「凄《すご》い! おめでとう」
と、電話の向うで、奈保は飛び上らんばかりの声を出した。
「奈保ちゃん。耳が痛いわ。そんな大声出したら」
と、希代子は笑って、「ね、一緒にお祝いしてくれる? シャンパン買って帰るから」
「うん! やろうやろう!」
——どうやら、泣き疲れて希代子のマンションで眠った奈保は、いつもの元気を取り戻したようだ。
希代子は少しホッとして、電話を切ると会社のビルを出た。今日は珍しく早い。といっても、夜の九時。
つくづく、まともな生活じゃないな、と思う。
ともかく、帰ってから、奈保を家へ送って行かなくてはならない。希代子はタクシーを拾って、マンションへと向った。
夜までには、希代子が正社員になるということは社内に知れ渡り、他のセクションの人から、
「おめでとう」
と電話が入ったりもしたが、そうなると少々ひねくれて、
「そんなに喜ばなきゃいけないの?」
と言いたくなる希代子だった。
太田たち、編集部の面々が喜んでくれるのは、素直に受け止められたのだが。 ——これも年齢のせいで、ちょっと素直でなくなった、ということかもしれない。
タクシーの中で、水浜へ電話しておけば良かった、と思い付いた。きっと、奈保のことを気にしているだろう。
電話しておくつもりで忘れてしまうというのは、やはり自分も少しは「舞い上って」いるのだろうか。
——タクシーがマンションの前に着く。
途中、高級スーパーで買ったシャンパンを手に、足どり軽く部屋へと急いだ。
「 ——ただいま。奈保ちゃん。玄関、ドアが鍵《かぎ》かかってないわよ」
と、中へ入って上ると、「 ——奈保ちゃん?」
「お帰り」
と、奈保が台所で振り向く。「もうじき、ピザの出前が来るから、開けてあるの」
希代子は、テーブルに皿を並べている水浜を見ていた。
「 ——いらっしゃい」
と、希代子は言った。
「お帰りなさい」
水浜は 微笑《ほほえ》んで、「電話してみたら——」
「私のこと、心配して来てくれて」
と、奈保は 頬《ほお》を紅潮させている。「一時間くらい前に来たの」
「そう」
希代子は肯いて、「これ ——シャンパン」
「私も飲んでいい?」
「酔っ払わないでね」
と言って、希代子が寝室へ行きかけ、振り向くと、奈保が、
「あ、それじゃない方が。 ——もう少し大きい器、ない?」
と言っているのが聞こえた。
「これかな」
「そうね。それがちょうどいい」
楽しげにしている二人を後に、 一《いつ》旦《たん》寝室に入る。
着がえる気にもなれず、少しの間ぼんやりと立っていたが、
「 ——水浜君」
と、戻って声をかけ、「ちょっと、明日会社の人が何人か来るの。飲物、買って来たいんだけど、お願いしていい? 近くのコンビニまで」
「ええ、もちろん」
と、水浜は言った。
「すぐ戻るわ。奈保ちゃん。ピザが来たら、これで払って」
と、テーブルにお金をのせる。
「はあい。遅くならないでね。冷凍のスープ、溶かしてるから」
希代子は玄関を出て、さっさと歩いて行く。ついて来る水浜の足音が、自分の心臓の鼓動と重なるようだった。
ロビーへ出ると、足を止めて、
「何も知らないわ」
と言った。「あの子は何も気付いてない」
「希代子さん」
「いつ……来たの?」
「一時間くらい前ですよ」
「奈保ちゃん、そう言ったけど ——。本当に?」
「ええ。 ——本当に、ってどういう意味ですか」
希代子は、ロビーに置かれた 椅《い》子《す》に腰をおろすと、
「奈保ちゃんがあんなにはしゃいでるから……。もしかして……」
「そんな!」
「キスぐらいしてあげなさいよ」
と、希代子は言った。
「できるわけないじゃないですか」
と、水浜は怒ったように、「あの部屋で? 無理ですよ」
「でも……奈保ちゃんは私に抱きついて来たのよ。私も奈保ちゃんを抱いた。この胸にね」
水浜が右手をそっと希代子の頬に当てる。その手を取って、希代子は固く握りしめた。
「 ——奈保ちゃんに話しましょう」
と、水浜は言った。
「だめ。絶対に言わないで」
「それがあの子のためですか」
「いいえ」
と、希代子は首を振って、「いいえ。 ——私のためよ。自分のためよ」
立ち上って、
「さあ。行きましょう」
と促すと、水浜は黙って希代子について来る……。
ふと、体が不安定に揺れて、希代子は目を覚ました。
眠ってしまった。 ——もう何時だろう?
十二時をとっくに回って、シャンパンのボトルは 空《から》になっていた。
不安定なのも当然で、希代子はソファの上で眠っていたのである。格別酔ったという気分ではなかったが、疲れてもいたのか、それとも酔って二人の方を気にせずにすませたいと思ったのかもしれない……。
二人は?
起き上って見回すと、水浜が一人がけのソファで眠り込んでいた。
奈保は? ——家には電話を入れて、明日の朝早く、送って行くと断っておいた。母親も、奈保の上機嫌な声に安心していたようだ。
寝室を 覗《のぞ》いた希代子は、自分のベッドに潜り込んで寝ている奈保を見付けた。
制服はもちろん脱いで下着姿で毛布を抱きかかえるようにして眠り込んでいるのは、大分シャンパンを飲んだせいでもあるだろうか……。
希代子は、少し口を開けて眠っている、十七歳の従妹の顔を見下ろしていた。水浜に抱かれて、奈保はどんな表情でいたのだろうか?
急に、胸苦しさにせき立てられるように、希代子は玄関からコートをつかんで飛び出した。
夢中で夜の中へと駆け出して、しかし自分自身の足音にびっくりして足どりをゆるめる。
何とかしなくては。 ——何とか。
少し行って振り返ると、マンションの、自分の部屋の窓を見上げた。
明りの 点《つ》いた部屋はそう多くないので、あれがそうだとすぐに分る。
すると ——明りがフッと消えたのである。見間違いではない。確かに自分の部屋だ。でも、どうして?
たぶん、希代子が部屋を出た物音で水浜が目を覚まし、中を見て回って、寝室の中も覗いたのだろう。
希代子がいないと知って ——。どうしたのか。
あのあどけなく眠っている奈保を、水浜は抱きしめたいと思わないだろうか……。
希代子は再び歩き出した。マンションから離れたかった。離れたら、自分の悩みからも離れられるような気がした。
足を止める。
足音が聞こえる。 ——気のせいかしら?
いや……本当だ。足音だ、追っかけてくる。
その足音を背中に聞きながら、振り返るのが怖かった。それが誰であっても、怖かったのである。
足音が止った。 ——息を弾ませて、
「希代子さん」
「大丈夫よ」
と、希代子は振り向かずに言った。「私は大丈夫」
「心配ですよ。 ——あの白石のことだってあるし。こんな風に出歩くなんて」
白石のこと? そう。忘れていた。あんな男のことは、思い出しもしなかった。
振り向いて、
「どうして来たの?」
「どこへ行くのかと思って」
「どこへ……」
希代子は目を伏せて、「どこへ行くのか……。自分でも分らない。私はどこへ行くのか……」
どこへ行く べきなのか。そして現実にどこへ行くのか。
「希代子さん ——」
「放っておいて」
と、首を振る。「一人にして。 ——放っておいて」
「離れないで下さい」
「一人にして……」
希代子は、近寄り、自分を抱く水浜の若々しい腕を拒まなかった。自分から水浜をかき抱き、唇を 貪《むさぼ》るように押し付け合った……。
「 ——さあ、急いで」
と、希代子は、奈保をせかした。「学校の仕度もしなきゃいけないのよ」
「うん。大丈夫」
「ちっとも大丈夫じゃないわ」
と、苦笑して、「タクシー、下で待ってるかしら」
「見て来ましょう」
と、水浜が言った。「僕ももう出ないと」
結局、三人がほぼ一緒にマンションを出ることになった。
タクシーが待っていて、希代子は奈保を先に乗せると、
「水浜君、駅まで」
と言った。
「いえ、歩きます」
と、水浜は首を振って、「じゃ、奈保ちゃん」
「いいの?」
と、希代子は念を押した。
「ええ。目が覚めるし。歩く方がいいんですよ」
軽く手を振って、水浜は歩いて行った。
「またね!」
と、奈保がタクシーの中から呼びかけると、水浜がちょっと振り返って手を上げる。
希代子は、タクシーが走り出すと息をついた。
「朝早いし、そう時間はかからないでしょ」
「うん。 ——希代子さん。ごめんね。色々心配かけて」
と、奈保は 爽《さわ》やかそのものという様子である。
「落ちついた?」
「うん。どうでもいい、って気持なの」
と、奈保は前方を見つめて、「水浜さんが、どうでもいいんじゃないのよ。あの人が私をどう思ってるか、結局は心の中なんて分らないじゃない」
「そりゃね」
「だったら、心配して 苛《いら》々《いら》しても仕方ない。——自分の気持ははっきり分ってるんだから、それでいい。そう思ったの」
希代子は、奈保の割り切った言い方に少々圧倒されそうだった。
けれども、この落ちつきも長くはもつまいと分っているからこそ、そんな従妹を 可愛《かわい》いと思った。
「お母さん、何て言うかな」
「大丈夫。奈保ちゃんが元気でいれば、それで安心なのよ」
奈保は希代子の肩にもたれて、
「希代子さんいなかったら、私、どうしていいか分らない」
——二人の手が膝《ひざ》の上で触れ合って、タクシーが朝の閑散とした町を抜けて行く。
二人は、それきり無言だった。