第一の殺人
それから一時間程後、パノラマ館の入口で、大野雷蔵とその恋人の人見折枝の二人が、地上に引いた線を踏んで、両手を前につき、お尻をもったて、何とも奇妙千万な格好で、じっと前方を見つめていた。
「いいかい。用意! 一、二、三」
雷蔵のかけ声で、二人は勇ましくスタートを切った。森の向に見える迷路の二つの入口から、別々に入って、早く中心の「奥の院」へ着いたものが勝ち、という障害物競走だ。
ただの駈っこなら、折枝は到底雷蔵の敵ではない。現に出発間もなく、雷蔵は数メートルも先に走っている。だが、折枝は迷路の中での智恵比べで、先着になる自信があった。迷路については大ざっぱな男よりも、案内を知っている積りであった。
彼女は、雷蔵よりは遙かにおくれながら、でも失望することなく、約束に従って東の入口から、迷路にかけ込んだ。
半間程の、曲りくねった細い通路の両側には、陽をさえぎって、見上げるばかりの丈余の生垣だ。生垣と云っては当らぬ。向側を透して見ることも出来ぬ、ビッシリと枝を交え、葉を重ねた大木の行列だ。それに茨が細い網を張り、蔦がからみ、分けて出ることは勿論、昇りついて越すことも、全く不可能になっている。そんな風にして逃げ出せるのだったら、迷路の意味を為さぬからだ。
一歩迷路に踏み込むと、樹木の高塀の陰影のせいか、夕方の様に薄暗く、寒々として、その上何とも云えぬ、押えつける様な静けさだ。園内の花火場で、誰のいたずらか、時々、ドカーンと花火を上げる音の外には音もない。案内は知っているつもりでも、歩いている内に、いつしか道に迷ってしまった。一度や二度で覚え込める程なら、迷路とは云えぬ。迷えばこそ迷路なのだ。高い生垣で区切られた狭い空を見上げると、太陽も見える。風船や観覧車の一部も見える。空に開いた花火の、黄色い煙が竜の様に下って来るのも眺められる。だが、いくらその様な目印があったとて、平地を歩くのではないのだから、何にもならぬ。空ばかり見て中心へと向っていても、いつしか袋小路に行当って、動きがとれなくなってしまうのだ。
曲り曲った果しも知らぬ夢の細道、行っても行っても永劫に尽きることなき狂気の細道、折枝はふと怖くなった。一度おじけづくと、もう際限がない、襟足の生毛がゾーッと音を立てて逆立ち、開いた毛穴から、水の様に冷い風がしみ込むのだ。
足なみは、心臓の鼓動と共に早くなる。ヒタヒタ、ヒタヒタ、我が足音を不気味に聞きながら、急ぎに急ぐ。
と、その足音とは調子の違うもう一つの足音が、入混って耳をうち始めた。谺かしら、それとも気のせいかしら、イヤ、そうではない。確に人の足音、力強い男の足音だ。アア分った、大野さんだわ。あの人が木の葉の壁一重向うを歩いているのだ。二人の通路が偶然隣り合わせになったのだ。
「大野さんじゃなくって?」
声をかけると、先方の足音がピッタリ止った。覗いたとて見えぬけれど、木の葉の層の事故、声はよく聞えるのだ。
「折ちゃんかい」やっぱり大野雷蔵だ。
「エエ、そうよ。あたし道に迷っちゃって」
「ウン、僕もさっきから、何だか同じ所をグルグル廻っている様な鹽梅だよ。……君こちらへ来られない?」
「駄目よ、行こうと思えば、却って離れてしまうばかりだわ」
事実、声する方へ曲って行くつもりでも、道は気違いの様に、突拍子もない方向にそれているのだ。
「でも、行って見るわ。あなたも、こちらへ来られなくって?」
そこで、二人はてんでんに、現に一尺とは離れず話し合っている、相手のありかを探す為に出発した。そして、案の定、お互に近づこうとあせればあせる程、いつしか、声も聞き取れぬ程遠ざかって行った。
折枝はもどかしさ、不気味さに、汗びっしょりになって、当てどもなく、同じ細道をテクテク、テクテク歩いていた。まだ上げている花火の音が、忘れた頃に、ドカーン、ドカーンと、彼女の心臓を飛上らせた。
暫くすると、彼女はハッと息を飲んで立止った。妙な音を聞いたのだ。耳鳴りではない。確に人の声だ。しかも断末魔の苦悶を現わす、何とも云えぬ物凄い唸り声だ。
「ウム……」という、悲痛なうめき。一二秒間を置いて、「ク、ク、ク……」と、歯ぎしりをする様な、或は泣きじゃくりをしている様な、一種名状し難い、低い物音が聞えて来た。
折枝はゾッとして、暫くは口も利けなかったが、やっと喉の自由を取返すと、思わず、
「大野さーん」と、突拍子もない叫び声を立てた。
「オーイ」
ずっとずっと遠くの方から、男の声が答えた。アア、やっぱりさっきの唸り声は大野さんではなかったのだ。だが、すると、彼女と大野さんとの中間に、何者かがいるのかしら、しかも、あのうめき声は決してただ事でない。急病でも起したのだろうか。イヤイヤ、どうもそうではないらしい。若しやその人は、何か恐ろしい目に合っているのではあるまいか。
「折枝さん、どこだい」
今度はやや近い所で、大野さんの声がした。
「ここよ」
「今の、聞いたかい!」
アア、ではやっぱり本当なのだ。大野さんもあれを聞いたのだ。
「エエ」
「どうも変だぜ。あれはただの唸り声ではなかったぜ」
「そうよ。あたしも、そう思うのよ」
「オーイ、そこにいるのは誰だ」
大野さんが、見えぬ相手に呼びかけた。併し、何の返事もない。
「変だな。あんな恐ろしい唸り声を立てた奴が、どこかへ行ってしまう筈はないが……ひょっとしたら、死んだんじゃないかしら」
あの調子は、どう考えても断末魔の唸り声に相違なかった。
「あたし、怖いわ」
折枝は、もう真青になって、姿は見えぬ大野さんの声に、すがりつき度い程に思った。
「待ってい給え、僕が探して見るから」
大野さんはそう云って、暫くその辺を歩き廻っている様子であったが、やがて、思いもかけぬ方角から、
「ワッ」
という恐ろしい叫び声が聞えて来た。
迷路の鬼
「大野さあん、大野さあん」
人見折枝は、今にも絞め殺される様な悲鳴を上げて、見えぬ彼方の恋人を呼んだ。
無理もない。九十九折の薄暗い迷路の中で、道に迷って泣き出し相になっていた折も折、隙見も叶わぬ立木の壁の、つい二重三重向側で、恐ろしい事件が起ったのだ。ゾッとする様な断末魔のうめき声、続いて現場を見に行った大野さんの「ワッ」という頓狂な叫び、ただ事ではない。大野さん程の人が、あんな声を立てるのは、よもただ事ではない。
「オーイ、折枝さん大変だあ、早く外へ出て、誰か呼んで来てくれえ」
雷蔵の惶しい声が聞えて来る。
外へ出るとて、この迷路を急に抜け出せるものではない。
「誰なの? そこにいるのは。そして、一体どうしたって云うの?」
折枝も一生懸命の声をはり上げて、兎も角も細い迷路を走り出した。じっとしていられなかったからだ。
「ちま子さんだ」
雷蔵の声が走る折枝の耳に入った。
「エ、ちま子さんがどうしたって云うの?」
彼女はグルグル迷路を折れ曲りながら、息を切らして叫んだ。
「どうしたの?」
尋ねても、何故か返事がない。口に出して云えない程恐ろしい事かも知れない。
「アア、そこを走っているのは折枝さんかい」
立木の壁のすぐ向側から雷蔵の声だ。いつの間にか、びっくりする程接近していた。
「そうよ。して、ちま子さんがどうしたの?」
目にこそ見えね、相手がすぐ側にいると分ると、折枝は声を低めて、又尋ねた。
すると雷蔵の方でも、異様な囁き声で、初めて事の次第を告げた。
「殺されているんだよ。背中に短刀が突き刺さって、血まみれになって……」
目の前に立ちふさがった緑の壁から、姿はなくて、不気味な囁き声ばかりが、シュウシュウと漏れて来る。しかも世にも恐ろしい囁き声が。
「マア……」
と声を呑んで、立ちすくんだまま、折枝は二の句がつげなかった。
「君、その辺に人の気配はしなかったかい。誰かに出会わなかったかい」
雷蔵の声が一層低められた。
「イイエ、でもどうして?」
「犯人さ。ちま子さんを殺した奴が、まだこの迷路の中にウロウロしているかも知れないのだ」
折枝はそれを聞くと、ゾーッとして身体中の血が冷たくなる様な気がした。
「あたし誰にも……」彼女は蚊の様な声になって「あんたは? 誰か見て?」
「見ない。だが、足音を聞いた。僕がここへ、ちま子さんの倒れている所へ駈けつけた時、黒い風みたいなものが逃げ出して行った。バタバタと足音がした」
ヒソヒソ声が、まるで怪談でも聞いている様に物凄く感じられた。
「怖い。あたし怖いわ。どうしましょう。あんたどうかしてこちらへ来られない? 一人ぼっちじゃ心細いわ」
折枝が泣き声になって見えぬ姿にすがりつく様に云った。
「それよりも、早くみんなに、このことを知らせなきゃ、……君も一生懸命に出口を探し給え。僕もそうするから。ただ……」
「エ、なんておっしゃったの?」
「ただね、ちま子さんを殺した奴を用心し給え、姿は見えなくても、足音でも聞いたら、大きな声で、怒鳴るんだ。いいかい」
「あたし怖くって歩けないわ。早くこちらへ来て下さいな」
「ウン。だが、うまく行けるかどうだか」
そして、雷蔵の惶しい足音が遠ざかって行った。
見上げるばかりの密樹の壁にはさまれた、薄暗い細道に、たった一人取残された折枝は、もう生きた空もなかった。
大野さんを呼び戻したかったが、恐ろしい殺人犯人がまだその辺にいると思うと、声を立てることも憚られた。
気がつくと、腋の下が冷たい汗でジトジトになっていた。
足はしびれが切れた様に云うことをきかなかった。
しかし、じっと立止っているのも恐ろしい。かなわぬまでも出口を探して、寸時も早く迷路から逃れ度い。
彼女は力の抜けた足を踏みしめて、いきなり走り出した。
両側をドス黒い木立の壁が、あとへあとへと飛び去るばかりで、迷路は果しもなく続いた。出よう出ようとあせればあせる程、却て中へ入って行くのかも知れなかった。
ふと気がつくと、ハタハタ、ハタハタ、どこからか人の足音が聞えて来た。
「アア有難い。大野さんが近くを走っていらっしゃる」
と思うと、グッと気が強くなった。
「大野さん」
低い声で呼んで見た。
答えはない。ハタハタ、ハタハタ、足音ばかりだ。
「大野さーん」
耐まり兼ねて思わず大声を上げた。
しかし、相手はやっぱり答えない。黙々として走っている。
「オヤ変だぞ。アア、ひょっとしたら……」
ギョクンと心臓が喉の辺まで飛上った。あの足音の主こそ、若しや恐ろしい人殺しではあるまいか。そうだ。きっとそうだ。こんなに呼んでも答えぬのは、それに極まっている。
折枝は怖さに一層足を早めた。喉がひからびて、心臓が破れ相に鼓動する。
行手に急な曲り角があった。折枝はもう無我夢中でその角を曲った。
と同時に、五六間向うの同じ様な曲り角を、ヒョイと飛び出した奴がある。
「アレエ……」
我にもあらず、業々しい悲鳴を上げて、折枝はその場に立ちすくんだ。
先方も驚いたらしい。ハッと思う間に、忽ち姿を隠してしまった。
確に大野さんではなかった。大野さんが折枝の姿を見て逃出す筈はないからだ。では今のは何者であったか。残念ながら、折枝はそれを見極めるひまがなかった。咄嗟の場合着衣の色さえ気附かなかった。だが、女ではない。ズボンをはいていた。そして、非常に小柄な男であった。恐らく女の折枝よりも背が低かった。
耳をすますと、ハタハタ、ハタハタ、遠ざかって行く、曲者の足音がする。
折枝はその足音が消えるのを待って、いきなりうしろへ走り出した。滅茶滅茶に走った。迷路を出ることなど、もう考えなかった。ただじっとしていられないのだ。
グルグル、グルグル廻っている内に、パッと眼界が開けて、広い場所へ出た。だが、迷路の外ではない。その中心の広場なのだ。所謂奥の院という場所だ。
真中に一脚のベンチが据えてあった。そのベンチの足元に、白と赤とのダンダラの塊が転がっていた。血にまみれた諸口ちま子の死骸であった。
簡単な白い絹服の背中にニョッキリ短剣の柄丈けが生えていた。刄の方は全部ちま子の体内へ隠れているのだ。
絹服は、鮮かな血のりの縞模様に染まって、空を掴んだ両手と、もがいた両足とが、白っぽく根元まで現われていた。
ちま子は無論全く絶命していた。