」
と言って断り、一人で食事をした。
——何だかんだと言って、結局、こうして一人で食事するのが一番気楽なのだ。
もちろん水浜との食事は楽しいが、奈保への「申しわけない」という気持がいつもあるし、といって、仕事仲間と、原稿や印刷所のことで文句ばっかり言いながら食べるのもおいしくない。
それならいっそ一人の方が ——。
一人の方が? でも、そう言っている内に、いつまでも一人のままで終ってしまうのかもしれない。
二人だったら、たとえ気はつかって疲れたとしても、何か他にかけがえのないものを手に入れることがあるかもしれない。「楽なこと」が人生を楽しいものにしてくれるとは限らないのだ。
「だからって……どうすりゃいいのよ」
と、希代子は 呟《つぶや》いた。
仕事が終って、社を出るのが午前二時、三時なんて時間で、まともにデートなんかできるだろうか?
疲れて何もしたくない、ただひたすら眠りたい、というとき、二枚目も何も関係ない。
——文句を言ってもしょうがない。厄介なのは、こういう生活を、希代子自身が結構楽しんでいるということなのかもしれない……。
「ちょっと、ワインをグラスで。 ——赤ね」
と、希代子は注文した。
編集部へ戻ると、半分以上の人間が残っている。
これが当り前の状態なのだ。
「篠原君」
と、久保田が言った。「専務の方はどうした」
「 伺《うかが》いましたけど、お出かけで」
と、希代子は言った。
「そうか。また捜してたぞ」
久保田としては、気になるのだろう。
「こんな時間ですよ。もういないでしょ」
と言ったとき、編集部の入口に、西山の姿が現われた。
「遠くから見えたんだ」
と、西山は言った。「今、ちょっといいか?」
忙しいんです、と言ってやろうとしたが、やめた。大人げないことだ。
「はい」
と、立ち上ると、「 ——どこで?」
「僕の部屋へ来てくれ」
と、西山は言った。
——専務室は、もちろん秘書ももう帰っている。
「かけてくれ」
と、西山は言った。「幸子のことでは、色々迷惑をかけた」
「いいえ」
と、希代子は言った。「残念です」
「ああ、僕もだ」
西山は、自分の席につくと、「君から見れば、僕はとんでもない男だろうね。 ——しかし、あの子の方から僕を父親のように慕って来た。本当だ」
希代子は、ちょっと間を置いて、
「どうしてそんなことを私に?」
「さあ……」
と、西山は目を伏せて、「君には本当のことを知ってほしいからだ。 ——しかし、僕にも分らん。幸子がなぜ死んだのか」
「幸子さんの所へ、おととい行きましたか」
と訊くと、西山はいぶかしげに、
「いや、行ってない。どうしてだね」
「誰かが、おととい会いに行ってるんです。その後、ショックを受けてるみたいだったと」
「そうか……。いや、それは僕じゃない」
「それならいいんです」
「君は……心配してくれてたね、幸子のことを」
「女同士です。でも ——ある人を尊敬できるかどうかは、男も女も関係ありません」
と言って立ち上ると、「他にもご用がありますか」
「幸子の葬儀は、郷里の方でやることになった」
「そうですか」
「私は行くわけにいかない。 ——倉田君が行ってくれるそうだ」
「専務。忘れないで下さい。結局、もともとの原因は、専務にあったということを」
希代子はそう言って、「失礼します」
と一礼して部屋を出たのだった。
「 ——あら」
マンションのロビーに水浜の姿を見て、希代子は足を止めた。
もう午前二時である。 ——いつから待っていたのか。水浜はロビーの椅《い》子《す》で眠り込んでいた。
希代子は、ちょっと笑って、水浜を揺すって起こした。
「 ——あ、希代子さん」
と、水浜は目を覚まして、「眠っちゃったんだ、僕」
「そうらしいわね。上って」
「ええ」
水浜は希代子の肩を抱いて、 大《おお》欠伸《あくび》をした。——希代子は笑いながらエレベーターのボタンを押した。
希代子の部屋へ上って、水浜は、
「何だか気になって」
と言った。「様子がおかしかったから」
「私の? そうだった?」
「何かあったんでしょう」
水浜は、じっと希代子を見つめていた。
「 ——ともかく、後で話すわ」
希代子はバッグを投げ出して、水浜をしっかり抱きしめた……。
——やがて朝になろうかという時間に、やっと希代子は眠った。
水浜は、レポートがあると言って、帰って行った。そんな無茶ができるのは、若さのせいだろう。
希代子は、水浜を送り出して、すぐにベッドへ潜り込み、すぐに眠りに落ちた。
水浜には、簡単に幸子のことを話しておいた。しかし、水浜に話したことで、ずいぶん気は楽になった。
スッと引き込まれるように眠って、目を覚ましたのはお昼の十二時ちょうど。まるで時計で測ったかのようだった。
予定を確かめてから、編集部へ電話を入れる。
「 ——カズちゃん? 希代子よ。何かある?」
と、新聞を広げながら訊く。
いくつか仕事の連絡はあったが、そう急ぐものでもなかった。
「じゃ、二時ごろ行くわ」
と切りかけると、
「チーフ、実は ——」
と、太田が声をひそめる。
「どうしたの?」
「編集長がさっき専務に呼ばれて行って、まだ戻らないんですけど」
「 ——そう」
「何か……」
「大丈夫よ。雑誌には関係ないわ」
と言って、電話を切った。
西山が、希代子のゆうべの態度に腹を立てているとしても、おかしくない。久保田に何か言っているのだろうか。
クビならクビで結構。 ——どこか、行く所はある。
希代子は軽く歌をハミングしながら、バスルームへ行ってシャワーを浴びる。
こうも気分が軽いのは、水浜と寝たせいだと ——認めるのは照れくさいが事実だった。
単に疲れているのをいやしてくれたというのではない。水浜との時間が、希代子を人間に戻してくれるのである。
シャワーを終えて出てくると、電話が鳴っていた。
「 ——はい」
と、出てみると、
「希代子ちゃん? 私」
と、津山静子の声だ。
「あ、叔母さん。どうしたの?」
「奈保、どこにいるか知らない?」
希代子は一瞬、青ざめた。 ——訊き返すまでもない。
「知らないわ」
「今日、いつもの通りに出たんだけど……。さっき学校から電話があって、来ていないって……」
「叔母さん、落ちついて。警察へは?」
「まだ何も……。ね、事故に遭ったのかしら?」
静子は声が上ずっている。
「ありえないことじゃないけど、まだそう心配しなくても。ただ、ちょっとどこかへフラッと遊びに行ってるのかも」
そう言いながら、希代子は信じていなかった。奈保は、理由もなくそんなことをする子ではない。
「どうしたらいい?」
と、静子はオロオロするばかりである。
「そうね。私が当ってみる。叔父さんは?」
「いないわ。たぶん……どこかの女の所だと思う」
「そう」
「奈保がそんなことを知って、いやになって……」
「そうじゃないと思うわ。奈保ちゃんはもっと大人よ」
希代子は、静子を説得できないまでも、いくらか気持を鎮めることには成功した。
「家にいて。何か分ったら連絡するわ」
と言って、希代子は一旦切ると、急いで出かけられる仕度をした。
そして、水浜のいるN大へと電話して、呼び出してもらった。
水浜が出るのにしばらくかかったが、やっと捕まった。
「 ——奈保ちゃんが?」
水浜はびっくりしている。
「何か言ってなかった?」
「さあ、何も……。どうします?」
「そっちの大学へ行くかもしれないと思うの。もし行ったら、連絡して。いいえ、話を聞いてあげて」
と、希代子は言った。
「まさか ——」
と言いかけて言葉を切る。
どっちも分っていた。何を言おうとしているのかが。
「ともかく」
と、希代子は言った。「奈保ちゃんを無事に見付け出さないと。分るわね」
「ええ」
「じゃあ……。何もなければ、また今夜連絡するわ」
と、希代子は言った。
「分りました」
——希代子は息をついた。
奈保が……。勝手にどこかへ行ったとすれば、その理由は一つしかない。希代子と水浜の仲に気付いたのだ。
——取り返しのつかないことになったら、どうしよう?
希代子は、ともかくまず新聞社の友人へ電話を入れて、警察の方を当ってくれるように頼んだ。
しかし、その先は ——。何ができる? 奈保がどこにいるのか、どうやって知ることができるだろうか。
編集部へ電話した希代子は、太田が出たので、少し遅れると言った。
「 ——チーフ。さっき、電話がありましたよ。三十分くらい前かな」
と、太田が言った。「女の子でした」
「女の子?」
希代子は息をのんだ。「高校生くらいの?」
「そんな感じでしたね。希代子さん、いますかって」
「奈保ちゃんだわ。私の 従妹《いとこ》。何か言ってた?」
「いいえ。来ていないと言ったら、そうですかって……。この近くにいたようです」
「会社の近く?」
「声の感じが。それに、車の音とか、どうもすぐ近くって気がしたんですけど」
「すぐ行くわ! ね、もしまたかかって来たら、すぐ来るから、って言って」
電話を切ると、希代子はバッグをつかんで玄関へと駆けて行った。
靴をはきながら、ドアを開けて ——。
「奈保ちゃん」
と、希代子は言った。
奈保が学校の 鞄《かばん》をさげて立っていたのである。
「 ——お母さんから?」
と、奈保は言った。
「さっきね。 ——上って」
「いい?」
「当り前でしょ! さあ」
奈保は、目を伏せたまま、上って来た。
「でも、良かった! 事故にでもあったんじゃないかって……。ね、お母さんへ連絡してもいい?」
「え? でも ——」
「警察へ連絡してたりしたら大騒ぎよ」
奈保は、小さく肯いた。
「そう。座ってて」
希代子は、すぐに叔母へ電話を入れた。
「 ——心配しないで。私がちゃんと話を聞くから。——ええ、そう言うわ」
希代子が電話を切ると、
「怒ってた?」
と、奈保が訊く。
「いいえ。寿命が縮まったかもしれないけどね」
希代子には分らなかった。
奈保は知っているのだろうか? もしそうなら、ここへ来るだろうか。
「奈保ちゃん。 ——お腹《なか》空いてない?」
と訊くと、奈保は急に両手で顔を覆って泣き出したのだった……。