指さす砂浜を見渡すと、人通りのない広い地面に、乞食の足跡と、蘭堂自身の靴の跡と重なり合って、目も遙かに、異様な曲線を描いていた。なる程、ここへ上って見ると、その足跡がハッキリとローマ字の形になっている。
さし渡し半町程のべら棒な巨大文字。その余りの大きさに、我が靴跡で描きながら、少しもそれと気づかなかったのだ。
Kyofuo ……やっぱり「恐怖王」の六文字だ。
ハテナ、さっきの空の煙幕が、地面に影を投げているのではあるまいかと、妙な気持になって、空を眺めたが、煙幕は已に溶け去って、そこには最早や何のくもりもなかった。
すると煙の文字が、地上に落ちて、そのままあの砂浜へしみ込んでしまったのかしら。流石の探偵小説家も、頭がどうかしたのではないかと、疑わないではいられなかった。
何という無駄な、馬鹿馬鹿しい、しかもずば抜けた賊の自己宣伝であろう。死人の肌の糜爛文字、米粒の表面の極微文字、そして今は又、大空の黒雲かと見まがう煙幕文字、地上の足跡の砂文字、これは一体どうしたというのだ。
賊は悪魔の宣伝ビラを、所きらわず撒き散らしているのだ。一分の米粒も賊の名刺だ。眼界一杯の大空も賊の名刺だ。
気違いか? イヤイヤ気違いにこんな秩序ある放れ業が演じられるものではない。彼奴は正気なのだ。正気でこのべら棒ないたずらをやっているのだ。こいつは大物だぞ! 布引照子さんの事件なんか、ほんの小手調べに過ぎないのだ。彼奴は今やっと、世間に彼奴の名刺をふり撒いているではないか。自己紹介が済めば、これより愈々本舞台という段取りなのではあるまいか。
だが、そんなことを考えている時ではない。さしずめ曲者はあの乞食だ。蘭堂は乞食の歩くままに尾行したからこそ、あんな文字が現われた。つまりこの怪文字のかき手はあの乞食であったのだ。
見ると、乞食奴、いつの間にか五六町向うの海岸を豆の様に小さく歩いて行く。
「ウヌ、逃がすものか」
蘭堂は石垣を駈け降りると、一散に乞食のあとを追った。五間、十間、二十間、瞬く内に二人の距離はせばめられて行く。
乞食奴、ふり返って追手を見ると、矢庭に駈け出したが、どうも余り駈けっこはお得意でないらしい。ヨタヨタと妙な恰好で走って行くが、到底のっぽの蘭堂の敵ではない。
「待て、聞きたいことがある」
とうとう、追手の猿臂が乞食の襟髪にかかった。