けだものと人間とは、一かたまりに組合って、床の上を転げ廻った。蘭堂は少々柔道の心得があったけれど、野獣にかかっては、何の甲斐もなく、一転、二転、三転する内には、遂にゴリラ男の下敷きになってしまった。
「生意気な、貴様絞め殺してやるぞ」
ゴリラの毛むくじゃらな両手が、ジリジリと喉を絞めはじめた。
蘭堂はもう力が尽きてはね返す気力はなかった。絞めつけられた彼の紅顔は、見る見る紫色にふくれ上って行った。
「ヒヒヒ……、青二才め、どうだ苦しいか。もう少しの我慢だ。今に気が遠くなって、極楽往生だぜ。云い残すことはないかね。ヒヒヒヒヒヒヒ、云い残そうにも口が利けまい」
けだものは、残酷にも、ゆるめては絞め、ゆるめては絞め、しかも徐々に両手の力を加えて行った。
と、その時突然、ビシーンという銃声が聞えたかと思うと、部屋の窓ガラスがガラガラと砕け落た。
「サアお放し、その手をお放し、でないと、今度はお前の背中だよ」
組合った二人のうしろに、いつの間にか小型のピストルを手にした夏子未亡人が、精一杯の力で、歯を食いしばって突立っていた。ピストル持つ手がワナワナと震えている。
流石の猛獣も飛道具には敵わぬ。ゴリラは不承不精に手を放して立上ると、ジリジリとドアの方へあとじさりを始めた。
「大江先生、しっかりして下さいまし。大丈夫ですか」
夏子はピストルを構えたまま、倒れた蘭堂の上にかがみ込んで叫んだ。
蘭堂は喉をさすりながら、ムクムクと起き上った。まだへこたれてはいない。立上るなり大声に怒鳴って駈け出した。
「待て、畜生、今度こそ逃がさぬぞ」
夏子が蘭堂に気をとられている隙に、ゴリラはドアの外へ逃げ出していたのだ。蘭堂はそのあとを追って廊下へ飛出した。
ゴリラは見通しの廊下を、背を丸くして、這う様に走って行く。だが、どう戸まどいしたのか、入口とは反対の方角だ。廊下の突き当りは部屋になっている。ゴリラは、いきなりそのドアを開いて部屋の中に隠れた。間髪を容れず蘭堂も同じドアから飛込む。
それは、来客用の寝室らしく、寝台と小卓と二脚の椅子と、小箪笥の外には何もない至極アッサリした部屋であった。人間の隠れる場所は寝台の下を除いてはどこにもない。窓は内部から締がしてある。しかも、ガラス窓の外には鉄格子が見えている。
それにも拘らず、蘭堂が飛び込んで見ると、そこには人影もなかったのだ。寝台の下を覗いて見たのは云うまでもない。その外箪笥の蔭にも、ドアのうしろにも、どこにもゴリラの姿は見えぬ。不思議だ。怪物は煙の様に消えてなくなったのだ。
そこへ、オズオズ夏子が這入って来た。
「消えてしまったのです。まさかこの部屋に秘密戸がある訳ではないでしょうね」
蘭堂がボンヤリして尋ねた。
「そんなものございませんわ。本当にこの部屋へ逃げましたの」
「それは間違いありません。一足違いで、僕が飛び込んだのです。ホンの五六秒の差です。それに、あいつは影も形もなくなっていたのです」
蘭堂はやっぱり悪夢にうなされている気持だった。
それから、長い間かかって、その寝室は勿論、凡ての部屋部屋、台所の隅までも、隈なく探し廻ったが、人間はおろか一匹の猫さえも飛出して来なかった。
ゴリラ男は忍術を使うのだろうか、それとも何か人間世界にはない猿族の妖術をでも心得ていたのだろうか。
だが、いくら人外の生物とて、煙となって立昇る筈はない。そこには何かしら人目をくらます欺瞞があったのだ。それがどの様なものだかは、やがて判明する時があるだろう。