未亡人
襟髪を掴まれた乞食は騒ぐ様子もなく、ふてぶてしく立止って、ヒョイと振返った。大江の顔と乞食の顔が一尺程の近さで、真正面に向き合った。
海岸のの大空を背景に、バアと大写しになった乞食の顔。
大江はギョッとして思わず手を離した。長い髪の毛(無論に相違ない)で顔を隠していた為、今の今まで気づかなかったが、この乞食こそ、外ならぬゴリラ男であった。大江はゴリラ男を見知っている訳ではないけれど、その異様な相貌を見ては、それと気づかぬ訳には行かぬ。
おの様な乱れ髪の鬘の下から、狭い額、ギョロリとした両眼、平べったい鼻、厚い唇、むき出した大きな真白い、は「どうだ驚いたか」と云わぬばかりに、ゲラゲラ笑っていたのだ。身の毛もよだつ、醜怪千万な笑い顔。
彼はこの顔を見せる為に、態と大江に追いつかせたのだ。そして、例によって「恐怖王」のデモンストレーションをやって置いて、改めて逃げ出そうというのだ。
ゴリラのことだ、力も足も人間の及ぶ所ではない。彼は大江の一瞬の放心を見すまして、矢庭に走り出した。その早いこと、足ばかりでなく、両手も使って、猿の走り方で走るかと思われた程だ。
「、待てッ」
大江はこの怪獣に対して、不思議なりを感じないではいられなかった。何を顧慮する余裕もなく、ただ無性にに触った。彼も駈けっこでは人に劣らぬ自信がある。いきなりゴリラを追って走り出した。見渡す限り人なき砂浜を、のけだものと人間との死にもの狂いの競走だ。
ゴリラは二三丁走ると、とある砂丘をかけ上って、町の方へ曲った。林や原っぱを中にはさんで、ヒッソリとした大邸宅が建ち並んでいる淋しい場所だ。
賊はそれらの建物の高いやコンクリートの間を縫って、は右に或は左に、クルクルと逃げ廻ったが、どう間違ったのか、塀と塀とで出来た袋小路へ駈け込んでしまった。両側とものコンクリート塀だ。突き当りは高い石垣になって、逃げ込むはない。
「しめた。とうとうえたぞ」
大江蘭堂は勇躍して敵に迫った。もう十間だ。もう五間だ。
ゴリラはコンクリート塀の根元にって動かなくなった。遂に観念したのか。それとも、迫り来る追手に飛びかかろうと身構えしているのか。イヤ、そうではなかった。彼は丁度動物園の猿の様に、ピョイと身軽く塀に飛びついたかと思うと、非常なすばやさで、スルスルと、その丈余の塀を乗り越えてしまった。誰の邸とも分らぬ大邸宅の庭へ逃込んでしまった。