恐ろしき文身
布引氏が、この椿事を警察に訴え出たことは云うまでもない。急報に接して、検事局、警視庁、所管警察署から係り官が駈けつけ、直ちに綿密周到なる取調が行われた。
現場には、これという手掛りは何一つ残されていなかった。賊の遺留品は勿論、指紋一つ発見出来なかった。賊は空屋を無断借用していたのだから、家主を調べて見ても、何の得る所もなかった。又布引氏にも、鳥井青年の知人達にも、照子さんなり、鳥井青年なりが、これ程恨みを受ける様な心当りは、全くなかった。
だが、二つだけ明確に分っていたことがある。その第一は、婚礼写真に顔を曝しているゴリラ男だ。これが賊の同類であることは、布引氏の証言によって明かである。そこで、警察は、婚礼写真を唯一の手掛りとして、醜怪なるゴリラ男を探し出すことに、全力を傾けた。
第二の手掛りというのは、これは読者にまだ分っていない事柄だが、この事件を更らに怪奇不思議ならしめた所の「犯罪者のプロパガンダ」と謂われた、大胆不敵な賊の自己紹介であった。
賊は犯罪現場に名刺を残して行ったのだ。だが、ありふれた紙の名刺ではない。
流石事に慣れた警察官達も、この不気味千万な賊の自己紹介を発見した時には、思わず「アッ」と声を立てて、顔をそむけた程であった。
その時、係官達は照子さんの死体を更める為に、そのまわりに集っていた。
死後数日を経た腐爛死体は、何とも云えぬ悪臭を放って、触ればズルズルと皮膚がめくれて来そうで、着物を脱がせるのにひどく骨が折れた。
厚化粧の顔丈けが、人形の様に美しくて、その首のすぐ下に、灰色の腐肉が続いているのは、何とも云えぬ変てこな感じだった。
死体をソッとうつむけて、警察医と巡査と二人がかりで、艶かしい長襦袢をはいで行った。赤い錦紗縮緬がグルグルとめくれて行く下から、照子さんの灰色の背中がむごたらしく現われて来た。
「ワッ、ひどい傷だ」
誰かが、思わず叫んだ。
灰色の背中一面、蚯蚓の這い廻った様な、ドス黒い傷痕がある。だが、何という複雑な傷をつけたものであろう。イヤ、傷ではない。何だかえたいの知れぬ変てこなものだ。……イヤイヤ、やっぱり傷痕だ。でなくて、こんな恐ろしい蚯蚓ばれが出来るものか。併し、傷は傷でも、決して並々の傷ではない。