夜の大道を、四五丁も走る内に、どの横丁へそれたのか、忽ち相手の車を見失ってしまった。その辺をグルグル廻って見たけれど、どこにもそれらしい自動車は見当らぬ。
仕方がないので、庄兵衛氏は、捜索をあきらめ、再び自邸に向って車を走らせたが、考えて見ると、何とやら狐につままれた感じだ。
照子は数日前彼の目の前で息を引取り、ちゃんと葬式まですました。現に彼女の棺が火葬場の竈の中へ納められるのを目撃した。その死んだ照子が、今頃自動車に乗って、町を走っている筈はないのだ。
だが、さっきの娘は、確かに照子の顔を持っていた。あんなによく似た他人があろうとは思われぬ。のみならず、「お父さま」と呼びかけさえした。よその娘が、そんなことを云う訳はない。実に不思議だ。
気の迷いかしら。何か奇妙な偶然が、わしにあんな幻視と幻聴を起させたのかしら。それとも、なき娘の幽魂が、冥途をさまよい出て、夜の暗さにまぎれ、懐しい父に逢いに来たのであろうか。
庄兵衛氏は、通り魔の様に、彼の目をかすめて消え去った娘の姿を、何と解釈してよいのか、途方にくれてしまった。
余り馬鹿馬鹿しい様なことなので、自宅に帰っても、夫人の園子に打明けることを差控えた。つまらぬことを云い出して、又母を泣かせるでもないと思ったからだ。
「お父さま、助けて……」と叫んだ娘の声が耳について、ひどく気掛りではあったが、まさか、こんな夢みたいな話を警察に持込んで、捜索を願う訳にも行かぬので、庄兵衛氏はきっと幻覚であったに違いないと、強いても忘れる様にした。