希代子は、奈保が泣きやむのを待っていた。 ——待つ以外に何ができただろうか。
奈保は、十分近く泣いていたが、やがてゆっくりと顔を上げると、
「顔……洗ってくる」
と言って立ち上った。
その奈保の様子からは、果して希代子と水浜のことを知っているのかどうか、判断がつかなかった。
奈保が顔を洗っている間、希代子はまるで判決の出るのを待っている被告のような気分だった。もちろん、そんな立場になったことはない。けれども、自分が奈保に対して、罪を犯していることは事実である。
「 ——ごめんね」
と、戻って来た奈保が少し無理はしているにせよ笑顔を見せたとき、希代子は 安《あん》堵《ど》した。
奈保の目に、希代子に対する恨みは感じられない。奈保は知らないのだ。
しかし、それを喜ぶというのも、身勝手なことに違いなかった……。
「何もかも馬鹿らしい」
ストンと座って、奈保は意外なことを言った。
「何のこと?」
希代子の声は、少し重苦しく聞こえた。気のせいか、自分だけにそう聞こえるのか。
「私……希代子さんに 嘘《うそ》ついてた」
と、奈保は言った。
希代子は黙っていた。 ——お願い、謝ったりしないで。お願いよ。
「あの人と……ホテルに行っちゃった」
と、奈保は言って、固く両手を握り合せた。
「でも、いい加減な気持だったんじゃない。本当よ。好きだし、後悔してない。でも……いくらかは、こうしたら彼が私だけのものになる、って思ってたのかもしれないけど」
奈保は、少し言葉を捜すように間を置いて、
「 ——でも、一番気になったのは、希代子さんのこと。だって……信じてくれてたのに。私たちのこと。でも——」
と、急に不安になった様子で、
「あの人に怒らないで、あの人のこと、 叱《しか》ったりしないでね。私が……行こうって言ったんだし、いいよ、って言ったんだもの。ね? しょうがないよね、男の人は」
奈保が早口に言って希代子の顔を見た。
「それは……どうかしらね。でも、ともかく、私が水浜君に何か言ったりはしないわ。心配しないで」
「ごめんなさい」
と、奈保は言った。「 ——もちろんお母さんには話せないし、それに一番気になったのは希代子さんのこと。だって、希代子さんが私と彼のことを……お母さんに請け合ってくれたんだものね。だから、言いにくくって……」
謝らないで。謝られれば、それだけ胸が痛くなるのだ。
「それで ——どうしたっていうの? こんな風に家を出て来て」
と、希代子は言った。
「私 ——日曜日に行ったの。オーケストラの練習してるとこへ。あの人、そんなに相手してはくれなかったけど、でもやさしくて……。終った後は一緒にホットドッグ食べて別れたの。幸せだった。でも……」
「でも?」
「今朝、駅で声かけられて。 ——あの人と一緒のオーケストラの人で、私も何となく顔を憶《おぼ》えてて……」
「そう」
「その人が言ったの。日曜日、女の人が来てたんだって。私が行く前に。 ——あの人、その女の人と会ってたのよ。そこへ私が行って——。でも、あの人、そんなことおくびにも出さなかった。いつもとちっとも変らない様子で。私って何なんだろうって思って。あの人、どう思ってるんだろうって……」
せき込むような口調になった。「好きか嫌いか、でしょう? もう ——ただの友だちじゃないのに。それなのに、他の女の人がすぐそばにいるのに、素知らぬ顔して。そんなことができるなんて。——信じられない!」
奈保は、少し荒い息をしていた。
「 ——奈保ちゃん」
と、希代子は言った。「水浜君はその女の人と、何でもないかもしれないじゃない。何かの知り合いとか、遠い 親《しん》戚《せき》とか。オーケストラの仕事で知り合っただけかもしれないわ。でも、二人で話してるとこへ奈保ちゃんが来たら……。奈保ちゃんが誤解してしまうかもしれないって、そう心配したのかも。ね。そう悪い方へばっかり想像してちゃ、良くないわ。学校をさぼったりして。——お母さんに説明しなくちゃいけないのよ」
奈保のため、という名目が立たなかったら、とてもこんなことは言えない。自分でも、言葉がこんなにもそらぞらしく響くのを初めて聞いた、と思った。
それにしても、奈保がその「女の人」のことを、希代子かもしれないと思い当らないのがふしぎだった。いや、今の言い方で、ピンと来たかもしれない。
一体誰があんないい加減な慰めを真に受けるだろうか。
「そう……。そうよね」
と、奈保は 肯《うなず》いて、「希代子さんの言う通りだと思うんだけど……。好きなのに、どうして信じられないんだろう、って思うんだけど」
好きだからこそ信じられないのだ。それでいて信じたいと思うから苦しいのだ。
そんなことも、奈保はまだ知らない。子供なのだ。たとえ体だけは女になっていても。
「奈保ちゃん。ともかく帰ろう。 ——ね。お宅へ帰って、お母さんを安心させないと」
奈保が、急に希代子に抱きついて来た。泣きはしなかったが、希代子の胸に顔を 埋《うず》めて、
「このままにさせといて……」
と、 呟《つぶや》くように言った。「お願い。——こうさせておいて」
拒むわけにはいかなかった。
希代子は、母親のように奈保を抱いていた。しかし、知っていたのだ。どっちも、心の中では同じ男を抱いているのだと。
「 ——ええ、大丈夫。年ごろの子には色々あるわよ」
希代子は電話で叔母を慰めた。「 ——ええ、今、私のマンションで寝てるわ。くたびれたみたい。そっとしといた方が。——帰って、ちゃんとそっちへ送るから、大丈夫よ、心配しないで」
希代子はくり返した。
編集部は三分の一も人がいないので、静かだった。久保田もいない。
希代子が出社して来たとき、もう久保田は会議でいなかった。
「カズちゃん」
と、希代子は受話器を戻して、「編集長、何か言ってた?」
「専務の話ですか? いいえ」
と、太田がクルッと 椅《い》子《す》を回して、「チーフが来たら、連絡とれるようにしといてくれ、って。出かけるんですか?」
「いいえ。今日はここで仕事してる。急な連絡さえなきゃね」
机に向ってやらなくてはならないことも山ほどある。ただ、いつもは外へ出る仕事が多くて、机に向うのはその合間合間になってしまう。
今日はくたびれていた。
「大変ですね」
と、太田が言った。「チーフの 従妹《いとこ》って、見付かったんですね」
「聞いたでしょ、今の電話」
「難しい年ごろですね」
「そうね」
難しい? ——そうじゃない年ごろなんてあるのだろうか。
人は、十三、四の子を、「難しい」と言い、十七、八の子を、「難しい」と言う。それを言うなら、二十八の女だって、「難しい」。
しょせん、人は一生のどこを取っても、「易しい」存在になどなることはないのだろう……。
電話が鳴って、赤ペンを持ったまま、希代子は出た。
「もしもし」
「やあ、藤村だ」
「あ……。この間は ——」
と言いかけてためらう。
日曜日、水浜の所をあんな風に逃げて、希代子は藤村の所へ行ってしまった。
「失礼しまして」
と、希代子は言った。「百合子さん、もう帰られた?」
「いや、もう少し実家にいる」
と、藤村は言った。
「何かあったの?」
と、少し心配になって、希代子は言った。
「二人目が生まれるんだ」
「なあんだ。心配して損しちゃった」
と、希代子は笑った。「おめでとう」
「どうも。つわりがひどくてね。母親の所で気がゆるんで、余計なんだろ。生まれるまで向うにいるかもしれないよ」
「一時的独身? 危いな。気を付けるのよ、悪い虫に」
と、希代子は言ってやった。
心から、 嬉《うれ》しいと思った。藤村の所まで何かあったら、やり切れないだろう。自分が心を寄せていた男なのだ。それだけのことはある、と思わせてほしい。
「二人目が生まれるとなると、生活も厳しいしね。何でもいい、仕事があったら言ってくれ」
「じゃんじゃん回すわ」
「片っ端から片付けてやる」
と、藤村は笑った。「今度コラムをまとめた本が出る。二冊本の予定でね」
「へえ。すてき。紹介するわ、雑誌の本のコーナーで」
「頼む。その営業で電話したんだ」
「何だ。友情の 証《あかし》かと思った」
「友情も営業の 助《すけ》太《だ》刀《ち》さ」
「お役に立てるなら、何でも言って」
と、希代子は心から言った。
藤村との電話を終えて切ると、
「篠原君」
いつの間にか、久保田がドアの所に立っている。
「はい、遅くなって」
「ちょっと来てくれ」
と、久保田が促した。
二人は 空《あ》いた会議室へ入り、手近な椅子を引いて腰をかけた。
「どうだ」
と、久保田は言った。「俺も大分編集者らしくなって来たか」
「そうですね」
と、小首をかしげて、「人相が大分悪くなって、それらしくなったかな」
久保田は笑った。そして、
「実は西山専務に呼ばれてね」
「ええ、カズちゃんが言ってました」
「君をうちの正社員にしたいということなんだ。午後の会議でも、みんな異議はなかった。 ——どうだね」
希代子は 呆《あつ》気《け》に取られていた。まさか、そんなことを聞かされようとは思わなかったのだ。
「それを……専務が?」
「うん。しかし、君に言っておいてくれってことだった。今度の一件とは関係ない。君の実力と実績を評価すれば当然のことだ、とね。気がねなく受けてほしい」
西山が「口止め」のつもりで言った、とまでは思いたくない。それに幸子のことは希代子に限らず社内では 噂《うわさ》になっていて、今さら口止めでもあるまい。
倉田がいなくなった後、慣れていない久保田を支えて頑張って来た。その点、決して自分を過小評価することはない、と希代子は思っていた。
もちろん、正社員となれば、何かと面倒なこともあるだろう。しかし、病気をしたときのことでも考えると、ずっと安定した身分である。
いささか年寄くさいが、とも思いつつ、今の希代子は、「安定」の値打も少し分りかけて来ていた。
「 ——はい。よろしく」
と、希代子は軽く頭を下げた。
「良かった。何とか君に受けてもらわんと、専務に叱られるところだ」
西山も、希代子には感謝しているのだろう。
「それで、君を編集部のデスクにしたい。いいだろ?」
希代子は目を丸くして、
「今だってチーフなんて呼ばれて、お 尻《しり》がムズムズするのに!」
デスクはここでは「副編集長」のことである。
「いいじゃないか。もう君は実際その仕事をしてる」
「責任って嫌いなんです。いい加減に無茶をやって、責任は上に押しつける、っていうのが趣味なんです」
と、希代子は言ってやった……。
——席に戻って、希代子はさめたお茶を一口飲むと、編集部を見渡した。
この先、何年も ——ひょっとすると何十年も、ここにいることになるのだろうか。
そう考えると、見慣れた編集部の光景が、いつもと少し違って見える。
「チーフ」
と、太田が振り向いて、「何でした、話?」
「うん。 ——どうってことじゃないの」
希代子は赤ペンを取り上げた。
今日は妙な一日だ、と思ったりしながら……。