大迷路
それらの建造物の中で、ジロ氏が最も力をこめ、又園内第一の怪奇物に相違ないものは、樹木をビッシリ植え並べ、一度這入ったら、迷い迷って、一時間や二時間では到底出口の見つからぬ、迷路の作り物であった。
絵に書いた迷路なら、鉛筆でたどって行けば、訳もなく中心に達し、また入口に戻ることも出来ようが、本物の迷路となると、見世物の「八幡の籔知らず」でさえ、迷い込んだらちょっと出られぬものだ。
それを、迷う様に、迷う様にと、考えに考えて設計し、少しも隙間のない、高い樹木の壁で通路を作り、面積は僅か一丁四方程の中に、一里に余る迂余曲折の細道を作ってあるのだから、世界迷路史に通暁せる達人と雖も、その中心を極め、再び入口に引返すことは難中の難事である。
音に聞くハンプトン・コートの扇形迷路、ヴェルサイユ宮殿の方形迷路、なども、遠くこれには及ばず、強いて比類を求めるならば、歴史家の雄大なる幻想として残っている、古代エジプトの大ラビリンスであろうか。上下三千の部屋からなっていたという、あのべら棒な規模には比肩すべくもないけれど、その設計の理智的な複雑さに於ては、寧ろジロ娯楽園の迷路に団扇を上げなければならぬであろう。
さて、この怪奇物語は、右の難解なる迷路の中で行われた、いとも不可思議なる殺人事件を発端とするのであるが、その殺人事件に話を進める前に、一応登場人物のお目見えをさせて置かねばなるまい。
時は初夏、青々と奥底知れず澄み渡った大空に、一沫の雲もなく、太陽は娯楽園の山々谷々、奇怪なる建築物の数々を、白と黒とのクッキリした陰影に染め為して、その全景を、立昇る陽炎と共に、鏡の青空へそのまま投影させているかに見えた。
開園当時の、招待客雑沓時代が過ぎて、ジロ楽園は、本当の仲間内丈けの、気兼ねのない遊楽地となっていた。
もう客案内をする用のない悪魔姿の船頭は、ゴンドラ舟を陸上げして、椎の木蔭に昼寝をしていた。随って、園の出入口は、全く交通を途絶せられ、園内にさ迷い入る邪魔者を気に掛ける必要もなく、猟奇の同人達は思うがままに遊び狂うことが出来るのだ。
その同人というのは、園主の喜多川治良右衛門を初めとして、左の悪友男女の一群であった。
○木下鮎子――治良右衛門の恋人、二十歳、急流の鮎の様にピチピチと快活な娘。
○諸口ちま子――治良右衛門のもう一人の恋人、二十一歳、ロマンティクな女詩人にして女画家、楽園の設計をも手伝った才能ある娘。
○大野雷蔵――治良右衛門の少年時代よりの親友、三十五歳、世に容れられぬ劇作家、怪奇なる幻想家。
○人見折枝――雷蔵の恋人、十九歳、けしの花の様に美しく無邪気な資産家令嬢。
○湯本譲次――治良右衛門の友人、婦女誘拐の前科者、あらゆる猟奇的嗜好を有する不良型、二十九歳。
○原田麗子――湯本の恋人、湯本の恐ろしき打擲に甘んじ、寧ろそれを喜んでいるかに見える猟奇娘、二十三歳の大柄な豊満娘。
○三谷二郎――十六歳の人形みたいな美少年、やや不良、同人達のペット。
その他悪友男女十数人、この物語には端役の人々故、ここに名を記さず、必要に応じて紹介する。外に、娯楽建造物の運転係、掃除係、案内係、楽師等傭人数十名、これも必要に応じて紹介することにするが、中に一人左の人物は最も注意すべきである。
○餌差宗助――ひどいせむしで一寸法師、十四五歳の子供の胴体に、でっかい大人の顔が乗っかっている。青年だか老人だか、一見年齢不明の怪物、治良右衛門の秘書兼園内総監督の要職を勤む、イソップの如き智恵者。
人名羅列で叙景が中断されたが、先に云った初夏、青空に雲なき一日のことである。事件の起る一時間程前、右の主要人物達は、園内の天然プール(前述の小川が流れ込む池のことだ)に集まって、全裸のほしいままなる遊戯にふけっていた。
「サア、用意は出来て? 飛込むわよ」
人見折枝の無邪気な甲高声が、天然岩の飛込台から、ほがらかに青空に響いた。彼女は岩の上で、両手を頭上に揃えて、今や池中目がけて飛込まん姿勢である。青黒い岩上に、クッキリ白い肉塊、肩に垂れた結ばぬ黒髪、名画「巖の処女」である。
「いいよウ、早く飛び込みなよウ」
誰かが水の中から答えた。鮎子、治良右衛門、ちま子、雷蔵、麗子、譲次、二郎の順で、お互に前の者の腿に手をかけてつながったまま浮かんでいる。たくましき男性筋肉と、なよやかな女性肉塊の、だんだら珠数つなぎがウネウネと海蛇の様に蠢き漂うのだ。
「ホーラ!」
空に声を残して、折枝の肉塊が鞠の様にクルクル廻転しながら、バチャンと水煙を立てた。
底までもぐって、スーイと浮かんで、頭を出すと、丁度蛇の頭の鮎子の前だ。鮎子が右に左に通せんぼうをするのを、巧にかい潜って、尻尾の二郎美少年を捕まえる遊戯だ。陸上の「子を取ろ、子取ろ」である。
巨大なる海蛇は、クルリクルリと全身を波うたせて、尻尾を掴まれまいと、或は浮び、或は沈み、水面から池底へ、池底から水面へと、美しき肉塊の魚紋を描いて、なまめかしくも、のたうち廻る。
令嬢折枝は、水中蛇退治の女勇士だ。敵の通せんぼうをかい潜りかい潜り、立泳ぎ、蛙泳ぎ、抜き手、片抜手、美しき筋肉運動の限りを尽して、美少年のお尻へと追い縋る。
岸には見物の男女が、これも裸体の肩を組み、手を握り合って、笑い興じながらこの有様を眺めている。
野外、水中舞踊の一幕だ。
遂に、二郎少年は折枝の為に足を掴まれて、ブクブクと水中に沈んだ。折枝は掴んだ足を離さじと、敵と共にこれも水面から消えて行く。
美しき少年少女が、水底の物狂わしき掴み合い、その有様が、透き通る水を通して、奇怪に歪んで、見物達にも見えるのだ。
「ワーッ、ワーッ」というときの声、尻尾を奪われた蛇は、もうバラバラに離れて泳ぎながら、彼等も水底の活劇を眺めている。
勝負はついた。二郎少年は息が尽きて、とうとう降参してしまった。
「サア、今度は二郎さんが鬼よ」水面に浮き上った折枝が、息を切らしながら、叫んだ。
「イヤ、もう止そう。何も二郎君をかばう訳じゃないけれど、僕はもう疲れた。例の天上のベッドで一休みだ」
治良右衛門は、云いながら、もう上陸して、サッサと山の向うへ歩いて行く。天上のベッドとは、観覧車の空にかかった箱の中のクッションを意味するのだ。彼はこの不思議な寝室で、大空に眠る習慣になっていたのだ。
「あたしもよすわ。これから、あたしの夢殿へ行って、美しい夢でも見ることにしましょう」
と、諸口ちま子が続いて上陸した。彼女の夢殿というのは、例の迷路の中心の所謂「奥の院」という場所に据えてあるベンチのことで、そこに腰かけて、一人ぼっちになって、静かに瞑想に耽ろうという訳なのだ。
「じゃあ、みんな、メリー・ゴー・ラウンドへ行かない。あすこで、もう一騒ぎ騒ぎましょうよ」
麗子が音頭をとると、残る一同それに賛成して、裸体のまま、赤と白との男女が一団を為して小山へと駈け上って行った。例の辷り道を横転逆転しながら、燕の様に囀りながら、目的の場所へと急ぐことであろう。