青梅の核には毒があるので食べるなという戒めのことば。これには下の句があり、「梅は食うとも核食うな 中に天神寝てござる」というふうに使われます。天神は言うまでもなく、菅原道真公をさします。道真公が梅を愛した故事から、こうした俗信が生まれました。信州あたりでは、このことわざからさらに「梅《うめ》の核《さね》を噛《か》み破《やぶ》れば字《じ》を忘《わす》れる」ということわざが生まれ、今日まで伝わっております。天神様が文字詩歌の神様として崇《あが》められ、天神講が全国に普及していたむかしのことを考えれば、こうした言い伝えの生まれ出るのもムリからぬ話と言えましょう。
青梅の核にはアミグダリンという青酸配糖体が含まれていて、未熟なものは核がやわらかで砕けやすく、砕けるとアミグダリンは酵素分解によって青酸を生じます。そのため、未熟な青梅には、古人が戒めたように有害な青酸が含まれていて、食べすぎると腹痛を起こします。
葉がくれに黄ばみて見ゆる梅の実の 照るか五月の雨のはれ間に
原久胤
梅を「うめ」というのは、梅の字音を日本式に読んだもので、『万葉集』には、宇米、有米、烏梅《うばい》などの用字があります。
古い伝説によれば、この木はスサノオノミコトが朝鮮から輸入した「八十樹種《やそこたね》」の中に数えられているといわれ、また、仁徳天皇が弟の稚《わき》朗子《いらつこ》と互いに皇位を譲りあい、三年の間、帝位空しかったという兄弟愛の美しさを讃えて、百済《くだら》よりの帰化人(稚朗子の師)王仁《わに》が——
難波津に咲くや木の花冬ごもり 今を春べに咲くや木の花
と詠《うた》った「木の花」は、この梅のことだったとも言われます。
『万葉集』に出てくる梅の歌は花を詠んだもので、果実は食べるよりも烏梅という薬品(当時、薬用として輸入された「ふすべうめ」のことで梅の実を燻製《くんせい》にしたもの)として早くから知られていました。
青梅に眉あつめたる美人かな 蕪村
青梅にはクエン酸やリンゴ酸が多くふくまれ、酸っぱく、核には青酸があって中毒を起こしたりするので、大むかしは食べものとしては、あまりたいせつに扱われなかったようです。
一説によれば、梅干しは梅酢をとったあとの廃物=梅の実を利用したのが、そもそもの発端《ほつたん》だといわれます。この梅酢は金工には欠かせぬ重要な役目を担《にな》うもので、中国からメッキの技術が伝わると、金工たちは自らの手で梅酢を造ったと聞きます。今日では梅酢などほとんど用いませんが、大正期まで、カザリ職人は梅酢を使って仏具やお神輿の金具を金箔でメッキしていたそうです。つまり、強い酸を必要とするとき、梅酢が登場したわけです。梅酢の造り方を教えた中国の古い技術書に、廃物を梅干しに利用することまで書いていないところから推《お》すと、梅干しは日本人の発明になるもののようです。『伊呂波字類抄《いろはじるいしよう》』に、はじめて「烏梅ウメホシ、梅干」と登場するので、中世のころには塩漬けにして日に乾した梅の実を「梅干」と称するようになっていたようですが、当初は専《もつぱ》ら薬用として使われ、食品として発展するには江戸時代を待たねばなりませんでした。
青梅の核にはアミグダリンという青酸配糖体が含まれていて、未熟なものは核がやわらかで砕けやすく、砕けるとアミグダリンは酵素分解によって青酸を生じます。そのため、未熟な青梅には、古人が戒めたように有害な青酸が含まれていて、食べすぎると腹痛を起こします。
葉がくれに黄ばみて見ゆる梅の実の 照るか五月の雨のはれ間に
原久胤
梅を「うめ」というのは、梅の字音を日本式に読んだもので、『万葉集』には、宇米、有米、烏梅《うばい》などの用字があります。
古い伝説によれば、この木はスサノオノミコトが朝鮮から輸入した「八十樹種《やそこたね》」の中に数えられているといわれ、また、仁徳天皇が弟の稚《わき》朗子《いらつこ》と互いに皇位を譲りあい、三年の間、帝位空しかったという兄弟愛の美しさを讃えて、百済《くだら》よりの帰化人(稚朗子の師)王仁《わに》が——
難波津に咲くや木の花冬ごもり 今を春べに咲くや木の花
と詠《うた》った「木の花」は、この梅のことだったとも言われます。
『万葉集』に出てくる梅の歌は花を詠んだもので、果実は食べるよりも烏梅という薬品(当時、薬用として輸入された「ふすべうめ」のことで梅の実を燻製《くんせい》にしたもの)として早くから知られていました。
青梅に眉あつめたる美人かな 蕪村
青梅にはクエン酸やリンゴ酸が多くふくまれ、酸っぱく、核には青酸があって中毒を起こしたりするので、大むかしは食べものとしては、あまりたいせつに扱われなかったようです。
一説によれば、梅干しは梅酢をとったあとの廃物=梅の実を利用したのが、そもそもの発端《ほつたん》だといわれます。この梅酢は金工には欠かせぬ重要な役目を担《にな》うもので、中国からメッキの技術が伝わると、金工たちは自らの手で梅酢を造ったと聞きます。今日では梅酢などほとんど用いませんが、大正期まで、カザリ職人は梅酢を使って仏具やお神輿の金具を金箔でメッキしていたそうです。つまり、強い酸を必要とするとき、梅酢が登場したわけです。梅酢の造り方を教えた中国の古い技術書に、廃物を梅干しに利用することまで書いていないところから推《お》すと、梅干しは日本人の発明になるもののようです。『伊呂波字類抄《いろはじるいしよう》』に、はじめて「烏梅ウメホシ、梅干」と登場するので、中世のころには塩漬けにして日に乾した梅の実を「梅干」と称するようになっていたようですが、当初は専《もつぱ》ら薬用として使われ、食品として発展するには江戸時代を待たねばなりませんでした。