「もうお暇します。おそくなると家で心配しますから」
辞退をすると、
「家とおっしゃって、奥様もいらっしゃらない癖に」
と忽ち逆襲だ。
「マア、およろしいではございませんか。このお酒お口に合いませんでしょう。今ね、今お口に合うのを、あたし持って参りますからね」
夏子は少しよろめく様に立って、手で「待っていらっしゃいよ」と合図しながら、一方のドアから出て行った。
蘭堂は酔わぬといっても、強いられた強い洋酒に、頭の中が少し熱っぽくなって、この立派な邸宅での思いがけぬもてなしが、いや、そればかりではない、昼間からの空中文字、砂文字、ゴリラ男までが、何かこう本当でない、悪夢でも見ていた様な気持ちになって来るのであった。
彼が、そうしてボンヤリと白い卓布に頬杖をついていた時、突然、これも亦悪夢の様に、どこかの部屋から、鋭い女の悲鳴が聞えて来た。
「オヤ」と思って、聞耳を立てると、
「助けて! 助けて! 大江先生助けて!」
という、恥も外分もない叫び声は、確かに夏子未亡人だ。
捨てては置けぬ。蘭堂は夢の中の様に立上って、廊下へ駈け出した。廊下のはしには、女中達が目白押しにかたまって進みも得せず、かたえの室を指さしている。明かに救いを求める叫び声は、そこのドアの中から漏れているのだ。
彼はいきなりドアを開いて、室内に飛込んだ。
「畜生ッ、貴様まだこんな所にいたんだな」
思わず叫んで、有り合う椅子の背を掴んだ。
ゴリラだ。ゴリラ男が、夏子の上に馬乗りになって、その喉をしめつけている。夏子は、空色のワンピースの裾を破って、夢中にもがきながら抵抗している。
「邪魔するな。お前、あっちへ行ってろ」
賊は猩々の様に真赤になって、恐ろしい目で蘭堂を睨みつけ、途切れ途切れに唸った。
「止せ。止さぬと、叩き殺してくれるぞ」
蘭堂は椅子を振り上げて、ゴリラの頭上から打ちおろす身構えをした。
「早く、早く、こいつを叩きつけて」
夏子が、みだらに顔を歪めて、息も絶え絶えに叫ぶ。
「ウヌ、これでもか」
蘭堂は、振り上げた椅子を、力まかせに叩きつけた。
「ギャッ」
という、けだものの悲鳴。
ゴリラは肩先をやられて、やっと夏子の上から立上ったが、今度は蘭堂に向って、白い大きな歯を噛みならし、恐ろしいうなり声を発しながら、全く大猿の恰好で飛びかかって来た。