空中の怪文字
その翌日、大江蘭堂は鎌倉に住んでいる友人から、電話の呼出しを受けた。急に話し度い事件が起ったが、あいにく風心地で寝ているから、勝手ながら、こちらへお昼までに着く様に、御足労が願い度いという、書生の声だ。
早速行って見ると、どうしたというのだ。風を引いて寝ている筈の友人は、朝から東京へ出掛けて留守だというし、書生に聞いて見ても、電話なんかかけた覚がないということであった。
「オヤ、こいつは変だぞ。するとやっぱり、昨日の米粒は、賊の挑戦状だったのかな。俺の留守中に、京子さんがどうかされているのじゃないかしら」
と思うと気が気でなく、直ぐ東京へ引返そうと、友人の玄関を出た途端、ふと妙なものが彼の目にとまった。
それは新聞の号外みたいな一枚の紙片で、初号活字でベタベタと何か印刷したものであったが、風に吹かれて、ヒラヒラと地上を飛んで行くのを、目で追っている内に、ヒョイと「恐怖王」という活字が見えた。
「オヤッ」と思って、それを追ったが、小さなつむじ風が、どこまでも紙片を運んで行くので、ついそれに引かされて、海岸へのダラダラ坂を降り切ってしまった。
やっと紙片をつかまえて、読んでみると、例の怪賊についての号外かと思ったのが、そうではなくて、やっぱり、賊の不気味ないたずらであったことが分った。紙片には、例の米粒と同じ様に、「恐怖王」という初号活字が、まるで活字屋の見本の様に、べた一面に並んでいた。
「賊の広告ビラだな。併し、何という気違いだろう。こうして到る所に自分の名前を広告するなんて。馬鹿か、でなければ、恐ろしく自信に満ちた奴だぞ」
稚気と云えば稚気に相違ないけれど、こういう稚気のある奴に限って、ずば抜けた独創力に恵まれているものだ。東西の犯罪史を繙けば分る様に、大犯罪者であればある程、常人には理解し難い様な、子供らしい、馬鹿げた虚栄心を持っているのだ。
そんなことを考えながら、ヒョイと目を上げて海岸を眺めると、これはどうしたというのだ。水泳の時期をとっくに過ぎた海岸に、真夏の様な夥しい群衆が群がっているではないか。
その人達は無論水着を着ている訳ではなく、漁師の細君連中、海岸近くの商家の小僧さん達、中には都会風の紳士、淑女も混って、皆一様に空を眺めている。
「アア、飛行機だな」
と気づいて、人々の視線をたどって、空を見上げると、珍らしくもない飛行機が、この黒山の見物人を引きつけている訳が分った。