迷路の鬼
「大野さあん、大野さあん」
人見折枝は、今にも絞め殺される様な悲鳴を上げて、見えぬ彼方の恋人を呼んだ。
無理もない。九十九折の薄暗い迷路の中で、道に迷って泣き出し相になっていた折も折、隙見も叶わぬ立木の壁の、つい二重三重向側で、恐ろしい事件が起ったのだ。ゾッとする様な断末魔のうめき声、続いて現場を見に行った大野さんの「ワッ」という頓狂な叫び、ただ事ではない。大野さん程の人が、あんな声を立てるのは、よもただ事ではない。
「オーイ、折枝さん大変だあ、早く外へ出て、誰か呼んで来てくれえ」
雷蔵の惶しい声が聞えて来る。
外へ出るとて、この迷路を急に抜け出せるものではない。
「誰なの? そこにいるのは。そして、一体どうしたって云うの?」
折枝も一生懸命の声をはり上げて、兎も角も細い迷路を走り出した。じっとしていられなかったからだ。
「ちま子さんだ」
雷蔵の声が走る折枝の耳に入った。
「エ、ちま子さんがどうしたって云うの?」
彼女はグルグル迷路を折れ曲りながら、息を切らして叫んだ。
「どうしたの?」
尋ねても、何故か返事がない。口に出して云えない程恐ろしい事かも知れない。
「アア、そこを走っているのは折枝さんかい」
立木の壁のすぐ向側から雷蔵の声だ。いつの間にか、びっくりする程接近していた。
「そうよ。して、ちま子さんがどうしたの?」
目にこそ見えね、相手がすぐ側にいると分ると、折枝は声を低めて、又尋ねた。
すると雷蔵の方でも、異様な囁き声で、初めて事の次第を告げた。
「殺されているんだよ。背中に短刀が突き刺さって、血まみれになって……」
目の前に立ちふさがった緑の壁から、姿はなくて、不気味な囁き声ばかりが、シュウシュウと漏れて来る。しかも世にも恐ろしい囁き声が。
「マア……」
と声を呑んで、立ちすくんだまま、折枝は二の句がつげなかった。
「君、その辺に人の気配はしなかったかい。誰かに出会わなかったかい」
雷蔵の声が一層低められた。
「イイエ、でもどうして?」
「犯人さ。ちま子さんを殺した奴が、まだこの迷路の中にウロウロしているかも知れないのだ」
折枝はそれを聞くと、ゾーッとして身体中の血が冷たくなる様な気がした。
「あたし誰にも……」彼女は蚊の様な声になって「あんたは? 誰か見て?」
「見ない。だが、足音を聞いた。僕がここへ、ちま子さんの倒れている所へ駈けつけた時、黒い風みたいなものが逃げ出して行った。バタバタと足音がした」
ヒソヒソ声が、まるで怪談でも聞いている様に物凄く感じられた。
「怖い。あたし怖いわ。どうしましょう。あんたどうかしてこちらへ来られない? 一人ぼっちじゃ心細いわ」
折枝が泣き声になって見えぬ姿にすがりつく様に云った。
「それよりも、早くみんなに、このことを知らせなきゃ、……君も一生懸命に出口を探し給え。僕もそうするから。ただ……」
「エ、なんておっしゃったの?」
「ただね、ちま子さんを殺した奴を用心し給え、姿は見えなくても、足音でも聞いたら、大きな声で、怒鳴るんだ。いいかい」
「あたし怖くって歩けないわ。早くこちらへ来て下さいな」
「ウン。だが、うまく行けるかどうだか」
そして、雷蔵の惶しい足音が遠ざかって行った。
見上げるばかりの密樹の壁にはさまれた、薄暗い細道に、たった一人取残された折枝は、もう生きた空もなかった。
大野さんを呼び戻したかったが、恐ろしい殺人犯人がまだその辺にいると思うと、声を立てることも憚られた。
気がつくと、腋の下が冷たい汗でジトジトになっていた。
足はしびれが切れた様に云うことをきかなかった。
しかし、じっと立止っているのも恐ろしい。かなわぬまでも出口を探して、寸時も早く迷路から逃れ度い。
彼女は力の抜けた足を踏みしめて、いきなり走り出した。
両側をドス黒い木立の壁が、あとへあとへと飛び去るばかりで、迷路は果しもなく続いた。出よう出ようとあせればあせる程、却て中へ入って行くのかも知れなかった。
ふと気がつくと、ハタハタ、ハタハタ、どこからか人の足音が聞えて来た。
「アア有難い。大野さんが近くを走っていらっしゃる」
と思うと、グッと気が強くなった。
「大野さん」
低い声で呼んで見た。
答えはない。ハタハタ、ハタハタ、足音ばかりだ。
「大野さーん」
耐まり兼ねて思わず大声を上げた。
しかし、相手はやっぱり答えない。黙々として走っている。
「オヤ変だぞ。アア、ひょっとしたら……」
ギョクンと心臓が喉の辺まで飛上った。あの足音の主こそ、若しや恐ろしい人殺しではあるまいか。そうだ。きっとそうだ。こんなに呼んでも答えぬのは、それに極まっている。
折枝は怖さに一層足を早めた。喉がひからびて、心臓が破れ相に鼓動する。
行手に急な曲り角があった。折枝はもう無我夢中でその角を曲った。
と同時に、五六間向うの同じ様な曲り角を、ヒョイと飛び出した奴がある。
「アレエ……」
我にもあらず、業々しい悲鳴を上げて、折枝はその場に立ちすくんだ。
先方も驚いたらしい。ハッと思う間に、忽ち姿を隠してしまった。
確に大野さんではなかった。大野さんが折枝の姿を見て逃出す筈はないからだ。では今のは何者であったか。残念ながら、折枝はそれを見極めるひまがなかった。咄嗟の場合着衣の色さえ気附かなかった。だが、女ではない。ズボンをはいていた。そして、非常に小柄な男であった。恐らく女の折枝よりも背が低かった。
耳をすますと、ハタハタ、ハタハタ、遠ざかって行く、曲者の足音がする。
折枝はその足音が消えるのを待って、いきなりうしろへ走り出した。滅茶滅茶に走った。迷路を出ることなど、もう考えなかった。ただじっとしていられないのだ。
グルグル、グルグル廻っている内に、パッと眼界が開けて、広い場所へ出た。だが、迷路の外ではない。その中心の広場なのだ。所謂奥の院という場所だ。
真中に一脚のベンチが据えてあった。そのベンチの足元に、白と赤とのダンダラの塊が転がっていた。血にまみれた諸口ちま子の死骸であった。
簡単な白い絹服の背中にニョッキリ短剣の柄丈けが生えていた。刄の方は全部ちま子の体内へ隠れているのだ。
絹服は、鮮かな血のりの縞模様に染まって、空を掴んだ両手と、もがいた両足とが、白っぽく根元まで現われていた。
ちま子は無論全く絶命していた。