「デスク、これを見て下さい」
と、太田がイラストの色校正を持って来る。
「カズちゃん ——」
と、希代子は言いかけて、やめた。
確かに、今自分は「デスク」なのだ。太田はそういう点、 几《き》帳《ちよう》面《めん》なだけなのである。それをにらんでみても仕方ない。
「 ——そうね。もう少し明るくした方がいいんじゃない、この文字」
と、希代子は言った。
「そうですね。僕もそう思ったんですが」
と、太田は言って、「四時から対談なのであと十五分くらいしたら出ます」
「分ったわ」
太田には何も念を押す必要はない。ちゃんと手落ちなくやれるからだ。
希代子は、読んでいたゲラを置いて、ウーンと背筋を伸した。
「疲れてるんですか」
と、太田が言った。
「お 尻《しり》が痛い。——一日中座ってるのって、辛《つら》いわね。ね、誰か忙しかったら私が原稿取りに行ったげるよ」
もちろん冗談だが、希代子としては半分本音でもあった。
〈デスク〉という肩書がついてしまったおかげで、さっぱり出歩かなくなってしまった。
それでも、普通のOLのデスクワークに比べると出歩く方かもしれないが、以前からは考えられない毎日。現場に慣れた希代子にとっては、退屈で仕方ない。
「カズちゃん。対談、一緒に行こうかな。いい?」
「ええ、もちろん。でも、校了の方は大丈夫なんですか?」
希代子の気持を分っている太田はニヤニヤしている。
「平気よ。半日くらい待たせたって」
希代子は、こうして人をある程度「動かす」立場になってみて、一人一人の個性みたいなものに気付いた。
よく動く者、できるだけ 椅《い》子《す》にかけたままですませようとする者、外出が好きで、たぶん息抜きも外出中にしている者、外出が嫌いなのに年中外へ出される者……。
色々である。 ——そこに、人の集まりとしての編集部の面白さがあった。
正直、デスクになって迷惑という気持と、人の仕事が見えてくる面白さとが半々というところだったろう。
「 ——戻り梅雨《つゆ》ってやつかな」
と、編集部へ戻って来た久保田が言った。「篠原君」
「はい」
「これから一緒に来てくれないか。印刷所とお盆休みのための進行で話し合うんだ」
「 ——はい」
そんなこと、編集長が決めて下さい。そう言いたいのはやまやまだったが、久保田ではよく分らないところがあるのも確かだった。自分が行くしかないだろう。
「カズちゃん、悪いけど ——」
「はい、分ってます」
「何だ。用だったのか?」
と、久保田が 訊《き》く。
「カズちゃんの荷物持ちをやることになってたんです」
と、希代子は言った。「何時ですか、印刷所との話?」
「三時半だ。一時間もあればすむだろう」
と、久保田は席について、書類へ目を通し始める。
夏のお盆の時期、印刷所は十日近く、全くストップする。月刊誌にとっては十日の休みは影響が大きいので、事前に印刷所と話し合うのである。
といっても、休日を「休むな」とは言えないので、希代子たちの方で入稿などを早めるしかない。希代子たちはともかく、藤村のようなライターなどは大変だ。他の雑誌も同様に進行がくり上るので、どのコラムも早く仕上げなくてはならない。
もちろん藤村はプロである。そんなことぐらいよく承知しているはずだ。
「お電話です、デスク。3番」
「はい。 ——もしもし」
と、希代子は少しホッとして言った。
デスクになって、もう一つつまらないのが、自分へ直接かかって来る電話の数がずっと減ってしまったことだ。
電話がかかって喜んでいるなんて、私もどうかしてる、と希代子は苦笑いした。
「倉田だ」
「あ、どうも」
すぐに思い出した。「今 ——もう東京ですか」
「うん」
「ご苦労様でした」
倉田は、死んだ幸子の葬儀に行っていたのだ。
「今、下にいる。ちょっと会えるか」
「下? ここの? じゃ、行きます」
希代子は急いで編集部を出た。
倉田は、知った人間の目を避けているかのように、玄関ホールの奥の方に立っていた。
「 ——上って来ればいいのに」
と、希代子は言った。
「いや、仕事が待ってる。すぐに行かんと」
倉田は、上着のポケットから何か封筒に入ったものを出した。
「何ですか?」
「お前にあてたもんだ」
確かに、封筒の表に小さな字で〈篠原希代子様〉とあった。
「手紙?」
「遺品の中にあって、家の人が持って帰ってしまっていたらしい。この人をご存知ですか、と向うで訊かれて、預かって来た。もちろん読んでない」
「 ——どうも」
希代子は、その封筒を手にして、「倉田さんは……」
「 俺《おれ》には思い出がある」
と言って、ニヤリと笑い、「キザだろ」
傷口にしみる痛みを笑っている。そう分る笑いだった。
「じゃ、もう行く」
と、歩きかけて、「 ——デスクか」
「え? ——あ。ええ。何だかそんなことに……」
「良かったな。頑張れ」
「次は社長ですよ」
と笑って見せ、希代子は手を上げた。
倉田が忙しげに出て行く。逃げて行くように見えていないかどうか、たぶん気にしていただろう。
希代子は、細川幸子の手紙を、こんな所で読む気にはなれなかったので、そのまま持って編集部へ戻った。
途中、窓から見ると雨は本降りになっていた。 ——倉田の肩が濡《ぬ》れていたことを、初めて思い出した……。
「 ——よく降るなあ」
と、水浜が言った。「弦楽器にはいやな天気です」
「そうね」
希代子は雨の音に耳を澄ました。
二人にとって、今、雨は「音」でしかなかった。暗い部屋で身を寄せ合っている二人だったから。
夜といっても ——昼と少しも変らない。こういうホテルの部屋には「夜」しかないのである。午後二時の夜も、午後三時の夜もある……。
「 ——お腹《なか》、空《す》いた?」
と、希代子は少し体を起こして訊いた。
「うーん、まだもう少し大丈夫」
「元気ね」
と、希代子は笑った。
——デスクになって良かったことの一つ、と言っては叱《しか》られるか。帰りの時間が、以前より正確に分るようになったので、水浜が何時間も待ち呆《ぼう》け、ということは少なくなった。
希代子は水浜と週に一度は必ず会っていた。
木曜日にはいつもの通り奈保の家庭教師をつとめている。奈保は落ちついていた。希代子の教えることもよく聞いているし、成績も上って来ている。 叔《お》母《ば》もホッとしている様子だ。
津山隆一とはこのところ全く会っていないし、もちろん会いたいとも思っていない。 ——津山家の中も、微妙なバランスを保ちつつではあるだろうが、まず平和だった。
そう。 ——微妙なバランス。
誰もが、少しでもそれをつつけば大騒ぎになると知っているから、手を出さない。
「今のままが一番いい」
と、誰もが自分に言い聞かせている……。
「電話してる、奈保ちゃんに?」
と、希代子は 枕《まくら》に顔を半分埋《うず》めながら訊いた。
「ええ。元気そうですよ」
「そうね。分るわ、私も毎週見てて。安定してる、っていうか……。どこかふっ切れたみたいね」
「あの子のことは言わない約束でしょ」
「ごめん。 ——そうね。二人だけの時間だからね」
希代子の指が、すべすべした水浜の胸を滑る。
「くすぐったい」
と、水浜が笑った。
——希代子はマンションには、あれから一度も水浜を泊めていない。
いつまた奈保がやって来るかもしれないし、その可能性がないとしても、希代子は水浜と会うのを、こういう日常でない空間の中に限っておきたかったのだ。
それが少しは希代子の気持を軽くした、と言ってはあまりに安直かもしれないが、少なくとも、この部屋の 中《ヽ》と《ヽ》外《ヽ》とで、生活を区切ることができた。
自分を 騙《だま》しているだけだ。奈保にとっては、二人がどこで寝ようが関係ない。——そう分っていても、希代子自身にとっては確かに違っていたのである……。
「もう行きましょう」
と、起き上りかけた希代子を引き戻すと、水浜の重みが自分を押えつける。「もう……行かないと……」
希代子の唇をせっかちな唇が封じる。希代子にも分っているのだ。こういう展開になることは。
同じ順序。同じ手順。同じ動作。 ——自分がどう反応し、どうなるか分ってくると、少しずつ前倒しに快感が深まる。慣れるというのとは少し違って、くり返しそのものが新しくなる。
ずっとずっと長いこと忘れられていた水源が、新たに掘り起されて、濁った水が次第に澄んで、豊かに流れ出す。
希代子は思い切りその水を飲んだ。浴び、浸って、泳いだ。人魚にでもなったように、希代子の体はしなやかに波打った……。
「傘は?」
「大学で 盗《と》られちゃった」
「あら」
と、希代子は笑った。「じゃ、入れてあげるわ」
「すみません」
二人で入るには、少し小さすぎる傘だったが、そう長く歩くわけでもなかった。
「 ——来週、クラブの旅行なんです」
と、水浜が言った。
「へえ。どこに行くの?」
「河口湖。 ——要するに飲んで騒ぐだけなんです」
と、水浜はため息をついた。「希代子さんといる方がよっぽどいい」
「でも、そういうお付合いも必要でしょ。何日間行ってるの?」
「火水木……。二泊三日です。でも、その前後、忙しくて、会う時間がないかもしれない」
「そう……。寂しくて泣いてるわ、一人で」
と、希代子は言って微笑んだ。「私も来週辺りは忙しいから ——。帰ったら、電話してちょうだい」
「ええ」
地下鉄の駅まで来ていた。「 ——じゃ、僕はここで」
「気を付けて。飲み過ぎないでね」
「大丈夫ですよ」
と、水浜は笑った。「行く前に電話しますから」
「ええ。それじゃ」
水浜が、希代子の傘の下から飛び立つようにして、地下鉄の駅への階段を駆け下りて行った。
希代子は、水浜のいなくなった後の空間をそのままにしておきたいような気がして、自分の肩が濡れるのも構わず、傘を動かさなかった。
ふっと、我に返る。
こんなことで風邪でもひいたら馬鹿みたい! さ、帰りましょ。
タクシーを使うことにした。雨なので拾えなければ別だが。
幸い、すぐに空車が見付かって、希代子は座席に落ちついた。
タクシーが走り出す。 ——眠気はなかった。
来週、会えないということ。たぶん、水浜よりも希代子の方がそれを忘れるために必死に何かしているだろう。
快いけだるさが手足に残っていた。
眠くはなかったが、目を閉じる。 ——恋か。私は水浜に恋しているのだろうか。
「遊び」を気どるつもりはない。男に慣れたふりをしたところで、誰も感心してはくれないのだ。だから、素直に言うことができる。
水浜と会うことが、今の希代子にとっては生活の一部になって、だから自然なのだ。
奈保にとってどうか、ということは別として……。
奈保のことを考え、何の連想か、倉田から渡された細川幸子の手紙を思い出した。
今? こんなタクシーの中で読んでもいいものだろうか。
——少しためらったが、思い出すと気になる。
バッグから取り出すと、封を切った。
便せん二枚の短い文面の手紙と、写真が一枚。 ——あのときに見た赤ん坊の写真だった。
これを私に? 希代子は戸惑ったが、ともかく手紙を広げた。
〈篠原希代子様
お世話になりました。
希代子さんを驚かせることになろうと思い、心配ですが、お許し下さい。
今日、親戚の者が来て、子供が死んだと知らせてくれました。友だちと駆け回っていて、道へ飛び出し、車にはねられたそうです。
どうしてあの子が。他の子でなく、あの子だったのか。
私には守ってやることができなかった。私が死のうとして生きているのに、あの子は生きようとしていて死んだのです。
一緒に生きてやれなかった私は、せめて一緒に旅立ってやります。
希代子さんのご親切は、身にしみて、この胸に抱いて参ります。
どうか私を哀れと思わないで下さい。私は救われに行くのですから。
お幸せを。
——希代子は、その手紙をくり返して読んだ。
何度か読む内、いつしか目は幸子の書いた「文字」を見ていた。ていねいではなく、急いで書いたようだったが、しかし少しの乱れもない字だった。
雨の 叩《たた》く窓へと目をやる。——窓が、希代子の代りに泣きくれていた。