布引氏は用意のピストルを出して見せた。
「イヤ、どうしまして。ペテンにかけるなんて滅相な。わたしの方も大切な取引ですからね。そのお得意様をだます様な不心得は致しませんよ。……では、どうか」
云いながら、ゴリラはスーッと襖を開いた。
だが、襖の奥は文目も分かぬ暗闇だ。仮令そこに照子がいたとしても、見える訳がない。
「オヤ、真暗じゃないか」
布引氏は襖の間から顔をさし出して、暗闇の室内に瞳を定めた。
と、襖の蔭からニュッとばかり、何か白いものが飛び出して来て、鼻と口をふさいだ。
ハッとして身を引こうとすると、いつの間にか、うしろからゴリラ奴が鉄の様な両腕ではがい締めにして、小ゆるぎもさせぬ。
「ム、ム……」
とうめきながら首を振っている内に、目の痛い様な強烈な匂が、全身にしみ渡って行った。そして、布引氏は不甲斐なくも、いつしか意識を失ってしまった。襖の蔭から飛出した白いものは、云うまでもなく麻睡薬をしませた布で、そこにもう一人の悪党が潜んでいて、彼の不意をうった訳だ。
どの位の時間がたったのか、ふと夢から醒める様に目を開くと、布引氏は真暗な部屋に、転がされていた。
さては賊に一杯食わされたかと、ふところを探って見ると、案の定、紙幣を包んだ風呂敷包みがなくなっている。ピストルまで持去ったと見えて、その辺をなで廻しても、手に触れるものもない。
「アア俺の思い違いだった。泥棒を紳士扱いして、度量を見せたのが、飛んでもない失策だった」
布引氏は大人げない失敗に苦笑しながら立上った。幸どこにも危害を加えられた様子はない。命丈けは助けてくれたのだ。
彼は手さぐりで、縁側に出て雨戸を開けた。兎も角、こう暗くては、自分の身のまわりを見ることも出来なかったからである。
一枚二枚雨戸をくると、曇り日ではあったが、まぶしい程の明るさが、室内にさし込んだ。
布引氏は、振り向いて座敷を眺めた。
と、彼はギクンとして、そこへ棒立ちになってしまった。
彼は、まだ麻睡の夢が醒め切らぬのではないかと疑った。
何がかくも布引氏を驚き恐れしめたのか。読者はとっくに御存知だ。そこには世にも奇怪なる男女の情死体が重なり合って倒れていたのである。
下になっているのは、照子さんの長襦袢一枚の姿だ。その上にのしかかって絶命しているのは、昨朝別れたままの鳥井青年だ。
成程、賊は嘘は云わなかった。この部屋には確かに照子さんがいた。もう一人「よくご存知の男」もいた。併し、二人とも絶命してだ。
布引氏は、あっけにとられて、不思議な情死者をマジマジと眺めていた。
賊は何故この二人を殺す必要があったのだろう。身代金を奪ってしまえば、何も危険な殺人罪を犯すことはないではないか。
少し近よって見ると、鳥井青年の首に青あざがあって、絞殺されていることが分った。と同時に、布引氏は照子さんの皮膚を見た。そして、我子ながら、ゾーッとして、思わず顔をそむけないではいられなかった。
照子は顔から胸から壁の様に白粉を塗られて、殆ど皮膚の生地は見えぬ程になっていたが、それでも、白粉のひび割れた箇所、手足などに、毒々しく、紫色の斑紋が現われていた。目は白っぽく濁って、まるで魚の目の様であったし、皮膚のある部分は已にくずれて、トロンと皮がめくれていた。
最も無残なのはその胸であった。無数の掻き疵が所きらわずつけられ、その上、水母の様にうず高くなった乳房の上に、鳥井青年の断末魔の歪んだ指が、熊手の様に肉深く喰入っていた。
何と恐ろしい情死であろう。男はつい今しがたこときれたばかりなのに、女の肉は腐りただれて、明かに死後数日を経過したことを語っている。