恐ろしきランニング
その時園内の別の広場では、来賓達の奇妙な徒歩競走が行われていた。
これも亦都合十人、紅白ダンダラ染めのユニフォームを着せられ、胸には1から10までの番号札をつけた紳士淑女が、向うの森の決勝点めがけて、オチニ、オチニ、息を切らして走っていた。
長距離だ。一千メートル。彼等は已に九百メートルを走った。
無論彼等も酔っぱらっていた。それ故苦しかった。
鼻眼鏡の紳士は、鼻眼鏡が落ちそうになるのを片手で押えながら、真赤な顔をして、ホウホウかけ声をして威勢よく先頭を切っていた。その次には断髪のマダムが、美しい顔を歪め、断髪をうしろになびかせ、三十歳のお乳とお尻をダブダブさせながら、第二位を走っていた。それから、痩せっぽちの肺病やみの青年が、それから、李の様に赤くて丸くてすべっこい顔のお嬢さんが、それから、それからと、九人のユニフォームが一二間おきに続いて、ドン尻には、樽の様な肥満紳士が、横に転がった方が早いくせに、転がりもしないで、エッチラオッチラ走っていた。感心に一人の落伍者もなかった。
彼等の足並に合せて、コースの三ヶ所で、「宮さん宮さん」のジンタ楽隊が、陽気に鳴り響いていた。空からはひっきりなしに花火玉が炸裂して、五色の雪が、美しい昆虫の大群の様に舞い降りて来た。ランナア達はその五色の雪を身にあびて、それを蹴立てて、瘋癲病院の運動会の様に、走りに走った。
ゴールには、二本の柱の間に、白いテープが一文字に張られ、その一方の柱の側に、警官姿の治良右衛門が、第一着を報じる為にピストルを構えながら立ちはだかっていた。
「ホーイ、ホーイ、七番しっかり、九番しっかり」
治良右衛門は足踏みをしながら、声援した。
先頭の鼻眼鏡が遂にゴールに迫った。彼の両足は疲労の為にガクンガクンと今にも膝をつき相に見えた。
「ウォーッ!」
彼は獣物の様に咆哮して、白いテープに向って突進した。
ギラギラと光る、幅の広いテープは、一本の棒の様に伸び切って、先着者を待ち構えていた。
一間が一尺となり、一尺が一寸となり、鼻眼鏡のつき出した腹部が、テープにつき当った。普通なれば、テープは選手の身体と共に伸びて、曲って、プッツリ切断される筈であった。そして、ドンと号砲がうち上げられる筈であった。
ところが、この奇妙なテープは、鼻眼鏡の腹に押されても、伸びも曲りも切断されもしなかった。それどころか、実に恐ろしいことには、切断されたのは、勢込んで走って来た鼻眼鏡の腹の方であった。
選手がテープにぶつかると同時に、彼の腹部からしぶきの様なものが、サッとほとばしって、赤い液体がテープの面をツーッと走った。
それから、丁度打上げられた花火の音と一緒に、「ギャッ」という声がして、鼻眼鏡の両手が、変な格好で空中に乱舞した。同時に彼の腰から下は、地上に倒れて、二三度コロコロと転がった。という意味は、彼の両手のついている腹から上の部分と、足の方とが、別々に行動した。つまり、鼻眼鏡の選手は、二つに切断された訳である。
すばらしい切れ味だ。
テープと見えたのは、それ丈けの長さに鍛えさせた鋼鉄の剣であった。それに白い塗料を塗って、遠目に布のテープと見せかけてあったのだ。
長い剣の刄は、選手達の方角に向けて、とぎすましてあった。触った丈けでも切れるのだ。それに、一千メートルの勢をつけて、ぶッかったのだから、骨もろとも、真二つにチョン切られたとて不思議でない。
一直線の剣は、一人を屠って、血を啜って、快感にブルンブルンと震えていた。
第二着は、断髪マダムの成熟し切った白い肉塊。
彼女は、第一着の選手に起った変化を理解する暇がなかった。お酒に酔っていたし、疲労の為に眼もくらんでいた。
剃刀の様なテープが、ビーンと鳴った。
アッと云う間に、マダムの胴体は、お尻から下をあとに残して、空中にもんどり打っていた。
真赤な血が、美しくほとばしって、「ハーッ」という、溜息の様な声が聞えた。
残る八人のランナアは、次から次とこの恐ろしきテープに引かかった。命を失ったもの三人、傷つき倒れたもの五人、無傷で逃げ出したのはたった二人であった。それ程彼等は酔っぱらって、目がくらんでいた。場内の狂気めいた空気に作用されていた。
ゴールには、全くチョン切られた二人と、半ちぎれの六人とが、重なり合って、倒れ、転がり、もがき、踊っていた。
すると、云い合せた様に、三ヶ所のジンタ楽隊の曲目が「宮さん宮さん」から「猫じゃ猫じゃ」に変って行った。
半ちぎれの肉塊共の猫踊り、化猫踊り。
事実彼等は、胸から腹から、沸々と血を吹き出しながら、その音楽に調子を合せて、ピョコンピョコンと、苦しまぎれの化猫踊りを踊ったのである。
五色の雪の吹雪の中で、白いのや黒いのや、筋ばったのやポチャポチャしたのや、男女様々の肉塊共が、タラタラと血を流しながら、断末魔の手拍子、足拍子面白く、美しくも物凄き気違い踊りを踊り抜いたのである。