一瞬、目の前の女の子が誰なのか、希代子には分らなかった。
「希代子さん」
「奈保ちゃん!」
と、目をみはって、「驚いた!」
と言うしかなかった。
ゆるくウェーブした髪、くっきりした 眉《まゆ》が顔の印象をずいぶん変えていたが、いたずらっぽく光る眼は以前の通りだった。
銀座通りのティールームで人と待ち合せていた希代子は、少し早く着いてしまって、明るい窓側の席で本を読んでいたのである。
「花の女子大生だ」
と、希代子は言った。「お祝いもあげてないわね」
「そんなこと……」
奈保は向いの席に座って、水を持って来たウェイトレスに、「あ、すぐ行きますから」
と言った。
「仕事、忙しいの?」
と、奈保が訊く。
「相変らずよ。一年なんてすぐたっちゃう。 ——もう、奈保ちゃんが大学生だものなあ」
奈保は、水浜と同じN大の文学部へ入った。今は一年生。変って当然ではあるだろうが、 垢《あか》抜《ぬ》けして、輝くように目立つ子になった。
「水浜君と会ってる?」
と、希代子は訊いた。
「うん。 ——今日もこれから」
と、奈保は微笑んだ。
「そう。 ——まさかここで待ち合せ?」
「この表で。ちょっと冷たいもの飲もうかと思って、中を覗いたら、希代子さんが見えたから」
「そうか。でも、水浜君、もう四年生でしょ? 忙しいでしょう、そろそろ」
「それが、あのけがで入院してて、出席が足らなくてね。また三年生を やってるの」
「あら」
「だから、二年間一緒にいられる。希代子さんのおかげ」
「冗談じゃないわよ」
と、苦笑いする。
「希代子さん」
と、奈保はちょっと目を伏せて、「ごめんなさい。 ——一度、きちんと謝らなくちゃ、って思ってた」
「みんな恋をしてただけ。そうでしょ? 何も悪いことなんかしてないんだから、謝ることないわよ」
「だけど……あんなひどいこと言っちゃったし」
「一応、ひどかったと思ってるわけ?」
と、希代子は笑って、「成長したんだ、奈保ちゃんも」
奈保はホッとした様子で、
「私……彼がよく私のことを選んでくれたなあ、って思って。 ——希代子さんになんて、とてもかなわないのに」
「お世辞まで上手になって」
「本当よ! ——今、恋人いるの?」
「ズバリと訊かないでよ」
希代子は本をパタッと閉じて、「もう若くないんだから、そうさっさと立ち直れないのよ。叔父さん、どうしてる?」
「うん……。時々帰ってくる。大体向うの 女《ひと》の所にいるわ。お母さん、最近は色々習いごと始めて忙しくしてる」
「へえ」
「おかげで、こっちは何も言われなくて助かるけど」
「もし ——叔父さんに会ったら伝えといて。白石は刑が確定したって。体を悪くしてるから、そう長くないかも……」
「うん、分った」
奈保は、じっと希代子を見ていたが、「 ——また、水浜君のオーケストラ、聞きに来ない?」
と訊いた。
「 汝《なんじ》、試すなかれ、よ」
と、人さし指を突きつけて、「聞くなら、もっとうまいオーケストラを聞く」
「あ、ひどい! ——チケット、何枚か預かってるんだ。買ってくれる人、いなくて」
「何だ。どっちがひどいのよ」
二人は一緒に笑った。
——希代子は、奈保が大きくなった、と感じた。
水浜と希代子の関係を知って、何とも思わなかったはずはない。けれども、それを乗り越えたことで、大人になったのだ。
今、二人は同じことで笑える。それは二人が対等ということである。
これだけが、自分の恋の「効用」だったのか?
そう考えるのも、少し寂しい。
だが、あのままなら、みんなが傷つくだけで終ってしまったかもしれない。それが、こんな形でうまく「生きのびた」のなら、それで満足するべきなのだろうか。
「 ——あ、来た」
と、表を見て、奈保が言った。
希代子が目をやると、水浜が明るい通りに立って、奈保が先に来ていないかと左右を見回している。
「早く行ったら?」
と、希代子が言った。「待たせちゃ 可哀《かわい》そうよ」
「うん」
奈保は立ち上るのに、少し間を置いた。「じゃあ……」
「私と会った、なんて言わないのよ」
「どうして?」
「もう終ったんだから、思い出さない方がいいの。分った?」
「うん……。じゃ、そうする」
奈保はホッとしている様子だった。迷っていたのだろう。水浜に言うべきかどうか。
「それじゃ、また」
と、奈保は言って、足早に店を出て行く。
——希代子は、表へ目をやった。
水浜が明るい 日《ひ》射《ざ》しを浴びて立っている。
時折、希代子のいる方へも顔を向けるが、こっちの方が暗いので、ガラスには外の風景が映っていて、中は見えにくいはずだ。
奈保が駆け寄る。水浜は安心したように何か言って、奈保を促した。
今、明るい光の中にいる二人は、希代子からは鮮やか過ぎるほどはっきりと見えるのに、向うはこっちを見られない。
それは、ちょうど希代子と奈保たちの間を形にしたようだ。透き通ったガラスのはずなのに、視界すら一方通行にしてしまう。
二人は、たちまち人ごみの間へ紛れて行った。
希代子が店の中へ視線を戻すと、まぶしい光の残像で店の中がはっきり見えない。少し目を閉じていると、大分おさまって来た。
「 ——失礼」
と、男の声がした。「S社の方ですか?」
「はい。失礼しました」
希代子はあわてて立ち上ると、名刺を取り出した。
「どうも」
「どうも」
二人は互いに言い合って、腰をおろした。
——ガラスの内側では、仕事が始まったのである。