「大丈夫ですか、デスク?」
と、太田が心配そうに言った。
「そんなに飲んでる、私? ちっとも酔ってないわよ」
と、希代子は言った。
実際、そう酔うほど飲んでいなかったのだ。
「そうじゃないんです。大して飲んでないことは分ってますけど、何だか様子が……」
と言いかけて太田はためらった。
「 ——ありがと、カズちゃん」
と、希代子は 微笑《ほほえ》んだ。「私のことを、よく分ってくれてる」
「デスクのそういうところ、珍しいですもの」
太田の言葉に、希代子はちょっと目を伏せて、
「デスク、デスク、か……。カズちゃんにとっちゃ、私は女じゃないんだ」
太田は困ったように 曖《あい》昧《まい》に笑って、
「デスク、って呼ばれるの、嫌いですか」
と言った。
「ううん、構わないの。カズちゃんには、つい何でもグチっちゃう。ちゃんと聞いてくれるんだもの。内心どう思ってるのかな。『いい加減にしてくんないかな』って?」
「まさか」
と、太田は首を振って、「でもね、あんまり聞いちゃうと 辛《つら》くなることもありますよ」
「辛くなるってどういう風に?」
「つまり……デスクは、何でも真剣だから。それがいけないって言ってるんじゃないですよ。でも、人って、どこかでいい加減にしとかないと、疲れちゃうと思うんです。自分も、だけど、周りの人間も」
何にでも真剣? ——そうだろうか。
いや、希代子としては、それが当然と思って、そうして来ただけなのである。少なくとも、「仕事のプロ」として、ある程度自分にも厳しくしなければやって来れなかったから。
でも、それが間違っているのだろうか? いや、そのこと自体が「目的」になってしまったところが、いけなかったのかもしれない……。
「生意気なこと、言いましたかね」
と、太田は言った。
「そんなことないわ。 ——カズちゃんは、そうして思ったことを言ってくれるから、好きよ」
「といっても、デスクにとって、僕は男じゃない、でしょ?」
希代子は笑った。
——胸の痛みは消えない。どうしたところで、一人で消すわけにはいかない痛みなのである。それは、「人に痛みを与えている」という痛みだからだ。
水浜と、奈保。 ——二人のどちらとも、まだ話していない。週末は過ぎて、水浜から留守電に一度だけ、「またかけます」と入っていたが、それだけである。
週が明け、仕事が大分忙しい時期に入っていた。希代子は、月、火と午前二時、三時に社を出る生活で、明日の木曜日もどうなるか……。
いや、「どうするか」迷っていた。
仕事はいくらでもあり、叔母に電話して、
「今週はちょっと忙しくて行けない」
と言うのはやさしい。
でも、奈保から見ればどうだろう。こんなときに逃げる希代子を 卑《ひ》怯《きよう》だと思うかもしれない。
水曜日の夜。 ——珍しく十一時ごろ編集部を出た希代子は、太田を誘ってこのバーへ寄った。明日、どうするか……。決めるのを先へのばしていたのかもしれない。
「 ——もう行きます」
と、太田が言って、立ち上った。
「ごめんね、引張って来て」
「いえ、これからちょっと彼女に会うんで」
「いつも遅いのね」
「あっちの方が遅いくらいなんですよ。同業者だから」
と、太田が笑う。
「そう。 ——そうね、普通のOLさんじゃ、夜中の一時からデートなんてわけにはいかないし」
「デスクは帰らないんですか?」
「帰るわよ。デートする相手もいないしね」
と、希代子がおどけて見せると、
「デスクの彼って ——」
「え?」
と、面食らって顔を上げると、
「 凄《すご》く若い人ですか、大学生くらいの?」
と、太田は言った。
「ええ。 ——いけません?」
と、ちょっとふざけて、「でも、どうして?」
「社の外で待ち合せてたことがあるでしょう? たまたま見たんです。あれ、息子さんがいたのかな、とか思って」
「カズちゃん!」
「でも、本当に若くて 可愛《かわい》くて」
「私もまだ二十八なのよ、言っとくけど」
「ええ」
太田は、少しためらっていたが、「 ——デスク」
と、また座り直した。
「どうしたの?」
「言ったものかどうか ——。でも、あんまりデスクは真剣だから」
「何のこと?」
「僕も……たまに彼女と行ってるんですけど……ホテルに」
「あら、カズちゃんはもっと 真面目《まじめ》かと思ってた」
と、からかって、「それで?」
「 ——見かけたような気がするんです。あの男の子」
希代子は、太田の表情をじっと見つめていた。
「そう……。でもふしぎはないわね」
「相手はデスクじゃありませんでした」
希代子は 肯《うなず》いて、
「知ってるわ」
と、グラスを 空《あ》けた。「それで胸を痛めてるのよ」
太田は肯いて、
「高校生の 従妹《いとこ》っていう女の子でしょ」
と言った。「たぶん、そんなことだろうなって思ってました」
「鋭いわね。 ——十歳も年上の……いえ十一歳か。ともかく、私の方が大人なのに、こんな風に悩むなんてね。今まで何してたんだ、って思うの。大人になったはずなのに、どうしてなんだ、って」
太田は、黙ってテーブルの上の水滴を見つめている。希代子は、
「行かなくていいの? 彼女が待ってるんでしょ」
と言った。
「ええ」
と、太田は言って立ち上ると、「じゃあ……。あ、そうだ」
と、財布を取り出すので、
「やめてやめて。せめてデスクらしいことをさせてよ」
と、押える。「さ、早く行った行った」
「すみません。じゃあ」
と、太田は会釈して店を出て行きかけたが、またテーブルの所へ戻って来ると、
「あのとき、デスクの彼が ——彼らしい男の子が一緒だったのは……。ホテルに一緒に入って行ったのは、そんな若い女の子じゃありませんでした。少なくとも勤めている女の子です。たぶん——二十二、三かな。それで気になってたんです。すみません、もし他人の空似だったら……」
「ありがとう」
と、遮って、「もう行って」
「おやすみなさい」
と、軽く頭を下げて行ってしまう。
「カズちゃん。 ——彼女によろしくね」
と、希代子は言った。
太田に聞こえていただろうか。希代子には分らなかった。
しかし、もうそれはどうでもいいことだったのである……。
「 ——水浜です」
という声が受話器から聞こえて、
「私、希代子よ。あの ——」
「ただいま外出しておりますので、ご用の方は、信号音の後に ——」
留守番電話か。希代子は、勢い込んで話しかけようとした自分が少し恥ずかしかった。
ピーッと信号音が聞こえた。希代子は、ためらった。 一《いつ》旦《たん》切ろうとしたが、思い直して、
「もしもし」
と言った。「私……篠原希代子です。この間は……ごめんなさい。週末、忙しくてマンションにいなかったの。また ——電話します。今、外の電話ボックス……」
何を言ってるんだろう、私は? どこで電話をかけようが、そんなこと水浜には何の関係もないはずだ。
そう。帰って、部屋からかけりゃいいのに、と思うかもしれないが、どうしても希代子は今、かけたかったのだ。今、水浜の声が聞きたかったのだ。
しかし、そんなことを、テープに吹き込むわけにはいかない。
電話を切って、戻ったテレホンカードを抜くと、希代子は定期入れにしまい込もうとして、ふと気が変り、もう一度水浜の所へかける。
「水浜です。ただいま外出しておりますので、ご用の方は、信号音の後にお話し下さい」
ピーッという音。
希代子は、黙ってそのまま電話を切った。
そして、
「おやすみ」
と 呟《つぶや》いて、電話ボックスを細かい雨が濡《ぬ》らしているのに気付いたのだった。
傘……。傘を会社へ置いて来た。
まあいい。タクシーを拾わなくては帰れないのだし。少しくらい濡れても、大丈夫。
希代子は電話ボックスを出た。
——タイミングが悪いのか、タクシーはなかなかやって来なかった。少し待つと意地になって待とうとする。
無線タクシーを呼べばいいと思ったが、もう少し、もう少し待ってみよう、と思っている内、いい加減濡れてしまった。
どうしよう。迷っているとき、
「希代子ちゃんじゃないか」
と呼ばれて、
「あ。 ——何してるの?」
藤村涼が、傘をさして立っている。
「何してるの、って、ひどいなあ。君の社でカンヅメになってたんだぜ」
と、藤村は苦笑した。
「あら。そうだったの」
「風邪ひくぜ。空車、待ってるのか?」
「なかなか来なくて」
と身震いする。
「いけないよ。僕の車で帰ろう。この先の駐車場に入れてあるんだ。君の所が閉めちまってたから」
「でも、車のシートが濡れるわ」
「放っときゃ乾く。 ——さ、行こう」
さしかけてくれた傘に、希代子はありがたく入れてもらうことにした。これくらいの幸運には恵まれてもいいだろう。こんなときには。
「ハクション!」
と、希代子は派手にクシャミをした。
——大して「幸運」とも言えないかもしれない。
「ごめんなさい」
と、希代子は息をついて、「さっぱりした!」
「それは客用の浴衣だ。気にしないでいいよ」
と、藤村は言った。「何か飲むか?」
「冷たいもの。ウーロン茶でもある?」
「うん、あるはずだ」
希代子は、浴衣姿でソファに腰をかけた。タオルで、濡れた髪をせっせと 拭《ふ》く。
あんまり雨に濡れてしまったので、藤村の所へ寄って、お風呂に入れさせてもらったのである。
「 ——今、乾燥機で乾かしてるからね、君の服」
「ごめんね。傘くらい持って歩かなきゃ。編集者失格だな」
「どうして?」
「雨に降られて、風邪でもひいたら、進行が遅れて迷惑かけるわ。あなただって、気を付けてるでしょ?」
「そりゃ、風邪ひきたいと思っているわけじゃないけどね」
と、ウーロン茶を入れたグラスを希代子に渡して、「でも、人間は病気もするし、気がのらなくて仕事が進まないことも、どうしても見たい映画をTVでやってりゃ、つい見ちまったりもする。そんなもんだと思ってるぜ」
希代子は、ウーロン茶を一気に飲み干して、
「 ——さっきカズちゃんにも、同じようなこと言われちゃった」
「何だって?」
「私は何にでも真剣すぎる、って」
「そう。 ——ま、それが君の個性だ」
「でも……そんなこと考えちゃいないんだけどな。結構いい加減なんだけど」
「でも、普通は、はなから満点とろうとは思わないもんさ。君は違う。いつもパーフェクトでないと気がすまないんだ」
「だって、そうでなきゃやって来れなかったんだもの! そうしなきゃ ——誰かがそうしないと、雑誌が出なかったんだもの」
つい食ってかかるような調子になって、「 ——ごめん。あなたに言ってもしょうがないのにね」
「それが君らしいところなんだよ」
希代子は、チラッと時計に目をやって、
「もう二時半? ——夜の二時過ぎにこんなことしてて、当り前と思ってる職業って、凄いよね」
「仕方ない。そういう仕事なんだ」
「でも ——おかしいと思わなくなるのが怖いわ。それが、たとえば……男との間を遠くするってことだって、あるかもしれない」
「男との間?」
「たとえば、今こうして二人でいるけど、こんなことだって、普通だったらどう思われるか……。とんでもないことよね。奥さんが実家へ帰ってる間に」
「おい待てよ。百合子は君と仲良しなんだ。君がここにいても、何とも思わないさ」
「そうかしら。それは、百合子さんが知らないからよ。私があなたのことを好きだった、ってこと。あなたもそれを知ってるってこと……」
希代子は、藤村のわきへ移ると、もたれかかった。「 ——こうさせてて。これだけでいいの」
「何かあったのか」
「あったって当然でしょ。二十八なのよ。何かあっても当り前でしょ」
希代子は、藤村の肩に顔を伏せると、「疲れたわ……。何もかも放り出して ——どこかへ一人で行っちゃいたい」
と、呟くように言った。
「だから? ——そうしたきゃ、そうすればいい。人にはそんなことも必要さ」
希代子はちょっと笑って、
「意地悪ね。私にそんなことできないって、よく知ってるくせに」
「だから言ってみたんだ」
「ひどい奴」
二人は、軽く笑った。
「 ——ね、どんなに好きでもさ、二十四時間、見張っちゃいられないのよね」
「もちろんそうだ」
「百合子さんも、ここにあなたを置いて、何をしてるか、気になることもあると思うけど……。それとも気にしない? 信じ切ってる?」
「どうかな。 ——信じてる、っていうのとは少し違うだろう。ずっとカメラで監視してるわけにいかないんだから、ある程度のところで諦《あきら》めるしかない。そんなところじゃないか」
「そうね……。みんな、そうなんでしょうね。どんな大事な人にでも、打ち明けられない秘密を、それぞれに抱えてる」
「そりゃあ、大人だからな。言えないこともあるさ」
「そうね。 ——こんなことも、言っちゃだめよ」
希代子は、藤村の肩にぐっと頭をのせて目を閉じていた。
もし ——ここで藤村に抱かれていたとしても、希代子は構わなかったろう。でも、後になれば……。
後で悔むことになる。 ——後で。
いつもそう思ってしまうのだ。後で、後で、と。
いっそ、そんな風に引きずるのなら、何もしない方が、と思ってしまう。
「 ——大丈夫か」
と、藤村が言った。
「ええ」
ふしぎに、水浜を抱くように自然にはなれない。そういう欲求がわいて来ないのだ。
百合子に悪いとか、そういう気持とは別のようだった。
藤村といて居心地がいいのは、結局「男と女」であって、そうでないという、微妙なバランスを楽しんでいるせいなのだろう。
もっとのめり込み、 溺《おぼ》れてみたくても、それには藤村は「仕事でのつながり」の部分が大きすぎる。
「もう行くわ」
と、希代子は体を離して言った。
「乾いてるかな。見て来よう」
立って行く藤村は、明らかにホッとしていた。それが希代子にとっては小さな快感だったのである。